University of Virginia Library

内侍所都入

新中納言、「見べき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、乳人子の伊賀平内左衞門家長を召て「いかに日比の約束は違まじきか。」と宣へば、「子細にや及候。」と申。中納言に、鎧二領著せ奉り、我身も鎧二領著て、手を取組で海へぞ入にける。是を見て侍共廿餘人後たてまつらじと手に手を取組で一所に沈みけり。其中に、越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨四郎兵衞は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落にけり。海上には赤旗赤幟共、投捨かなぐり捨たりければ、龍田川の紅葉葉を、嵐の吹散したるがごとし。汀に寄る白浪も、薄紅にぞ成にける。主もなき虚しき船は、潮に引かれ風に從て、いづくを指ともなくゆられゆくこそ悲しけれ。生捕には、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衞門督清宗、内藏頭信基、讃岐中將時實、兵部少輔雅明、大臣殿の八歳になり給ふ若公、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納言律師仲快、經誦坊阿闍梨融圓、侍には源大夫判官季貞、攝津判官盛澄、橘内左衞門季康、藤内左衞門信康、阿波民部重能父子、以上三十八人也。菊池次郎高直、原田大夫種直は、軍以前より郎等共相具して降人に參る。女房達には、女院、北の政所、廊御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局以下、四十三人とぞ聞えし

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元歴二年の春の暮、如何なる年月にて一人海底に沈み、百官波上に浮らん。國母官女は、東夷西戎の手に從ひ、臣下卿相は數萬の軍旅にとらはれて、舊里に歸り給ひしに、或は朱買臣が錦をきざる事を歎き、或は王昭君が胡國に赴きし恨も、かくやとぞ悲み給ひける。

同四月三日、九郎大夫判官義經、源八廣綱を以て、院の御所へ奏聞せられけるは、去三月二十四日、豐前國田浦門司關、長門國壇浦赤間關にて、平家を責め落し三種神器事故なう返し入れ奉るの由、申されたりければ、院中の上下騒動す。廣綱を御坪の内へ召し、合戰の次第を委しう御尋ありて、御感のあまり左兵衞尉に成されけり。「一定内侍所返り入らせ給ふか、見て參れ。」とて、五日、北面に候ける藤判官信盛を西國へ差遣はさる。宿所へも歸らず、やがて院の御馬を給はて鞭を擧げ、西をさしてぞ馳下る。

同十四日、九郎大夫判官義經、平氏男女の生捕共相具して上りけるが、播磨國明石浦にぞ著にける。名を得たる浦なれば、深行くまゝに月すみ上り、秋の空にもおとらず。女房達差つどひて、「一年是を通りしには、かゝるべしとは思はざりき。」などいひて、忍音に泣合れけり。帥佐殿つくづく月を詠め給ひ、いと思ひ殘す事もおはせざりければ、涙に床も浮くばかりにて、かうぞ思ひ續け給ふ。

ながむればぬるゝ袂にやどりけり、月よ雲井の物語せよ。

治部卿局

雲のうへに見しにかはらぬ月影の、すみにつけても物ぞかなしき。

大納言佐局

我身こそ明石浦に旅寢せめ、同じ浪にもやどる月哉。

「さこそ物悲しう昔戀しうもおはしけめ。」と判官猛き武士なれども、情ある男士なれば、身に染て哀にぞ思はれける。

同二十五日、内侍所、璽の御箱、鳥羽に著せ給ふと聞えしかば、内裏より御迎に參らせ給ふ人々、勘解由小路中納言經房卿、高倉宰相中將泰通、權右中辨兼忠、左衞門權佐親雅、榎並中將公時、但馬少將教能、武士には伊豆藏人大夫頼兼、石河判官代能兼、左衞門尉有綱とぞ聞えし。其夜の子刻に、内侍所、璽の御箱、太政官の廳に入せ給。寶劔は失にけり。神璽は海上に浮びたりけるを、片岡太郎經春が、取上奉たりけるとぞきこえし。

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[2] NKBT has 。 at this point.