University of Virginia Library

5. 雨月物語巻之五

5.8. 青頭巾

むかし快庵禅師といふ大徳の聖おはしまりけり。総角より教外の旨をあきらめ給ひて。 常に身を雲水にまかせたまふ。美濃の國の龍泰寺に一夏を満しめ。此秋は奥羽のかた に住とて。旅立給ふ。ゆき/\て下野の國に入給ふ。冨田といふ里にて日入りはてぬ れば。大きなる家の賑はゝしげなるに立よりて一宿をもとめ給ふに。田畑よりかへる 男等。黄昏にこの僧の立るを見て。大きに怕れたるさまして。山の鬼こそ來りたれ。 人みな出でよと呼のゝじる。家の内にも騒きたち。女童は泣さけび展轉びて隅%\に 竄る。あるじ山枴をとりて走り出。外の方を見るに。年紀五旬にちかき老僧の。頭に 紺染の巾をかづき。身に墨衣の破たるを穿て。裹たる物を背におひたるが。杖をもて さしまねき。檀越なに事にてかばかり備へ給ふや。遍參の僧今夜ばかりの宿をかり奉 らんとてこゝに人を待しに。おもひきやかく異しめられんとは。痩法師の強盗などな すべきにもあらぬを。なあやしみ給ひそといふ。荘主枴を捨て手を拍て笑ひ。渠等が 愚なる眼より客僧を驚しまいらせぬ。一宿を供養して罪を贖ひたてまつらんと。禮ま ひて奥の方に迎へ。こゝろよく食をもすゝめて饗しけり。荘主かたりていふ。さきに 下等が御僧を見て鬼來りしとおそれしもさるいはれの侍るなり。こゝに希有の物がた りの侍る。妖言ながら人にもつたへ給へかし。此里の上の山に一宇の蘭若の侍る。故 は小山氏の菩提院にて。代々大徳の住給ふなり。今の阿闍梨は何某殿の猶子にて。こ とに篤斈修行の聞えめでたく。此國の人は香燭をはこびて帰依したてまつる。我荘に もしば/\詣給ふて。いともうらなく仕へしが。去年の春にてありける。越の國へ水 丁の戒師にむかへられ給ひて。百日あまり逗まり給ふが。他國より十二三歳なる童児 を倶してかへり給ひ。起臥の扶とせらる。かの童児が容の秀麗なるをふかく愛させた まふて。年來の事どもゝいつとなく怠りがちに見え給ふ。さるに茲年四月の比。かの 童児かりそめの病に臥けるが。日を經ておもくなやみけるを痛みかなしませ給ふて。 國府の典薬のおもだゝしきをまで迎へ給へども。其しるしもなく終りにむなしくなり ぬ。ふところの璧をうばはれ。挿頭の花を嵐にさそはれしおもひ。泣に涙なく。叫ぶ に聲なく。あまりに歎かせたまふまゝに。火に焼。土に葬る事をもせで。臉に臉をも たせ。手に手をとりくみて日を經給ふが。終に心神みだれ。生てありし日に違はず戯 れつゝも。其肉の腐り爛るを吝みて。肉を吸骨を嘗て。はた喫ひつくしぬ。寺中の 人々。院主こそ鬼になり給ひつれと。連忙迯さりぬるのちは。夜/\里に下りて人を 驚殺し。或は墓をあばきて腥/\しき屍を喫ふありさま。実に鬼といふものは昔物が たりには聞もしつれど。現にかくなり給ふを見て侍れ。されどいかゞしてこれを征し 得ん。只戸ごとに暮をかぎりて堅く関してあれば。近曽は國中へも聞えて。人の往來 さへなくなり侍るなり。さるゆゑのありてこそ客僧をも過りつるなりとかたる。快庵 この物がたりを聞せ給ふて。世には不可思議の事もあるものかな。凡人とうまれて。 佛菩薩の教の廣大なるをもしらず。愚なるまゝ。慳しきまゝに世を終るものは。其愛 慾邪念の業障に攬れて。或は故の形をあらはして恚を報ひ。或は鬼となり蠎となりて 祟りをなすためし。住古より今にいたるまで算ふるに盡しがたし。又人活ながらにし て鬼に化するもあり。楚王の宮人は蛇となり。王含が母は夜叉となり。呉生が妻は蛾 となる。又いにしへある僧卑しき家に旅寝せしに。其夜雨風はげしく。燈さへなきわ びしさにいも寝られぬを。夜ふけて羊の鳴こゑの聞えけるが。頃刻して僧のねふりを うかゞひてしきりにかぐものあり。僧異しと見て。枕におきたる禅杖をもてつよく撃 ければ。大きに叫んでそこにたをる。この音に主の嫗なるもの燈を照し來るに見れば。 若き女の打たをれてぞありける。嫗泣/\命を乞。いかゞせん。捨て其家を出しが。 其のち又たよりにつきて其里を過しに。田中に人多く集ひてものを見る。僧も立より て何なるぞと尋ねしに。里人いふ。鬼に化したる女を捉へて。今土にうづむなりとか たりしとなり。されどこれらは皆女子にて男たるものゝかゝるためしを聞ず。凡女の 性の慳しきには。さる淺ましき鬼にも化するなり。又男子にも隋の煬帝の臣家に麻叔 謀といふもの。小児の肉を嗜好て。潜に民の小児を偸み。これを蒸て喫ひしもあなれ ど。是は淺ましき夷心にて。主のかたり給ふとは異なり。さるにてもかの僧の鬼にな りつるこそ。過去の因縁にてぞあらめ。そも平生の行徳のかしこかりしは。佛につか ふる事に志誠を盡せしなれば。其童子をやしなはざらましかば。あはれよき法師なる べきものを。一たび愛慾の迷路に入て。無明の業火の熾なるより鬼と化したるも。ひ とへに直くたくましき性のなす所なるぞかし。心放せば妖魔となり。收むる則は仏果 を得るとは。此法師がためしなりける。老訥もしこの鬼を教化して本源の心にかへら しめなば。こよひの饗の報ひともなりなんかしと。たふときこゝろざしを發し給ふ。 荘主頭を畳に摺て。御僧この事をなし給はゞ。此國の人は浄土にうまれ出たるがごと しと。涙を流してよろこびけり。山里のやどり貝鐘も聞えず。廿日あまりの月も出て。 古戸の間に洩たるに。夜の深きをもしりて。いざ休ませ給へとておのれも臥戸に入り ぬ山院人とゝまらねば。楼門はうばらおひかゝり。經閣もむなしく苔蒸ぬ。蜘網をむ すびて諸佛を繋ぎ。燕子の糞護摩の牀をうづみ。方丈廊房すべて物すざましく荒はて ぬ。日の影申にかたふく比。快庵禅師寺に入て錫を鳴し給ひ。遍参の僧今夜ばかりの 宿をかし給へと。あまたたび叫どもさらに應なし。眠蔵より痩槁たる僧の漸/\とあ ゆみ出。咳たる聲して。御僧は何地へ通るとこゝに來るや。此寺はさる由縁ありてか く荒はて。人も住ぬ野らとなりしかば。一粒の斎糧もなく。一宿をかすべきはかりこ ともなしはやく里に出よといふ。禅師いふ。これは美濃の國を出て。みちの奥へいぬ る旅なるが。この麓の里を過るに。山の霊水の流のおもしろさにおもはずもこゝにま うづ。日も斜なれば里にくだらんもはるけし。ひたすら一宿をかし給へ。あるじの僧 云。かく野らなる所はよからぬ事もあなり。強とゞめがたし。強てゆけとにもあらず。 僧のこゝろにまかせよとて復び物をもいはず。こなたよりも一言を問はで。あるじの かたはらに座をしむる。看/\日は入果て。宵闇の夜のいとくらきに。燈を點ざれば まのあたりさへわかぬに。只澗水の音ぞちかく聞ゆ。あるじの僧も又眠蔵に入て音な し。夜更て月の夜にあらたまりぬ。影玲瓏としていたらぬ隈もなし。子ひとつともお もふ此。あるじの僧眠蔵を出て。あはたゝしく物を討ぬ。たづね得ずして大いに叫び。 禿驢いづくに隠れけん。こゝもとにこそありつれと禅師が前を幾たび走り過れども。 更に禅師を見る事なし。堂の方に駈りゆくかと見れば。庭をめぐりて躍りくるひ。遂 に疲れふして起來らず。夜明て朝日のさし出ぬれば。酒の醒たるごとくにして。禅師 がもとの所に在すを見て。只あきれたる形にものさへいはで。柱にもたれ長嘘をつぎ て黙しゐたりける。禅師ちかくすゝみよりて。院主何をか歎き給ふ。もし飢給ふとな らば野僧が肉に腹をみたしめ給へ。あるじの僧いふ。師は夜もすがらそこに居させた まふや。禅師いふ。こゝにありてねふる事なし。あるじの僧いふ。我あさましくも人 の肉を好めども。いまだ佛身の肉味をしらず。師はまことに佛なり。鬼畜のくらき眼 をもて。活佛の來迎を見んとするとも。見ゆべからぬ

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な るかな。あなたふとゝ頭を低て黙しける。禅師いふ。里人のかたるを聞けば。汝一旦 の愛慾に心神みだれしより。忽鬼畜に堕罪したるは。あさましとも哀しとも。ためし さへ希なる悪因なり。夜/\里に出て人を害するゆゑに。ちかき里人は安き心なし。 我これを聞て捨るに忍びず。恃來りて教化し本源の心にかへらしめんとなるを。汝我 をしへを聞や否や。あるじの僧いふ。師はまことに佛なり。かく淺ましき悪業を頓に わするべきことわりを教給へ。禅師いふ。汝聞とならばこゝに來れとて。簀子の前の たひらなる石の上に座せしめて。みづからかづき給ふ紺染の巾を脱て僧が頭にかづか しめ。證道の哥二句を授給ふ

江月照松風吹永夜清宵何所為

汝こゝを去ずして徐に此句の意をもとむべし。意解ぬる則はおのづから本來の佛 心に會ふなるはと。念頃に教て山を下り給ふ。此のちは里人おもき災をのがれしとい えども。猶僧が生死をしらざれば。疑ひ恐れて人/\山にのぼる事をいましめけり。 一とせ速くたちて。むかふ年の冬十月の初旬快庵大徳。奥路のかへるさに又こゝを過 給ふが。かの一宿のあるじが荘に立よりて。僧が消息を尋ね給ふ。荘主よろこび迎へ て。御僧の大徳によりて鬼ふたゝび山をくだらねば。人皆浄土にうまれ出たるごとし。 されど山にゆく事はおそろしがりて。一人としてのぼるものなし。さるから消息をし り侍らねど。など今まで活ては侍らじ。今夜の御泊りにかの菩提をとふらひ給へ。誰 も随縁したてまつらんといふ禅師いふ。他善果に基て遷化せしとならば道に先達の師 ともいふべし。又活てあるときは我ために一個の徒弟なり。いづれ消息を見ずばあら じとて。復び山にのぼり給ふに。いかさまにも人のいきゝ絶たると見えて。去年ふみ わけし道ぞとも思はれず。寺に入てみれば。荻尾花のたけ人よりもたかく生茂り。露 は時雨めきて降こぼれたるに。三の徑さへわからざる中に。堂閣の戸右左に頽れ。方 丈庫裏に縁りたる廊も。朽目に雨をふくみて苔むしぬ。さてかの僧を座らしめたる篁 子のほとりをもとむるに。影のやうなる人の。僧俗ともわからぬまでに髭髪もみだれ しに。葎むすぼふれ。尾花おしなみたるなかに。蚊の鳴ばかりのほそき音して。物と も聞えぬやうにまれ/\唱ふるを聞けば

江月照松風吹永夜清宵何所為

禅師見給ひて。やがて禅杖を拿なほし。作[mo ]生何所為ぞと。一喝して他が頭を撃給 へば。忽氷の朝日にあふがごとくきえうせて。かの青頭巾と骨のみぞ草葉にとゞまり ける。現にも久しき念のこゝに消じつきたるにやあらん。たふときことわりあるにこ そ。されば禅師の大徳雲の裏海の外にも聞えて。初祖の肉いまだ乾かずとぞ称歎しけ るとなり。かくて里人あつまりて。寺内を清め。修理をもよほし。禅師を推たふとみ てこゝに住しめけるより。故の密宗をあらためて。曹洞の霊場をひらき給ふ。今なほ 御寺はたふとく栄えてありけるとなり

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[1]The Ueda Akinari Zenshu reads 見ゆべからぬ理りなるかな。

5.9. 貧福論

陸奥の國蒲生氏郷の家に。岡左内といふ武士あり。禄おもく。誉たかく。丈夫の名を 関の東に震ふ。此士いと偏固なる事あり。富貴をねがふ心常の武扁にひとしからず。 倹約を宗として家の掟をせしほどに。年を畳て富昌へけり。かつ軍を調練す間には。 茶味翫香を娯しまず。廰上なる所に許多の金を布班べて。心を和さむる事。世の人の 月花にあそぶに勝れり。人みな左内が行跡をあやしみて。吝嗇野情の人なりとて。爪 はぢきをして悪みけり。家に久しき男に黄金一枚かくし持ちたるものあるを聞つけて。 ちかく召ていふ。崑山の璧もみだれたる世には瓦礫にひとし。かゝる世にうまれて弓 矢とらん躯には。棠谿墨陽の釼。さてはありたきもの財寳なり。されど良剱なりとて 千人の敵には逆ふべからず。金の徳は天が下の人をも従へつべし。武士たるもの漫に あつかふべからず。かならず貯へ蔵むべきなり。なんぢ賎しき身の分限に過たる財を 得たる鳴呼の事なり。賞なくばあらじとて。十両の金を給ひ。刀をも赦して召つかひ けり。人これを傳へ聞て。左内が金をあつむるは長啄にして飽ざる類にはあらず。只 當世の一竒士なりとぞいひはやしける。其夜左内が枕上に人の來たる音しけるに。目 さめて見れば。燈臺の下に。ちいさげなる翁の笑をふくみて座れり。左内枕をあげて。 こゝに來るは誰。我に粮からんとならば力量の男どもこそ参りつらめ。なんぢがやう のほげたる形してねふりを魘ひつるは。狐狸などのたはむるゝにや。何のおぼえたる 術かある。秋の夜の目さましに。そと見せよとて。すこしも騒ぎたる容色なし。翁い ふ。かく参りたるは魑魅にあらず人にあらず。君がかしづき給ふ黄金の精霊なり。年 來篤くもてなし給ふうれしさに。夜話せんとて推てまいりたるなり。君が今日家の子 を賞じ給ふに感て。翁が思ふこゝろばへをもかたり和さまんとて。假に化を見はし侍 るが。十にひとつも益なき閑談ながら。いはざるは腹みつれば。わざとにまうでゝ眠 をさまたげ侍る。さても富て驕らぬは大聖の道なり。さるを世の悪ことばに。富るも のはかならず慳し。富るものはおほく愚なりといふは。晋の石崇唐の王元宝がごとき。 豺狼蛇蝎の徒のみをいへるなりけり。往古に富る人は。天の時をはかり。地の利を察 らめて。おのづからなる富貴を得るなり。呂望齊に封ぜられて民に産業を教ふれば。 海方の人利に走りてこゝに來朝ふ。管仲九たび諸侯をあはせて。身は倍臣ながら富貴 は列國の君に勝れり。范蠡。子貢。白圭が徒。財を鬻ぎ利を遂て。巨萬の金を畳なす。 これらの人をつらねて貨殖傳を書し侍るを。其いふ所陋とて。のちの博士筆を競ふて 謗るは。ふかく頴らざる人の語なり。恒の産なきは恒の心なし。百姓は勤て穀を出し。 工匠等修てこれを助け。商賈務めて此を通はし。おのれ/\が産を治め家を富して。 祖を祭り子孫を謀る外。人たるもの何をか為ん。諺にもいへり。千金の子は市に死せ ず。富貴の人は王者とたのしみを同じうすとなん。まことに渕深ければ魚よくあそび。 山長ければ獣よくそだつは天の随なることわりなり。只貧しうしてたのしむてふこと ばありて。字を学び韻を探る人の惑をとる端となりて。弓矢とるますら雄も富貴は國 の基なるをわすれ。あやしき計策をのみ調練て。ものをやぶり人を傷ひ。おのが徳を うしなひて子孫を絶は。財を薄んじて名をおもしとする惑ひなり。顧に名とたからと もとむるに心ふたつある事なし。文字てふものに繋がれて。金の徳を薄んじては。み づから清潔と唱へ。鋤を揮て棄たる人を賢しといふ。さる人はかしこくとも。さる事 は賢からじ金は七のたからの最なり。土にうもれては霊泉を湛へ。不浄を除き。妙な る音を蔵せり。かく清よきものゝ。いかなれば愚昧貪酷の人にのみ集ふべきやうなし。 今夜此憤りを吐て年來のこゝろやりをなし侍る事の喜しさよといふ。左内興じて席を すゝみ。さてしもかたらせ給ふに。富貴の道のたかき事。己がつねにおもふ所露たが はずぞ侍る。こゝに愚なる問事の侍るが。ねがふは祥にしめさせ給へ。今ことわらせ 給ふは。専金の徳を薄しめ。富貴の大業なる事をしらざるを罪とし給ふなるが。かの 紙魚かいふ所もゆゑなきにあらず。今の世に富るものは。十が八ッまではおほかた貪 酷残忍の人多し。おのれは俸禄に飽たりながら。兄弟一属をはじめ。祖より久しくつ かふるものゝ貧しきをすくふ事をもせず。となりに栖つる人のいきほひをうしなひ。 他の援けさへなく世にくだりしものゝ田畑をも。價を賎くしてあながちに己がものと し。今おのれは村長とうやまはれても。むかしかりたる人のものをかへさず。禮ある 人の席を譲れば。其人を奴のごとく見おとし。たま/\舊き友の寒暑を訪らひ來れば。 物からんためかと疑ひて。宿にあらぬよしを應へさせつる類あまた見來りぬ。又君に 忠なるかぎりをつくし。父母に孝廉の聞えあり。貴きをたふとみ。賎しきを扶くる意 ありながら。三冬のさむきにも一裘に起臥。三伏のあつきにも一葛を濯ぐいとまなく。 年ゆたかなれども朝にくれに一椀の粥にはらをみたしめ。さる人はもとより朋友の訪 らふ事もなく。かへりて兄弟一属にも通を塞れ。まじはりを絶れて。其怨をうつたふ る方さへなく。汲/\として一生を終るもあり。さらばその人は作業にうときゆゑか と見れば。夙に起おそくふして性力を凝し。西にひがしに走りまどふありさまさらに 閑なく。その人愚にもあらで才をもちうるに的るはまれなり。これらは顔子が一瓢の 味はひをもしらず。かく果るを佛家には前業をもて説しめし。儒門には天命と教ふ。 もし未來あるときは現世の陰徳善功も來世のたのみありとして。人しばらくこゝにい きどほりを休めん。されば富貴のみちは佛家にのみその理をつくして。儒門の教へは 荒唐なりとやせん。霊も佛の教にこそ憑せ給ふらめ。否ならば祥にのべさせ給へ。翁 いふ。君が問給ふは往古より論じ盡さゞることわりなり。かの佛の御法を聞けば。富 と貧しきは前生の脩否によるとや。此はあらましなる教へぞかし。前生にありしとき おのれをよく脩め。慈悲の心専らに。他人にもなさけふかく接はりし人の。その善報 によりて。今此生に富貴の家にうまれきたり。おのがたからをたのみて他人にいきほ ひをふるひ。あらぬ狂言をいひのゝじり。あさましき夷こゝろをも見するは。前生の 善心かくまでなりくだる事はいかなるむくひのなせるにや。佛菩薩は名聞利要を嫌給 ふとこそ聞きつる物を。など貧福の事に係づらひ給ふべき。さるを富貴は前生のおこ なひの善りし所。貧賎は悪かりしむくひとのみ説なすは。尼媽を蕩かすなま佛法ぞか し。貧福をいはず。ひたすら善を積ん人は。その身に來らずとも。子孫はかならず幸 福を得べし。宗廟これを饗て子孫これを保つとは。此ことわりの細妙なり。おのれ善 をなして。おのれその報ひの來るを待は直きこゝろにもあらずかし。又悪業慳貪の人 の富昌ふるのみかは。壽めでたくその終をよくするは。我に異なることわりあり。霎 時聞せたまへ我今假に化をあらはして語るといへども。神にあらず佛にあらず。もと 非情の物なれば人と異なる慮あり。いにしへに富る人は。天の時に合ひ。地の利をあ きらめて。産を治めて富貴となる。これ天の随なる計策なれば。たからのこゝにあつ まるも天のまに/\なることわりなり。又卑吝貪酷の人は。金銀を見ては父母のごと くしたしみ。食ふべきをも喫はず。穿べきをも着ず。得がたきいのちさへ惜とおもは で。起ておもひ臥てわすれねば。こゝにあつまる事まのあたりなることわりなり。我 もと神にあらず佛にあらず。只これ非情なり。非情のものとして人の善悪を糺し。そ れにしたがふべきいはれなし。善を撫悪を罪するは。天なり。神なり。佛なり。三ッ のものは道なり。我ともがらのおよぶべきにあらず。只かれらがつかへ傅く事のうや /\しきにあつまるとしるべし。これ金に霊あれども人とこゝろの異なる所なり。ま た富て善根を種るにもゆゑなきに恵みほどこし。その人の不義をも察らめず借あたへ たらん人は。善根なりとも財はつひに散すべし。これらは金の用を知て。金の徳をし らず。かろくあつかふが故なり。又身のおこなひもよろしく。人にも志誠ありながら。 世に窮られてくるしむ人は。天蒼氏の賜すくなくうまれ出たるなれば。精神を労して も。いのちのうちに富貴を得る事なし。さればこそいにしへの賢き人は。もとめて益 あればもとめ。益なくばもとめす。己がこのむまに/\世を山林にのがれて。しづか に一生を終る。心のうちいかばかり清しからんとはうらやみぬるぞ。かくいへど富貴 のみちは術にして。巧なるものはよく湊め。不肖のものは瓦の解るより易し。且我と もがらは。人の生産のつきめぐりて。たのみとする主もさだまらず。こゝにあつまる かとすれば。その主のおこなひによりてたちまちにかしこに走る。水のひくき方にか たふくがごとし。夜に昼にゆきくと休ときなし。たゞ閑人の生産もなくてあらば。泰 山もやがて喫つくすべし。江海もつひに飲ほすべし。いくたびもいふ。不徳の人のた からを積は。これとあらそふことわり。君子は論ずる事なかれ。ときを得たらん人の 倹約を守りついえを省きてよく務めんには。おのづから家富人服すべし。我は佛家の 前業もしらず。儒門の天命にも抱はらず。異なる境にあそぶなりといふ。左内いよ/ \興に乗じて。霊の議論きはめて妙なり舊しき疑念も今夜に消じつくしぬ。試にふ たゝび問ん。今豊臣の威風四海を靡し。五畿七道漸しづかなるに似たれども。亡國の 義士彼此に潜み竄れ。或は大國の主に身を托て世の変をうかゞひ。かねて志を遂んと 策る。民も又戦國の民なれば。耒を釈て矛に易。農事をことゝせず。士たるもの枕を 高くして眠るべからず。今の躰にては長く不朽の政にもあらじ。誰か一統して民をや すきに居しめんや。又誰にか合し給はんや。翁云。これ又人道なれば我しるべき所に あらず。只富貴をもて論ぜは。信玄がごとく智謀は百が百的らずといふ事なくて。一 生の威を三國に震ふのみ。しかも名将の聞えは世挙りて賞ずる所なり。その末期の言 に。當時信長は果報いみじき大将なり。我平生に他を侮りて征伐を怠り此疾に係る。 我子孫も即他に亡されんといひしとなり。謙信は勇将なり。信玄死ては天が下に對な し。不幸にして遽死りぬ。信長の器量人にすぐれたれども。信玄の智に及ず。謙信の 勇に劣れり。しかれども富貴を得て天が下の事一回は此人に依す。任ずるものを辱し めて命を殞すにて見れば。文武を兼しといふにもあらず。秀吉の志大なるも。はじめ より天地に満るにもあらず。柴田と丹羽が富貴をうらやみて。羽柴と云氏を設しにて しるべし。今龍と化して太虚に昇り池中をわすれたるならずや。秀吉龍と化したれど も蛟蜃の類也蛟蜃の龍と化したるは。壽わづかに三歳を過ずと。これもはた後なから んか。それ驕をもて治たる世は。往古より久しきを見ず。人の守るべきは倹約なれど も。過るものは卑吝に陥る。されば倹約と卑吝の境よくわきまへて務むべき物にこそ。 今豊臣の政久しからずとも。萬民和はヽしく。戸々に千秋楽を唱はん事ちかきにあり。 君が望にまかすべしとて八字の句を諷ふ。そのことばにいはく

尭[mei ]日杲百姓帰家

数言興盡て遠寺の鐘五更を告る。夜既に曙ぬ。別れを給ふべし。こよひの長談ま ことに君が眠りをさまたぐと。起てゆくやうなりしが。かき消て見えずなりにけり。 左内つら/\夜もすがらの事をおもひて。かの句を案ずるに。百姓家に帰すの句粗其 意を得て。ふかくこゝに信を發す。まことに瑞草の瑞あるかな

雨月物語五之巻大尾
安永五歳丙申孟夏吉旦
寺町通五條上ル町
京都 梅村判兵衛
書肆
高麗橋
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壹町目

大坂 野村長兵衛
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The Ueda Akinari Zenshu reads 高麗橋筋壱町目.