University of Virginia Library

1. 巻之一

1.1. 白峯

あふ坂の関守にゆるされてより。秋こし山の黄葉見過しがたく。濱千鳥の跡ふみつく る鳴海がた。不盡の高嶺の煙。浮嶋がはら。清見が関。大礒小いその浦々。むらさき 艶ふ武藏野の原塩竈の和たる朝げしき。象潟の蜑が苫や。佐野の舟梁。木曽の桟橋。 心のとゞまらぬかたぞなきに。猶西の國の哥枕見まほしとて。仁安三年の秋は。葭が ちる難波を經て。須磨明石の浦ふく風を身にしめつも。行々讃岐の真尾坂の林といふ にしばらくつゑを植む。草枕はるけき旅路の勞にもあらで。観念修業の便せし庵なり けり。この里ちかき白峰といふ所にこそ。新院の陵ありと聞て。拜みたてまつらばや と。十月はじめつかたかの山に登る。松柏は奥ふかく茂りあひて。青雲の輕靡日すら 小雨そぼふるがごとし。児が嶽といふ嶮しき嶽背に聳だちて。千仭の谷底より雲霧お ひのぼれば。咫尺をも欝悒こゝ地せらる。木立わづかに間たる所に。土たかく積たる が上に。石を三かさねに畳みなしたるが。荊蕀薜蘿にうづもれてうらがなしきを。こ れならん御墓にやと心もかきくらまされて。さらに夢現をもわきがたし。現にまのあ たりに見奉りしは。紫宸清涼の御座に朝政きこしめさせ給ふを。百の官人は。かく賢 き君ぞとて。詔恐みてつかへまつりし。近衞院に禅りましても。藐姑射の山の瓊の林 に禁させ給ふを。思ひきや麋鹿のかよふ跡のみ見えて。詣つかふる人もなき深山の荊 の下に神がくれ給はんとは。万乗の君にてわたらせ給ふさへ。宿世の業といふものゝ おそろしくもそひたてまつりて。罪をのがれさせ給はざりしよと。世のはかなきに思 ひつゞけて涙わき出るがごとし。終夜供養したてまつらばやと。御墓の前のたひらな る石の上に座をしめて。經文徐に誦しつゝも。かつ哥よみてたてまつる

松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり

猶心怠らず供養す。露いかばかり袂にふかヽりけん。日は没しほとに。山深き夜のさ ま常ならね。石の牀木葉の衾いと寒く。神清骨冷て。物とはなしに凄じきこゝちせら る。月は出しかと。茂きが林は影をもらさねば。あやなき闇にうらぶれて。眠るとも なきに。まさしく圓位/\とよぶ聲す。眼をひらきてすかし見れば。其形異なる人の。 背高く痩おとろへたるが。顔のかたち着たる衣の色紋も見えで。こなたにむかひて立 るを。西行もとより道心の法師なれば。恐ろしともなくて。こゝに來たるは誰と答ふ。 かの人いふ。前によみつること葉のかへりこと聞えんとて見えつるなりとて

  
松山の浪にながれてこし舩のやかてむなしくなりにけるかな

喜しくもまうでつるよと聞ゆるに。新院の霊なることをしりて。地にぬかづき涙を流 していふ。さりとていかに迷はせ給ふや。濁世を厭離し給ひつることのうらやましく 侍りてこそ。今夜の法施に随縁したてまつるを。現形し給ふはありがたくも悲しき御 こゝろにし侍り。ひたふるに隔生即忘して。佛果円満の位に昇らせ給へと。情をつく して諫奉る。新院呵々と笑はせ給ひ。汝しらず。近來の世の乱は朕なす事なり。生て ありし日より魔道にこゝろざしをかたふけて。平治の乱を發さしめ。死て猶朝家に祟 をなす。見よ/\やがて天が下に大乱を生ぜしめんといふ。西行此詔に涙をとゞめて。 こは浅ましき御こゝろばへをうけ給はるものかな。君はもとよりも聡明の聞えましま せば。王道のことわりはあきらめさせ給ふ。こゝろみに討ね請すべし。そも保元の御 謀叛は天の神の教給ふことわりにも違はじとておぼし立せ給ふか。又みづからの人慾 より計策給ふか。詳に告せ給へと奏す。其時院の御けしきかはらせ給ひ。汝聞け。帝 位は人の極なり。若人道上より乱す則は。天の命に應じ。民の望に順ふて是を伐。抑 永治の昔。犯せる罪もなきに。父帝の命を恐みて。三歳の體仁に代を禅りし心。人慾 深きといふべからず。體仁早世ましては。朕皇子の重仁こそ国しらすべきものをと。 朕も人も思ひをりしに美福門院が妬みにさへられて。四の宮の雅仁に代を簒はれしは 深き怨にあらずや。重仁國しらすべき才あり。雅仁何らのうつは物ぞ。人の徳をえら はずも。天が下の事を後宮にかたらひ給ふは父帝の罪なりし。されど世にあらせ給ふ ほとは孝信をまもりて。勤色にも出さゞりしを。崩させ給ひてはいつまでありなんと。 武きこゝろざしを發せしなり。臣として君を伐すら。天に應じ民の望にしたがへば。 周八百年の創業となるものを。ましてしるべき位ある身にて。牝鶏の晨する代を取て 代らんに。道を失ふといふべからず。汝家を出て佛に婬し。未來解脱の利慾を願ふ心 より。人道をもて因果に引入れ。尭舜のをしへを釈門に混じて朕に説やと。御聲あ らゝかに告せ給ふ。西行いよゝ恐るゝ色もなく座をすゝみて。君が告せ給ふ所は。人 道のことわりをかりて慾塵をのがれ給はず。遠く辰旦をいふまでもあらず。皇朝の昔 誉田の天皇。兄の皇子大鷦鷯の王をおきて。李の皇子菟道の王を日嗣の太子となし給 ふ。天皇崩御給ひては。兄弟相譲りて位に昇り給はず。三とせをわたりても猶果べく もあらぬを。菟道の王深く憂給ひて。豈久しく生て天が下を煩しめんやとて。みづか ら寳算を断せ給ふものから。罷事なくて兄の皇子御位に即せ給ふ。是天業を重んじ孝 悌をまもり。忠をつくして人慾なし。尭舜の道といふなるべし。本朝に儒教を尊みて 専王道の輔とするは。莵道の王。百済の王仁を召て。斈ばせ給ふをはじめなれば。此 兄弟の王の御心ぞ。即漢土の聖の御心ともいふべし。又周の創。武王一たび怒りて天 下の民を安くす。臣として君を弑すといふべからず。仁を賊み義を賊む。一夫の紂を 誅するなりといふ事。孟子という書にありと人の傳へに聞侍る。されば漢土の書は經 典史策詩文にいたるまで渡さゞるはなきに。かの孟子の書ばかりいまだ日本に來らず。 此書を積て來たる舩は。必しも暴風にあひて沈没よしをいへり。それをいかなる故ぞ ととふに。我國は天照すおほん神の開闢しろしめしゝより。日嗣の大王絶る事なきを。 かく口賢しきをしへを傳へなば。末の世に神孫を奪ふて罪なしといふ敵も出べしと。 八百よろづの神の惡ませ給ふて。神風を起して舩を覆し給ふと聞。されば他國の聖の 教も。こゝの國土にふさはしからぬことすくなからず。且詩にもいはざるや。兄弟牆 に鬩ぐとも外の悔りを禦げよと。さるを骨肉の愛をわすれ給ひ。あまさへ一院崩御給 ひて。殯の宮に肌膚もいまだ寒させたまはぬに。御旗なびかせ弓末ふり立て宝祚をあ らそひ給ふは。不孝の罪これより劇しきはあらじ。天下は神器なり。人のわたくしを もて奪ふとも得べからぬことわりなるを。たとへ重仁王の即位は民の仰ぎ望む所なり とも。徳を布和を施し給はで。道ならぬみわざをもて代を乱し給ふ則は。きのふまで 君を慕ひしも。けふは忽怨敵となりて。本意をも遂たまはで。いにしへより例なき刑 を得給ひて。かゝる鄙の國の土とならせ給ふなり。たゞ/\舊き讐をわすれ給ふて。 浄土にかへらせ給はんこそ願ましき叡慮なれと。はゞかることなく奏ける。院長嘘を つがせ給ひ。今事を正して罪をとふ。ことわりなきにあらず。されどいかにせん。こ の嶋に謫れて。高遠が松山の家に困められ。日に三たびの御膳すゝむるよりは。まい りつかふる者もなし。只天とぶ雁の小夜の枕におとづるゝを聞けば。都にや行らんと なつかしく。暁の千鳥の洲崎にさわぐも。心をくだく種となる。鳥の頭は白くなると も。都には還るべき期もあらねば。定て海畔の鬼とならんずらん。ひたすら後世のた めにとて。五部の大乗經をうつしてけるが。貝鐘の音も聞えぬ荒礒にとゞめんもかな し。せめては筆の跡ばかりを洛の中に入りさせ給へと。仁和寺の御室の許へ。經にそ へてよみておくりける

濱千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音をのみぞ鳴

しかるに少納言信西がはからひとして。若呪咀の心にやらと奏しけるより。そがまゝ にかへされしぞうらみなれ。いにしへより倭漢士ともに。國をあらそいて兄弟敵とな りし例は珎しからねど。罪深き事かなと思ふより。悪心懺悔の為にとて写しぬる御經 なるを。いかにさゝふる者ありとも。親しきを議るべき令にもたがひて筆の跡だも納 給はぬ叡慮こそ。今は舊しき讐なるかな。所詮此經を魔遠に回向して。恨をはるかさ んと。一すぢにおもひ定て。指を破り血をもて願文をうつし。經とゝもに志戸の海に 沈てし後は。人にも見えず深く閉こもりて。ひとへに魔王となるべき大願をちかひし が。はた平治の乱ぞ出きぬる。まづ信頼が高き位を望む驕慢の心をさそふて義朝をか たらはしむ。かの義朝こそ悪き敵なれ。父の為義をはじめ。同胞の武士は皆朕ために 命を捨しに。他一人朕に弓を挽。為朝が勇猛。為義忠政が軍配に贏目を見つるに。西 南の風に焼討せられ。白川の宮を出しより。如意が嶽の嶮しきに足を破られ。或は山 賎の椎柴をおほいて雨露を凌ぎ。終に擒はれて此嶋に謫られしまで。皆義朝が姦しき 計策に困められしなり。これが報ひを虎狼の心に障化して。信頼が陰謀にかたらはせ しかば。地祗に逆ふ罪。武に賢からぬ清盛に遂討る。且父の為義を弑せし報せまりて。 家の子に謀られしは。天神の祟を蒙りしものよ。又少納言信西は。常に己を博士ぶり て。人を拒む心の直からぬこれをさそふて信頼義朝が讐となせしかは。終に家をす てゝ宇治山の坑に竄れしを。はた探し獲られて六条河原に梟首らる。これ經をかへせ し諛言の罪を治めしなりそれがあまり應保の夏は美福門院が命を窮り。長寛の春は忠 道を祟りて。朕も其秋世をさりしかど。猶嗔火熾にして盡ざるまゝに。終に大魔王と なりて。三百余類の巨魁となる。朕けんぞくのなすところ。人の福を見ては轉して禍 とし。世の治るを見ては乱を発さしむ。只清盛が人果大にして。親族氏族こと/\く 高き官位につらなり。おのがまゝなる國政を執行ふといへども。重盛忠義をもて輔く る故いまだ期いたらず。汝見よ。平氏も又久しからじ。雅仁朕につらかりしほどは終 に報ふべきぞと。御聲いやましに恐しく聞えけり。西行いふ。君かくまで魔界の悪業 につながれて。佛土に億万里を隔給へばふたゝびいはじとて。只黙してむかひ居たり ける。時に峯谷ゆすり動きて。風叢林を僵すがごとく。沙石を空に巻上る。見る/\ 一段の陰火君が膝の下より燃上りて。山も谷も昼のごとくあきらかなり。光の中につ ら/\御気色を見たてまつるに。朱をそゝぎたる龍顔に。荊の髪膝にかゝるまで乱れ。 白眼を吊あげ。熱き嘘をくるしげにつがせ給ふ。御衣は柿色のいたうすゝびたるに。 手足の爪は獣のごとく生のびて。さながら魔王の形あさましくもおそろし。空にむか いて相模/\と叫せ給ふ。あと答へて。鳶のごとくの化鳥翔來り。前に伏て詔をまつ。 院かの化鳥にむかひ給ひ。何ぞはやく重盛が命を奪て。雅仁清盛をくるしめざる。化 鳥こたへていふ。上皇の幸福いまだ盡ず。重盛が忠信ちかづきがたし。今より支干一 周を待ば。重盛が命数既に盡なん。他死せば一族の幸福此時に亡べし。院手を拍て怡 ばせ給ひ。かの讐敵こと%\く此前の海に盡すべしと。御聲谷峯に響て凄しさいふべ くもあらず。魔道の浅ましきありさまを見て涙しのぶに堪す。復び一首の哥に随縁の こゝろをすゝめたてまつる

よしや君昔の玉の床とてもかゝらんのちは何にかはせん

刹利も須蛇もかはらぬものをと。心あまりて高らかに吟ける。此のことばを聞しめし て感させ給ふやうなりしが。御面も和らぎ。陰火もやゝうすく消ゆくほどに。つひに 龍體もかきけちたるごとく見えずなれば。化鳥もいつち去けん跡もなく。十日あまり の月は峯にかくれて。木のくれやみのあやなきに。夢路にやすらふが如し。ほどなく いなのめの明ゆく空に。朝鳥の音おもしろく鳴わたれば。かさねて金剛經一巻を供養 したてまつり。山をくだりて庵に帰り。閑に終夜のことゞもを思ひ出るに。平治の乱 よりはしめて。人々の消息。年月のたがひなければ。深く慎みて人にもかたり出ず。 其後十三年を經て治承三年の秋。平の重盛病に係りて世を逝ぬれば。平相國入道。君 をうらみて鳥羽の離宮に篭たてまつり。かさねて福原の茅の宮に困めたてまつる。頼 朝東風に競ひおこり。義仲北雪をはらふて出るに及び。平氏の一門こと%\く西の海 に漂ひ。遂に讃岐の海志戸八嶋にいたりて。武きつはものともおほく鼇魚のはらに葬 られ。赤間が関壇の浦にせまりて。幼主海に入らせたまへば。軍將たちものこりなく 亡びしまで。露たがはざりしぞおそろしくあやしき話柄なりけり。其後御廟は玉もて 雕り。丹青を彩りなして。稜威を崇めたてまつる。かの國にかよふ人は。必幣をさゝ げて斎ひまつるべき御神なりけらし

1.2. 菊花の約

青々たる春の柳。家園に種ることなかれ。交りは輕薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂 りやすくとも。秋の初風の吹に耐めや。輕薄の人は交りやすくして亦速なり。楊柳い くたび春に染れども。輕薄の人は絶て訪ふ日なし。播磨の國加古の駅に丈部左門とい ふ博士あり清貧を憩ひて。友とする書の外はすべて調度の絮煩を厭ふ。老母あり。孟 子の操にゆづらす。常に紡績を事として左門がこゝろざしを助く。其委女なるものは 同じ里の佐用氏に養はる。此佐用が家は頗富さかえて有けるか。丈部母子の賢きを慕 ひ。娘子を娶りて親族となり。屡事に托て物をおくるといへども。口腹の為に人を累 さんやとて敢て承ることなし。一日左門同じ里の何某が許に訪ひて。いにしへ今の物 がたりして興ある時に。壁を隔て人の痛楚聲いともあはれに聞えければ。主に尋ぬる に。あるじ答ふ。これより西の國の人と見ゆるが。伴なひに後れしよしにて一宿を求 らるゝに士家の風ありて卑しからぬと見しまゝに。逗まいらせしに。其夜邪熱劇しく。 起臥も自はまかせられぬを。いとをしさに三日四日は過しぬれど。何地の人ともさだ かならぬに。主も思ひがけぬ過し出て。こゝち惑ひ侍りぬといふ。左門聞て。かなし き物がたりにこそ。あるじの心安からぬもさる事にしあれど。病苦の人はしるべなき 旅の空に此疾を憂ひ給ふは。わきて胸窮しくおはすべし。其やうをも看ばやといふを。 あるじとゞめて。瘟病は人を過つ物と聞ゆるから。家童らもあへてかしこに行しめず。 立よりて身を害し給ふことなかれ。左門笑ていふ。死生命あり。何の病か人に傳ふべ き。これらは愚俗のことばにて吾們はとらづとて。戸を推て入つも其人を見るに。あ るじがかたりしに違はで。倫の人にはあらじを。病深きと見えて。面は黄に。肌黒く 痩。古き衾のうへに悶へ臥す。人なつかしげに左門を見て。湯ひとつ惠み給へといふ。 左門ちかくよりて。士憂へ給ふことなかれ。必救ひまいらすへしとて。あるじと計り て。薬をえらみ。自方を案じ。みづから煮てあたへつも。猶粥をすゝめて。病を看る こと同胞のごとく。まことに捨かたきありさまなり。かの武士左門が愛憐の厚きに泪 を流して。かくまで漂客を惠み給ふ。死すとも御心に報ひたてまつらんといふ。左門 諫て。ちからなきことはな聞え給ひそ。凡疫は日数あり。其ほどを過ぬれば寿命をあ やまたず。吾日々に詣てつかへまいらすべしと。実やかに約りつゝも。心をもちゐて 助けるに。病漸減じてこゝち清しくおぼえければ。あるじにも念比に詞をつくし。左 門が陰徳をたふとみて。其生業をもたづね。己が身の上をもかたりていふ。故出雲の 國松江の郷に生長て。赤穴宗右衛門といふ者なるが。わづかに兵書の旨を察しにより て。冨田の城主塩冶掃部介。吾を師として物斈び給ひしに。近江の佐々木氏綱に密の 使にえらはれて。かの館にとゞまるうち。前の城主尼子經久。山中黨をかたらひて大 三十日の夜不慮に城を乗とりしかば。掃部殿も討死ありしなり。もとより雲州は佐々 木の持國にて。塩冶は守護代なれば。三沢三刀屋を助けて。經久を亡ぼし給へとすゝ むれども。氏綱は外勇にして内怯たる愚将なれば果さず。かへりて吾を國に逗む。故 なき所に永く居らじと。己が身ひとつを竊みて國に還る路に。此疾にかゝりて。思ひ がけずも師を労しむるは。身にあまりたる御恩にこそ。吾半生の命をもて必報ひたて まつらん。左門いふ。見る所を忍びざるは人たるものゝ心なるべければ。厚き詞をを さむるに故なし。猶逗まりていたはり給へと。実ある詞を便りにて日比經るまゝに。 物みな平生に迩くぞなりにける。此日比左門はよき友もとめたりとて。日夜交はりて 物がたりすに。赤穴も諸子百家の事おろ/\かたり出て。問わきまふる心愚ならず。 兵機のことわりはをさ/\しく聞えければ。ひとつとして相ともにたがふ心もなく。 かつ感。かつよろこびて。終に兄弟の盟をなす。赤穴五歳長じたれば。伯氏たるへき 礼儀ををさめて。左門にむかひていふ。吾父母に離れまいらせていとも久し。賢弟が 老母は即吾母なれば。あらたに拝みたてまつらんことを願ふ。老母あはれみてをさな き心を肯給はんや。左門歓びに堪ず。母なる者常に我孤獨を憂ふ。信ある言を告なば 齢も延なんにと。伴ひて家に帰る。老母よろこび迎へて。吾子不才にて。斈ぶ所時に あはず青雲の便りを失なふ。ねがふは捨ずして伯氏たる教を施し給へ赤穴拜していふ。 大丈夫は義を重しとす。功名冨貴はいふに足す吾いま母公の慈愛をかふむり。賢弟の 敬を納むる。何の望かこれに過べきと。よろこびうれしみつゝ。又日來をとゝまりけ る。きのうけふ咲ぬると見し尾上の花も散はてゝ。涼しき風による浪に。とはでもし るき夏の初になりぬ。赤穴母子にむかひて。吾近江を遁來りしも。雲州の動靜を見ん ためなれば。一たび下向てやかて帰來り。菽水の奴に御恩をかへしたてまつるべし。 今のわかれを給へといふ。左門いふ。さあらば兄長いつの時にか帰り給ふへき。赤穴 いふ。月日は逝やすし。おそくとも此秋は過さじ。左門云。秋はいつの日を定て待べ きや。ねがふは約し給へ。赤穴云。重陽の佳節をもて帰來る日とすべし。左門いふ。 兄長必此日をあやまり給ふな。一枝の菊花に薄酒を備へて待たてまつらんと。互に情 をつくして赤穴は西に帰りけり。あら玉の月日はやく經ゆきて。下枝の茱萸色づき。 垣根の野ら菊艶ひやかに。九月にもなりぬ。九日はいつよりも蚤く起出て。草の屋の 席をはらひ。黄菊しら菊ニ枝三枝小瓶に挿。嚢をかたふけて酒飯の設をす。老母云。 かの八雲たつ國は山陰の果にありて。こゝには百里を隔つると聞は。けふとも定かた きに。其來しを見ても物すとも遲からじ。左門云。赤穴は信ある武士なれば必約を誤 らじ。其人をみてあはたゝしからんは思はんことの恥かしとて。美酒を沽ひ鮮魚を宰 て厨に備ふ。此日や天晴て。千里に雲のたちゐもなく。草枕旅ゆく人の群々かたりゆ くは。けふは誰某がよき京入なる。此度の商物によき徳とるべき祥になんとて過。五 十あまりの武士。廿あまりの同じ出立なる。日和はかばかりよかりしものを。明石よ り舩もとめなば。この朝びらきに牛窗の門の泊りは追べき。若き男は却物怯して。錢 おほく費やすことよといふに。殿の上らせ給ふ時。小豆嶋より室津わたりし給ふに。 なまからきめにあはせ給ふを。従に侍りしものゝかたりしを思へば。このほとりの渡 りは必怯べし。な恚給ひそ。魚が橋の蕎麥ふるまひまをさんにといひなぐさめて行。 口とる男の腹だゝしげに。此死馬は眼をもはたけぬかと。荷鞍おしなほして追もて行。 午後

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もやゝかたふきぬれど。待つる人は來らず。西に沈 む日に。宿り急く足のせはしげなるを見るにも。外の方のみまもられて心酔るが如し。 老母左門をよびて。人の心の秋にはあらずとも。菊の色こきはけふのみかは。帰りく る信だにあらば。空は時雨にうつりゆくとも何をか怨べき。入て臥もして。又翌の日 を待べしとあるに。否みがたく。母をすかして前に臥しめ。もしやと戸の外に出て見 れば。銀河影きえ%\に。氷輪我のみを照して淋しきに。軒守る犬の吼る聲すみわた り。浦浪の音ぞこゝもとにたちくるやうなり。月の光も山の際に陰くなれば。今はと て戸を閉て入んとするに。たゞ看。おぼろなる黒影の中に人ありて。風の随來るをあ やしと見れば赤穴宗右衛門なり。踊りあがるこゝちして。小弟蚤くより待て今にいた りぬる。盟たがはで來り給ふことのうれしさよ。いざ入せ給へといふめれど。只點頭 て物をもいはである。左門前にすゝみて。南の窗の下にむかへ座につかしめ。兄長來 り給ふことの遲かりしに。老母も待わびて。翌こそと臥所に入らせ給ふ。寤させまい らせんといへるを。赤穴又頭を揺てとゞめつも。更に物をもいはでぞある。左門云。 既に夜を續て來し給ふに。心も倦足も労れ給ふべし。幸に一杯を酌て歇息給へとて。 酒をあたゝめ。下物を列ねてすゝむるに。赤穴袖をもて面を掩ひ。其臭ひを嫌放るに 似たり。左門いふ。井臼の力はた款す
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に足ざれども。己 が心なり。いやしみ給ふことなかれ。赤穴猶答へもせで。長嘘をつぎつゝ。しばしし ていふ。賢弟が信ある饗應をなどいなむべきことわりやあらん。欺くに詞なければ。 実をもて告るなり。必しもあやしみ給ひそ。吾は陽世の人にあらず。きたなき霊のか りに形を見えつるなり。左門大に驚きて。兄長何ゆゑにこのあやしきをかたり出給ふ や。更に夢ともおぼえ侍らず。赤穴いふ。賢弟とわかれて國にくだりしが。國人大か た經久が勢ひに服て。塩冶の恩を顧るものなし。従弟なる赤穴丹治冨田の城にあるを 訪らひしに。利害を説て吾を經久に見えしむ。假に其詞を容て。つら/\經久がなす 所を見るに。萬夫の雄人に勝れ。よく士卒を習練といへども。智を用うるに狐疑の心 おほくして。腹心爪牙の家の子なし。永く居りて益なきを思ひて。賢弟が菊花の約あ る事をかたりて去んとすれば。經久怨める色ありて。丹治に令し。吾を大城の外には なたずして。遂にけふにいたらしむ。此約にたがふものならば。賢弟吾を何ものとか せんと。ひたすら思ひ沈めども遁るゝに方なし。いにしへの人のいふ。人一日に千里 をゆくことあたはず。魂よく一日に千里をもゆくと。此ことわりを思ひ出て。みづか ら刃に伏。今夜陰風に乗てはる/\來り菊花の約に赴。この心をあはれみ給へといひ をはりて泪わき出るが如し。今は永きわかれなり。只母公によくつかへ給へとて。座 を立と見しがかき消て見えずなりにける。左門慌忙とゞめんとすれば。陰風に眼くら みて行方をしらず俯向につまづき倒れたるまゝに。聲を放て大に哭く。老母目さめ驚 き立て。左門がある所を見れば。座上に酒瓶魚盛たる皿どもあまた列べたるが中に臥 倒れたるを。いそがはしく扶起して。いかにととへども。只聲を呑て泣々さらに言な し。老母問ていふ。伯氏赤穴が約にたがふを怨るとならば。明日なんもし來るには言 なからんものを。汝かくまでをさなくも愚なるかとつよく諫るに。左門漸答へていふ。 兄長今夜菊花の約に特
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來る。酒肴月
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をもて迎ふるに。再三辞給ふて云。しか/\のやうにて約に 背くがゆゑに。自刃に伏て陰魂百里を來るといひて見えずなりぬ。それ故にこそは母 の眠をも驚かしたてまつれ。只々赦し給へと潜然と哭入を。老母いふ。牢裏に繋が るゝ人は夢にも赦さるゝを見え。渇するものは夢に漿水を飲といへり。汝も又さる類 にやあらん。よく心を静むべしとあれども。左門頭を揺て。まことに夢の正まきにあ らず。兄長はこゝもとにこそありつれと。又聲を放て哭倒る。老母も今は疑はず。相 叫て其夜は哭あかしぬ。明る日左門母を拝していふ。吾幼なきより身を翰墨に托ると いへども。國に忠義の聞えなく。家に孝信をつくすことあたはず。徒に天地のあひだ に生るヽのみ。兄長赤穴は一生を信義の為に終る。小弟けふより出雲に下り。せめて は骨を蔵めて信を全うせん。公尊体を保給ふて。しばらくの暇を給ふべし。老母云。 吾児かしこに去ともはやく帰りて老が心を休めよ。永く逗まりてけふを舊しき日とな すことなかれ。左門いふ。生は浮たるあわのごとく。旦にゆふべに定めがたくとも。 やがて帰りまいるべしとて泪を振ふて家を出。佐用氏にゆきて老母の介抱を苦にあつ らへ。出雲の國にまかる路に。飢て食を思はず。寒きに衣をわすれて。まどろめば夢 にも哭あかしつゝ。十日を經て冨田の大城にいたりぬ。先赤穴丹治が宅にいきて姓名 をもていひ入るに。丹治迎へ請じて。翼ある物の告るにあらて。いかでしらせ給ふべ き謂なしとしきりに問尋む。左門いふ。士たる者は富貴消息の事ともに論ずべからず 只信義をもて重しとす。伯氏宗右衛門一旦の約をおもんじ。むなしき魂の百里を來る に報ひすとて。日夜を逐てこヽにくだりしなり。吾斈ぶ所について士に尋ねまいらす べき旨あり。ねがふは明らかに答へ給へかし。昔魏の公叔座病の牀にふしたるに。魏 王みづからまうでゝ手をとりつも告るは。若諱べからずのことあらば誰をして社稷を 守らしめんや。吾ために教を遺せとあるに。叔座いふ。商鞅年少しといへども奇才あ り。王若此人を用ゐ給はずば。これを殺しても境を出すことなかれ。他の國にゆかし めば必も後の禍となるべしと。苦に教へて。又商鞅を私にまねき。吾汝をすゝむれど も王許さゞる色あれば。用ゐずはかへりて汝を害し給へと教ふ。是君を先にし。臣を 後にするなり。汝速く他の國に去て害を免るべしといへり。此事士と宗右衛門に比て はいかに。丹治只頭を低て言なし。左門座をすゝみて。伯父宗右衛門塩治が舊交を思 ひて尼子に仕へざるは義士なり。士は旧主の塩治を捨て尼子に降りしは士たる義なし 伯父は菊花の約を重んじ。命を捨て百里を來しは信ある極なり。士は今尼子に媚て骨 肉の人をくるしめ。此横死をなさしむるは友とする信なし。經久強てとゞめ給ふとも。 舊しき交はりを思はゞ。私に商鞅叔座が信をつくすべきに只栄利にのみ走りて士家の 風なきは。即尼子の家風なるべし。さるから兄長何故此國に足をとゞむべき。吾今信 義を重んじて態々こゝに來る。汝は又不義のために汚名をのこせとて。いひもをはら ず抜打に斬つくれば。一刀にてそこに倒る。家眷ども立騒ぐ間にはやく逃れ出て跡な し。尼子經久此よし傳へ聞きて。兄弟信義の篤きをあはれみ。左門が跡をも強て逐せ ざるとなり。咨輕薄の人と交はりは結ぶべからずとなん

雨月物語一之巻終
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[1]The Ueda Akinari Zenshu, Vol.7 (Tokyo: Chuo Koronsha, 1990) reads 午 時もやゝかたふきぬれど。
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[2]The Ueda Akinari Zenshu reads井臼の力はた疑すに足ざれども。
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[3]The Ueda Akinari Zenshu reads 兄長今夜菊花の約に恃来る。
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[4]The Ueda Akinari Zenshu reads 酒[kau ]をもて迎ふるに。