University of Virginia Library

2.4. 夢應の鯉魚

むかし延長の頃。三井寺に興義といふ僧ありけり。絵に巧なるをもて名を世にゆるさ れけり。嘗に画く所。佛像山水花鳥を事とせず。寺務の間ある日は湖に小舩をうかへ て。網引釣する泉郎に銭を与へ。獲たる魚をもとの江に放ちて。其魚の遊躍を見ては 画きけるほどに。年を經て細妙にいたりけり。或ときは絵に心を凝して眠をさそへば。 ゆめの裏に江に入て。大小の魚とともに遊ぶ。覚れば即見つるまゝを画きて壁に貼し。 みづから呼て夢應の鯉魚と名付けり。其絵の妙なるを感て乞要むるもの前後をあらそ へば。只花鳥山水は乞にまかせてあたへ。鯉魚の絵はあながちに惜みて。人毎に戯れ ていふ。生を殺し鮮を喰ふ凡俗の人に。法師の養ふ魚必しも与へずとなん。其絵と俳 諧とゝもに天下に聞えけり。一とせ病に係りて。七日を經て忽に眼を閉息絶てむなし くなりぬ。徒弟友とぢあつまりて歎き惜みけるが。只心頭のあたりの微し暖なるにぞ。 若やと居めぐりて守りつも三日を經にけるに。手足すこし動き出るやうなりしが。忽 長嘘を吐て。眼をひらき。醒たるがごとくに起あかりて。人々にむかひ我人事をわす れて既に久し幾日をか過しけん。衆弟等いふ。師三日前に息たえ給ひぬ。寺中の人々 をはじめ。日比睦まじくかたり給ふ殿原も詣給ひて葬の事をもはかり給ひぬれど只師 が心頭の暖なるを見て。柩にも蔵めでかく守り侍りしに。今や蘇生給ふにつきて。か しこくも物せざりしよと怡びあへり興義點頭ていふ。誰にもあれ一人檀家の平の助の 殿の館に詣て告さんは。法師こそ不思議に生侍れ。君今酒を酌鮮き鱠をつくらしめ給 ふ。しばらく宴を罷て寺に詣させ給へ。稀有の物がたり聞えまいらせんとて。彼人々 のある形を見よ。我詞に露たがはじといふ。使異しみながら彼館に往て其由をいひ入 れてうかゞひ見るに。主の助をはじめ。令弟の十郎。家の子掃守なと居めぐりて酒を 酌ゐたる。師が詞のたがはぬを竒とす。助の館の人々此事を聞て大に異しみ。先箸を 止て。十郎掃守をも召具して寺に到る。興義枕をあげて路次の労ひをかたしけなうす れば。助も蘇生の賀を述ぶ。興義先問ていふ。君試に我いふ事を聞せ給へかの漁父文 四に魚をあつらへ給ふ事ありや。助驚きて。まことにさる事ありいかにしてしらせ給 ふや。興義。かの漁父三尺あまりの魚を篭に入て君が門に入。君は賢弟と南面の所に 碁を囲みておはす。掃守傍に侍りて。桃の実の大なるを啗ひつゝ奕の手段を見る。漁 父が大魚を携へ來るを喜びて。高杯に盛たる桃をあたへ。又盃を給ふて三献飲しめ給 ふ。鱠手したり顔に魚をとり出て鱠にせしまで。法師がいふ所たがはでぞあるらめと いふに。助の人々此事を聞て。或は異しみ。或はこゝち惑ひて。かく詳なる言のよし を頻に尋ぬるに。興義かたりていふ。我此頃病にくるしみて堪がたきあまり。其死た るをもしらず。熱きこゝちすこしさまさんものをと。杖に扶られて門を出れは。病も やゝ忘れたるやうにて篭の鳥の雲井にかへるこゝちす。山となく里となく行々て。又 江の畔に出。湖水の碧なるを見るより。現なき心に浴て遊びなんとて。そこに衣を脱 去て。身を跳らして深きに飛入つも。彼此に游めぐるに。幼より水に狎たるにもあら ぬが。慾ふにまかせて戯れけり。今思へば愚なる夢ごゝろなりし。されとも人の水に 浮ふは魚のこゝろよきにはしかす。こゝにて又魚の遊ひをうらやむこゝろおこりぬ傍 にひとつの大魚ありていふ。師のねがふ事いとやすし。待せ給へとて。杳の底に去と 見しに。しばしして。冠装束したる人の。前の大魚に胯がりて。許多のうろくずを牽 ゐて浮ひ來たり我にむかひていふ。海若の詔あり。老僧かねて放生の功徳多し。今江 に入て魚の遊躍をねがふ。権に金鯉が服を授けて水府のたのしみをせさせ給ふ。只餌 の香ばしきに昧まされて。釣の糸にかゝり身を亡ふ事なかれといひて去て見えずなり ぬ。不思議のあまりにおのが身をかへり見れば。いつのまに鱗金光を備へてひとつの 鯉魚と化しぬ。あやしとも思はで。尾を振鰭を動かして心のまゝに逍遥す。まつ長等 の山おろし。立ゐる浪に身をのせて。志賀の大湾の汀に遊べば。かち人の裳のすそぬ らすゆきかひに驚されて。比良の高山影うつる。深き水底に潜くとすれど。かくれ堅 田の漁火によるぞうつゝなき。ぬば玉の夜中の潟にやどる月は。鏡の山の峯に清て。 八十の湊の八十隈もなくておもしろ。沖津嶋山。竹生嶋。波にうつろふ朱の垣こそお どろかるれ。さしも伊吹の山風に。旦妻舩も漕出れば。芦間の夢をさまされ。矢橋の 渡りする人の水なれ棹をのがれては。瀬田の橋守にいくそたびが追れぬ。日あたゝか なれば浮ひ。風あらきときは千尋の底に遊ぶ。急にも飢て食ほしけなるに。彼此にあ さり得ずして狂ひゆくほどに。忽文四が釣を垂るにあふ。其餌はなはだ香し。心又河 伯の戒を守りて思ふ。我は佛の御弟子なり。しばし食を求め得ずとも。なぞもあさま しく魚の餌を飲へきとてそこを去。しばしありて飢ます/\甚しければ。かさねて思 うに。今は堪がたし。たとへ此餌を飲とも鳴呼に捕れんやは。もとより他は相識もの なれば。何のはゞかりかあらんとて遂に餌をのむ。文四はやく糸を收めて我を捕ふ。 こはいかにするぞと叫びぬれとも。他かつて聞ず顔にもてなして縄をもて我腮を貫ぬ き。芦間に舩を繋ぎ。我を篭に押入て君が門を進み入。君は賢弟と南面の間に奕して 遊ばせ給ふ掃守傍に侍りて菓を啗ふ。文四がもて來し大魚を見て人々大に感させ給ふ。 我其とき人々にむかひ聲をはり上て。旁等は興義をわすれ給ふか。宥させ給へ。寺に かへさせ給へと連りに叫びぬれど。人々しらぬ形にもてなして。只手を拍て喜び給ふ。 鱠手なるものまづ我両眼を左手の指にてつよくとらへ。右手に礪すませし刀をとりて 俎盤にのぼし既に切べかりしとき。我くるしさのあまりに大聲をあげて。佛弟子を害 する例やある。我を助けよ/\と哭叫びぬれど。聞入ず。終に切るゝとおほえて夢醒 たりとかたる。人々大に感異しみ。師が物がたりにつきて思ふに。其度ことに魚の口 に動くを見れど。更に聲を出す事なし。かゝる事まのあたりに見しこそいと不思議な れとて。従者を家に走しめて残れる鱠を湖に捨させけり。興義これより病愈て杳の後 天年をもて死ける。其終焉に臨みて画く所の鯉魚数枚をとりて湖に散せば。画ける魚 紙繭をはなれて水に遊戯す。こゝをもて興義か絵世に傳はらず。其弟子成光なるもの。 興義が神妙をつたへて時に名あり。閑院の殿の障子に鶏を画しに。生る鶏この絵を見 て蹴たるよしを。古き物がたりに載たり

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雨月物語二之巻終
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[1]The Ueda Akinari Zenshu reads 古き物がたりに載たり