University of Virginia Library

4. 雨月物語巻之四

4.7. 蛇性の婬

いつの時代なりけん。紀の國三輪が崎に。大宅の竹助といふ人在けり。此人海の幸あ りて。海郎どもあまた養ひ。鰭の廣物狭き物を尽してすなどり。家豊に暮しける男子 二人。女子一人をもてり。太郎は質朴にてよく生産を治む。二郎の女子は大和の人の つまどひに迎られて彼所にゆく。三郎の豊雄なるものあり。生長優しく。常に都風た る事をのみ好て。過活心なかりけり。父是を憂つゝ思ふは。家財をわかちたりとも即 人の物となさん。さりとて他の家を嗣しめんもはたうたてき事聞らんが病しき。只な すまゝに生し立て。博士にもなれかし。法師にもなれかし。命の極は太郎が羈物にて あらせんとて。強て掟をもせざりけり。此豊雄。新宮の神奴安倍の弓麿を師として行 通ひける。九月下旬。けふはことになごりなく和たる海の。暴に東南の雲を生して。 小雨そほふり來る。師が許にて傘かりて帰るに。飛鳥の神秀倉見やらるゝ邊より。雨 もやゝ頻なれば。其所なる海郎が屋に立よる。あるじの老はひ出て。こは大人の弟子 の君にてます。かく賎しき所に入せ給ふぞいと恐まりたる事。是敷て奉らんとて。圓 座の汚なげなるを清めてまゐらす。霎時息るほどは何か厭ふべき。なあはたゝしくせ そとて休らいぬ。外の方に麗しき聲して。此軒しばし恵ませ給へといひつゝ入來るを。 竒しと見るに。年は廿にたらぬ女の。顔容髪のかゝりいと艶ひやかに。遠山ずりの色 よき衣着て。了鬟の十四五ばかりなるの清げなるに。包し物もたせ。しとゝに濡てわ びしげなるが。豊雄を見て。面さと打赤めて恥かしげなる形の貴やかなるに。不慮に 心動きて。且思ふは。此邊にかうよろしき人の住らんを今まで聞えぬ事はあらじを。 此は都人の三つ山詣せし次に。海愛らしくこゝに遊ぶらん。さりとて男たつ者もつれ ざるぞいとはしたなる事かなと思ひつゝ。すこし身退きて。こゝに入せ給へ。雨もや がてぞ休なんといふ女。しばし宥させ給へとて。ほどなき住ゐなればつひ並ぶやうに 居るを。見るに近まさりして。此世の人とも思はれぬばかり美しきに。心も空にかへ る思ひして。女にむかひ。貴なるわたりの御方とは見奉るが。三山詣やし給ふらん。 峯の温泉にや出立給ふらん。かうすざましき荒礒を何の見所ありて狩くらし給ふ。 こゝなんいにしへの人のくるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらな くにとよめるは。まことけふのあはれなりける。此家賤しけれどおのれが親の目かく る男なり。心ゆりて雨休給へ。そもいづ地旅の御宿りとはし給ふ。御見送りせんも却 て無礼なれば。此傘もて出給へといふ。女。いと喜しき御心を聞え給ふ。其御思ひに 乾てまいりなん。都のものにてもあらず。此近き所に年來住こし侍るが。けふなんよ き日とて那智に詣侍るを。暴なる雨の恐しさに。やどらせ給ふともしらでわりなくも 立よりて侍る。こゝより遠からねば。此小休に出侍らんといふを。強に此傘もていき 給へ。何の便にも求なん。雨は更に休たりともなきを。さて御住ゐはいづ方ぞ。是よ り使奉らんといへば。新宮の邊にて縣の真女児が家はと尋給はれ。日も暮なん。御恵 のほどを指戴て帰りなんとて。傘とりて出るを。見送りつも。あるじが簑笠かりて家 に帰りしかど。猶俤の露忘れがたく。しばしまどろむ暁の夢に。かの真女児が家に尋 いきて見れば。門も家もいと大きに造りなし。蔀おろし簾垂こめて。ゆかしげに住な したり。真女子出迎ひて。御情わすれがたく待恋奉る。此方に入せ給へとて奥の方に いざなひ。酒菓子種々と管待しつゝ。喜しき酔ごゝちに。つひに枕をともにしてかた るとおもへば。夜明て夢さめぬ。現ならましかばと思ふ心のいそがしきに朝食も打忘 れてうかれ出ぬ。新宮の郷に來て縣の真女子が家はと尋るに。更にしりたる人なし。 午時かたふくまで尋労ひたるに。かの了鬟東の方よりあゆみ來る。豊雄見るより大に 喜び。娘子の家はいづくぞ。傘もとむとて尋來るといふ。了鬟打ゑみて。よくも來ま せり。こなたに歩み給へとて。前に立てゆく/\。幾ほどもなく。こゝぞと聞ゆる所 を見るに。門高く造りなし。家も大きなり。蔀おろし簾たれこめしまで。夢の裏に見 しと露違はぬを。竒しと思ふ/\門に入。了鬟走り入て。おほがさの主詣給ふを誘ひ 奉るといへば。いづ方にますぞ。こち迎へませといひつゝ立出るは真女子なり。豊雄。 こゝに安倍の大人とまうすは。年來物学ぶ師にてます。彼所に詣る便に傘とりて帰る とて推て参りぬ。御住居見おきて侍れば又こそ詣來んといふを。真女子強にとゞめて。 まろや努出し奉るなといへば。了鬟立ふたがりておほがさ強て恵ませ給ふならずや。 其がむくひに強てとゞめまいらすとて。腰を押て南面の所に迎へける。板敷の間に床 畳を設けて。几帳。御厨子の飾。壁代の絵なども。皆古代のよき物にて。倫の人の住 居ならず。真女子立出て。故ありて人なき家とはなりぬれば。実やかなる御饗もえし 奉らず。只薄酒一杯すゝめ奉らんとて。高杯平杯の清らなるに。海の物山の物盛なら べて。瓶子土器さゝげて。まろや酌まゐる。豊雄また夢心してさむるやと思へど。正 に現なるを却て竒しみゐたる。客も主もともに酔ごゝちなるとき。真女子杯をあげて。 豊雄にむかい。花精妙桜が枝の水にうつろひなす面に。春吹風をあやなし。梢たち ぐゝ鶯の艶ひある聲していひ出るは。面なきことのいはて病なんも。いづれの神にな き名負すらんかし。努徒なる言にな聞給ひそ。故は都の生なるが。父にも母にもはや う離れまいらせて。乳母の許に成長しを。此國の受領の下司縣の何某に迎へられて伴 なひ下りしははやく三とせになりぬ。夫は任はてぬ此春。かりそめの病に死給ひしか ば。便なき身とはなり侍る。都の乳母も尼になりて。行方なき修行に出しと聞ば。彼 方も又しらぬ國とはなりぬるをあはれみ給へきのふの雨やどりの御恵みに。信ある御 方にこそとおもふ物から。今より後の齢をもて御宮仕へし奉らばやと願ふを。汚なき 物に捨給はずば。此一杯に千とせの契をはじめなんといふ。豊雄。もとよりかゝるを こそと乱心なる思ひ妻なれば。塒の鳥の飛立ばかりには思へど。おのが世ならぬ身を 顧れは。親兄弟のゆるしなき事をと。かつ喜しみ。且恐れみて。頓に答ふべき詞なき を。真女児わびしがりて。女の浅き心より。鳴呼なる事をいひ出て。帰るべき道なき こそ面なけれ。かう浅ましき身を海にも没で。人の御心を煩はし奉るは罪深きこと。 今の詞は徒ならねども。只酔ごゝちの狂言におぼしとりて。こゝの海にすて給へかし といふ。豊雄。はじめより都人の貴なる御方とは見奉るこそ賢かりき。鯨よる濱に生 立し身の。かく喜しきこといつかは聞ゆべき。即の御答へもせぬは。親兄に仕ふる身 の。おのが物とては爪髪の外なし。何を録に迎へまゐらせん便もなければ身の徳なき をくゆるばかりなり。何事をもおぼし耐給はゞ。いかにも/\後見し奉らん。孔子さ へ倒るゝ恋の山には。孝をも身をも忘れてといへば。いと喜しき御心を聞まいらする うへは。貧しくとも時々こゝに住せ給へ。こゝに前の夫の二つなき寳にめで給ふ帯あ り。これ常に帯せ給へとてあたふるを見れば。金銀を餝りたる太刀の。あやしきまで 鍛ふたる古代の物なりける。物のはじめに辞なんは祥あしければとりて納む。今夜は こゝに明させ給へとて。あながちにとゞむれど。まだ赦なき旅寝は親の罪し給はん。 明の夜よく偽りて詣なんとて出ぬ。其夜も寝がてに明ゆく。太郎は網子とゝのほると て。晨て起出て。豊雄が閨房の戸の間をふと見入たるに。消残りたる灯火の影に。 輝々しき太刀を枕に置て臥たり。あやし。いづちより求ぬらんとおぼつかなくて。戸 をあらゝかに明る音に目さめぬ。太郎があるを見て。召給ふかといへば。輝々しき物 を枕に置しは何ぞ。價貴き物は海人の家にふさはしからず。父の見給はゞいかに罪し 給はんといふ。豊雄。財を費して買たるにもあらず。きのふ人の得させしをこゝに置 しなり。太郎。いかてさる寳をくるゝ人此邊にあるべき。あなむつかしの唐言書たる 物を買たむるさへ。世の費なりと思へど。父の黙りておはすれば今までもいはざるな り。其太刀帯て大宮の祭をねるやらん。いかに物に狂ふそといふ聲の高きに。父聞つ けて従者が何事をか仕出つる。こゝにつれ來よ太郎と呼に。いづちにて求ぬらん。軍 将等の佩給ふべき輝々しき物を買たるはよからぬ事。御目のあたりに召て問あきらめ 給へ。おのれは網子どもの怠るらんと云捨て出ぬ。母豊雄を召て。さる物何の料に買 つるぞ。米も銭も太郎が物なり。吾主が物とて何をか持たる。日來は為まゝにおきつ るを。かくて太郎に悪まれなば。天地の中に何國に住らん。賢き事をも斈びたる者が。 など是ほどの事わいためぬぞといふ。豊雄。実に買たる物にあらず。さる由縁有て人 の得させしを。兄の見咎てかくの給ふなり。父。何の誉ありてさる寳をは人のくれた るぞ。更におぼつかなき事。只今所縁かたり出よと罵る。豊雄。此事只今は面俯なり。 人傳に申出侍らんといへば。親兄にいはぬ事を誰にかいふぞと聲あらゝかなるを。太 郎の嫁の刀自傍にありて。此事愚なりとも聞侍らん。入せ給へと宥むるに。つひ立て いりぬ。豊雄刀自にむかひて兄の見咎め給はずとも。密に姉君をかたらひてんと思ひ 設つるに。速く責なまるゝ事よ。かう/\の人の女のはかなくてあるが。後身してよ とて賜へるなり。己が世しらぬ身の。御赦さへなき事は重き勘当なるべければ。今さ ら悔るばかりなるを。姉君よく憐み給へといふ。刀自打笑て。男子のひとり寝し給ふ が。兼ていとをしかりつるに。いとよき事ぞ。愚也ともよくいひとり侍らんとて。某 夜太郎に。かう/\の事なるは幸におぼさずや。父君の前をもよきにいひなし給へと いふ。太郎眉を顰めて。あやし。此國の守の下司に縣の何某と云人を聞ず。我家保正 なればさる人の亡なり給ひしを聞えぬ事あらじを。まず太刀こゝにとりて來よといふ に。刀自やがて携へ來るを。よく/\見をはりて。長嘘をつぎつゝもいふは。こゝに 恐しき事あり。近來都の大臣殿の御願の事みためし給ひて。權現におほくの寳を奉り 給ふ。さるに此神寳ども。御寳蔵の中にて頓に失せしとて。大宮司より國の守に訴出 給ふ。守此賊を探り捕ふために。助の君文室の廣之。大宮司の館に來て。今専に此事 をはかり給ふよしを聞ぬ。此太刀いかさまにも下司などの帯べき物にあらず。猶父に 見せ奉らんとて。御前に持いきて。かう/\の恐しき事のあなるは。いかゞ計らひ申 さんといふ。父面を青くして。こは浅ましき事の出きつるかな。日來は一毛をもぬか ざるが。何の報にてかう良らぬ心や出きぬらん。他よりあらはれなば此家をも絶され ん。祖の為子孫の為には。不孝の子一人惜からじ。明は訴へ出よといふ。太郎夜の明 るを待て。大宮司の館に來り。しか/\のよしを申出て。此太刀を見せ奉るに。大宮 司驚きて。是なん大臣殿の献り物なりといふに。助聞給ひて。猶失し物問あきらめん。 召捕とて。武士ら十人ばかり。太郎を前にたてゝゆく。豊雄。かゝる事をもしらで書 見ゐたるを武士ら押かゝりて捕ふ。こは何の罪ぞといふをも聞入ず縛めぬ。父母太郎 夫婦も今は浅ましと歎まどふばかりなり。公廳より召給ふ疾あゆめとて。中にとりこ めて館に追もてゆく。助。豊雄をにらまへて。なんぢ神寳を盗とりしは例なき國津罪 なり。猶種々の財はいづ地に隠したる。明らかにまうせといふ。豊雄漸此事を覚り。 涙を流して。おのれ更に盗をなさず。かう/\の事にて縣の何某の女が。前の夫の帯 たるなりとて得させしなり。今にもかの女召て。おのれが罪なき事を覚らせ給へ。助 いよゝ怒りて。我下司に縣の姓を名乗る者ある事なし。かく偽るは刑ます/\大なり。 豊雄。かく捕はれていつまで偽るべき。あはれかの女召て問せ給へ。助。武士らに向 ひて。縣の真女子が家はいづくなるぞ。渠を押て捕へ來れといふ。武士らかしこまり て。又豊雄を押たてゝ彼所に行て見るに。厳めしく造りなせし門の柱も朽くさり。軒 の瓦も大かたは砕おちて。草しのぶ生さがり。人住とはみえず。豊雄是を見て只あき れにあきれゐたる。武士らかけ廻りて。ちかきとなりを召あつむ。木伐老。米かつ男 ら。恐れ惑ひて。跪る。武士他らにむかひて。此家何者が住しぞ。縣の何某が女の こゝにあるはまことかといふに。鍛冶の翁はひ出て。さる人の名はかけてもうけ給は らす此家三とせばかり前までは。村主の何某といふひとの。賑はしくて住侍るが。筑 紫に商物積てくだりし。其舩行方なくなりて後は。家に残る人も散々になりぬるより。 絶て人の住ことなきを。此男のきのふこゝに入て。漸して帰りしを竒しとて。此塗師 の老がまうされしといふに。さもあれ。よく見極て殿に申さんとて。門押ひらきて入 る。家は外よりも荒まさりけり。なほ奥の方に進みゆく。前栽廣く造りなしたり。池 は水あせて水草も皆枯。野ら薮生かたふきたる中に。大きなる松の吹倒れたるぞ物す ざまし。客殿の格子戸をひらけば。腥き風のさと吹おくりきたるに恐れまどいて。 人々後にしりぞく。豊雄只聲を呑て歎きゐる。武士の中に巨勢のくまがしなる者膽ふ とき男にて。人々我後に従て來れとて。板敷をあららかに踏て進みゆく。塵は一寸 ばかり積りたり。鼠の糞ひりちらしたる中に。古き帳を立て。花の如くなる女ひとり ぞ座る。くまかし女にむかひて。國の守の召つるぞ。急ぎまゐれといへど。答へもせ であるを。近く進みて捕ふとせしに。忽地も裂るばかりの霹靂鳴響くに。許多の人迯 る間もなくてそこに倒る。然見るに。女はいづち行けん見えずなりにけり。此床の上 に輝/\しき物あり。人/\恐る/\いきて見るに。狛錦。呉の綾。倭文かとり。盾。 槍。靭。鍬の類。此失つる神寳なりき。武士らこれをとりもたせて。怪しかりつる事 どもを詳に訴ふ。助も大宮司も妖怪のなせる事をさりとて。豊雄を責む事をゆるくす。 されど當罪免れす。守の館にわたされて牢裏に繋がる。大宅の父子多くの物を賄して 罪を贖によりて。百日がほどに赦さるゝ事を得たり。かくて世にたち接らんも面俯な り。姉の大和におはすを訪らひて。しばし彼所に住んといふ。げにかう憂め見つる後 は重き病をも得るものなり。ゆきて月ごろを過せとて。人を添て出たゝす。二郎の姉 が家は石榴市といふ所に。田邊の金忠といふ商人なりける。豊雄が訪らひ來るを喜び。 かつ月ごろの事どもをいとほしがりて。いつ/\までもこゝに住めとて。念頃に労り けり。年かはりて二月になりぬ。此石榴市といふは。泊瀬の寺ちかき所なりき。佛の 御中には泊瀬なんあらたなる事を。唐土までも聞えたるとて。都より邊鄙より詣づる 人の。春はことに多かりけり。詣づる人は必こゝに宿れば。軒を並べて旅人をとゞめ ける。田邊が家は御明燈心の類を商ひぬれば。所せく人の入たちける中に。都の人の 忍びの詣と見えて。いとよろしき女一人。了鬟一人。薫物もとむとてこゝに立よる。 此了鬟豊雄を見て。吾君のこゝにいますはといふに。驚きて見れば。かの真女子まろ やなり。あな恐しとて内に隠るゝ。金忠夫婦こは何ぞといへば。かの鬼こゝに逐來る。 あれに近寄給ふなと隠れ惑ふを。人々そはいつくにと立騒ぐ。真女子入來りて。人々 あやしみ給ひそ。吾夫の君な恐れ給ひそ。おのが心より罪に堕し奉る事の悲しさに。 御有家もとめて。事の由縁をもかたり。御心放せさせ奉らんとて。御住家尋まいらせ しに。かひありてあひ見奉る事の喜しさよ。あるじの君よく聞わけて給へ。我もし怪 しき物ならば。此人繁きわたりさへあるに。かうのどかなる昼をいかにせん。衣に縫 目あり。日にむかへば影あり。此正しきことわりを思しわけて。御疑ひを解せ給へ。 豊雄漸人ごゝちして。なんぢ正しく人ならぬは。我捕はれて。武士らとともにいきて 見れば。きのふにも似ず浅ましく荒果て。まことに鬼の住べき宿に一人居るを。人々 ら捕へんとすれば。忽青天霹靂を震ふて。跡なくかき消ぬるをまのあたり見つるに。 又逐來て何をかなす。すみやかに去れといふ。真女子涙を流して。まことにさこそお ぼさんはことわりなれど。妾が言をもしばし聞せ給へ。君公廰に召れ給ふと聞しより。 かねて憐をかけつる隣の翁をかたらひ。頓に野らなる宿のさまをこしらへし。我を捕 んずときに鳴神響かせしはまろやが計較つるなり。其後舩もとめて難波の方に遁れし かど。御消息しらまほしく。こゝの御佛にたのみを懸つるに。二本の杉のしるしあり て。喜しき瀬にながれあふことは。ひとへに大悲の御徳かふむりたてまつりしぞかし。 種%\の神寳は何とて女の盗み出すべき。前の夫の良らぬ心にてこそあれ。よく/\ おぼしわけて。思ふ心の露ばかりをもうけさせ給へとてさめ%\と泣。豊雄或は疑ひ。 或は憐みて。かさねていふべき詞もなし。金忠夫婦。真女子がことわりの明らかなる に。此女しきふるまひを見て。努疑ふ心もなく。豊雄のもの語りにては世に恐しき事 よと思ひしに。さる例あるべき世にもあらずかし。はる/\と尋まどひ給ふ御心ねの いとほしきに。豊雄肯ずとも我々とゞめまいらせんとて。一間なる所に迎へける。 こゝに一日二日を過すまゝに。金忠夫婦か心をとりて。ひたすら歎きたのみける。其 志の篤きに愛て。豊雄をすゝめてつひに婚儀をとりむすぶ。豊雄も日々に心とけて。 もとより容姿のよろしきを愛よろこび。千とせをかけて契るには。葛城や高間の山に 夜々ごとにたつ雲も。初瀬の寺の暁の鐘に雨收まりて。只あひあふ事の遅きをなん恨 みける。三月にもなりぬ。金忠豊雄夫婦にむかひて。都わたりのは似るべうもあらね ど。さすがに紀路にはまさりぬらんかし。名細の吉野は春はいとよき所なり。三舩の 山菜摘川常に見るとも飽ぬを。此頃はいかにおもしろからん。いざ給へ出立なんとい ふ。真女児うち笑て。よき人のよしと見給ひし所は。都の人も見ぬを恨みに聞え侍る を。我身稚きより。人おほき所。或は道の長手をあゆみては。必氣のぼりてくるしき 病あれば。従駕にえ出立侍らぬぞいと憂たけれ。山土産必待こひ奉るといふを。そは あゆみなんこそ病も苦しからめ。車こそもたらね。いかにも/\土踏せまいらせじ。 留り給はんは豊雄のいかばかり心もとなかりつらんとて。夫婦すゝめたつに。豊雄も かうたのもしくの給ふを。道に倒るゝともいかではかと聞ゆるに。不慮ながら出たち ぬ。人々花やぎて出ぬれど。真女子が麗なるには似るべうもあらずぞ見えける。何某 の院はかねて心よく聞えかはしければこゝに訪らふ。主の僧迎えて。此春は遅く詣給 ふことよ。花もなかばは散過て鶯の聲もやゝ流るめれど。猶よき方にしるべし侍らん とて。夕食いと清くして食せける。明ゆく空いたう霞みたるも。晴ゆくまゝに見わた せば。此院は高き所にて。こゝかしこ僧坊どもあらはに見おろさるゝ。山の鳥どもゝ そこはかとなく囀りあひて。木草の花色々に咲まじりたる。同じ山里ながら目さむる こゝちせらる。初詣には瀧ある方こそ見所はおほかめれとて。彼方にしるべの人乞て 出たつ。谷を繞りて下りゆく。いにしへ行幸の宮ありし所は。石はしる瀧つせのむせ び流るゝに。ちいさきあゆどもの水に逆ふなど。目もあやにおもしろし。檜破子打散 して喰つゝあそぶ。岩がねづたひに來る人あり。髪は績麻をわがねたる如くなれど。 手足いと健やかなる翁なり。此瀧の下にあゆみ來る。人々を見てあやしげにまもりた るに。真名子もまろやも此人を背に見ぬふりなるを。翁渠二人をよくまもりて。あや し。此邪神。など人をまどはす。翁がまのあたりをかくても有やとつぶやくを聞て。 此二人忽躍りたちて。瀧に飛入と見しが。水は大虚に湧あがりて見えずなるほどに。 雲摺墨をうちこぼしたる如く。雨篠を乱してふり來る。翁人々の慌忙惑ふをまつろへ て人里にくだる。賎しき軒にかゞまりて生るこゝちもせぬを。翁豊雄にむかひ。熟そ この面を見るに。此隠神のために悩まされ

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給ふが。吾救 はずばつひに命をも失ひつべし。後よく慎み給へといふ。豊雄地額着て。此事の始よ りかたり出て。猶命得させ給とて。恐れみ敬まひて願ふ。翁さればこそ。此邪神は年 經たる蛇なり。かれが性は婬なる物にて。牛と孳みては麟を生み。馬とあひては龍馬 を生といへり。此魅はせつるも。はたそこの秀麗にたはけたると見えたり。かくまで 執ねきをよく慎み給はずば。おそらくは命を失ひ給ふべしといふに。人々いよゝ恐れ 惑ひつゝ。翁を崇まへて遠津神にこそと拝みあへり。翁打ち笑て。おのれは神にもあ らず。大倭の神社に仕へまつる當麻の酒人といふ翁なり。道の程見立てゝまいらせん。 いざ給へとて出たてば。人々後につきて帰り來る。明の日大倭の郷にいきて。翁が恵 みを謝し。且美濃絹三疋筑紫綿二屯を遺り來り。猶此妖災の身禊し給へとつゝしみて 願ふ。翁これを納めて。祝部らにわかちあたへ。自は一疋一屯をもとゞめずして。豊 雄にむかひ。畜なんぢが秀麗にたはけてなんぢをまとふ。なんぢ又畜が假の化に魅は されて丈夫心なし。今より雄気してよく心を静まりまさば。此らの邪神を遂はんに翁 が力をもかり給はじ。ゆめ/\心を静まりませとて実やかに覚しぬ。豊雄夢のさめた るこゝちに。禮言盡ずして帰り來る。金忠にむかひて。此年月畜に魅はされしは己が 心の正しからぬなりし。親兄の孝をもなさで。君が家の羈ならんは由縁なし。御恵い とかたじけなけれど。又も参りなんとて。紀の國に帰りける。父母太郎夫婦。此恐し かりつる事を聞て。いよゝ豊雄が過ならぬを憐み。かつは妖怪の執ねきを恐れける。 かくて鰥にてあらするにこそ。妻むかへさせんとてはかりける。芝の里に芝の庄司な るものあり。女子一人もてりしを。大内の采女にまゐらせてありしが。此度いとま申 給はり。此豊雄を聟がねにとて。媒氏をもて大宅が許へいひ納る。よき事なりて即因 みをなしける。かくて都へも迎の人を登せしかは。此采女富子なるものよろこびて帰 り來る。年來の大宮仕へに馴こしかば。萬の行儀よりして。姿なども花やぎ勝りけり。 豊雄こゝに迎へられて見るに。此富子がかたちいとよく萬心に足ひぬるに。かの蛇が 懸想せしこともおろ/\おもひ出るなるべし。はじめの夜は事なければ書ず。二日の 夜。よきほどの酔ごゝちにて。年來の大内住に。邊鄙の人ははたうるさくまさん。か の御わたりにては。何の中将宰相の君などいふ添ぶし給ふらん。今更にくゝこそおぼ ゆれなど戯るゝに。富子即面をあげて。古き契を忘れ給ひて。かくことなる事なき人 を時めかし給ふこそ。こなたよりまして悪くあれといふは。姿こそかはれ。正しく真 女子が聲なり。聞にあさましう。身の毛もたちて恐しく。只あきれまどふを。女打ゑ みて。吾君な怪しみ給ひそ。海に誓ひ山に盟ひし事を速くわすれ給ふとも。さるべき 縁にしのあれば又もあひ見奉るものを。他し人のいふことをまことしくおぼして。強 に遠ざけ給はんには。恨み報ひなん。紀路の山々さばかり高くとも。君が血をもて峯 より谷に潅ぎくださん。あたら御身をいたづらになし果給ひそといふに。只わなゝき にわなゝかれて。今やとらるべきこゝちに死入ける。屏風のうしろより。吾君いかに むつかり給ふ。かうめでたき御契なるはとて出るはまろやなり。見るに又膽を飛し。 眼を閉て伏向に臥す。和めつ驚しつかはる%\物うちいへど。只死入たるやうにて夜 明ぬ。かくて閨房を免れ出て庄司にむかひ。かう/\の恐しき事あなり。これいかに して放なん。よく計り給へといふも。背にや聞らんと聲を小やかにしてかたる。庄司 も妻も面を青くして歎きまどひ。こはいかにすべき。こゝに都の鞍馬寺の僧の。年々 熊野に詣づるが。きのふより此向岳の蘭若に宿りたり。いとも験なる法師にて凡疫病 妖災蝗などをもよく祈るよしにて。此郷の人は貴みあへり。此法師請へてんとて。あ はたゝしく呼つげるに。漸して來りぬ。しか/\のよしを語れば。此法師鼻を高くし て。これからの蠱物らを捉んは何の難き事にもあらじ。必静まりおはせとやすけにい ふに。人々心落ゐぬ。法師まづ雄黄をもとめて薬の水を調じ。小瓶に堪へて。かの閨 房にむかふ。人々驚隠るゝを。法師嘲わらひて。老たるも童も必そこにおはせ。此蛇 只今捉て見せ奉らんとてすゝみゆく。閨房の戸あくるを遅しと。かの蛇頭をさし出し て法師にむかふ。此頭何はかりの物ぞ。此戸口に充満て。雪を積たるよりも白く輝々 しく。眼は鏡の如く。角は枯木の如。三尺餘りの口を開き。紅の舌を吐て。只一呑に 飲らん勢ひをなす。あなやと叫びて。手にすゑし小瓶をもそこに打すてゝ。たつ足も なく。展轉びはひ倒れて。からうじてのがれ來り。人々にむかひ。あな恐ろし。祟り ます御神にてましますものを。など法師らが祈奉らん。此手足なくば。はた命失なひ てんといふ/\絶入ぬ。人々扶け起すれど。すべて面も肌も黒く赤く染なしたるが如 に。熱き事焚火に手さすらんにひとし。毒氣にあたりたると見えて。後は只眼のみは たらきて物いひたげなれど。聲さへなさでぞある。水濯ぎなどすれど。つひに死ける。 これを見る人いよゝ魂も身に添ぬ思ひして泣惑ふ。豊雄すこし心を收めて。かく験な る法師だも祈得ず。執ねく我を纏ふものから。天地のあひだにあらんかぎりは探し得 られなんおのが命ひとつに人々を苦しむるは実ならず。今は人をもかたらはじ。やす くおぼせとて閨房にゆくを。庄司の人々こは物に狂ひ給ふかといへど。更に聞ず顔に かしこにゆく。戸を静に明れば。物の騒がしき音もなくて。此二人ぞむかひゐたる。 富子豊雄にむかひて。君何の讐に我を捉へんとて人をかたらひ給う。此後も仇をもて 報ひ給はゞ。君が御身のみにあらじ。此郷の人々をもすべて苦しきめ見せなん。ひた すら吾貞操をうれしとおぼして。徒々しき御心をなおぼしそと。いとけさうしていふ ぞうたてかりき。豊雄いふは。世の諺にも聞ることあり。人かならず虎を害する心な けれども。虎反りて人を傷る意ありとや。なんぢ人ならぬ心より。我を纏ふて幾度か からきめを見するさへあるに。かりそめ言をだにも此恐しき報ひをなんいふは。いと むくつけなり。されど吾を慕ふ心ははた世人にもかはらざれば。こゝにありて人々の 歎き給はんがいたはし。此富子が命ひとつたすけよかし。然我をいづくにも連ゆけと いへば。いと喜しげに點頭をる。又立出て庄司にむかひ。かう浅ましきものゝ添てあ れば。こゝにありて人々を苦しめ奉らんはいと心なきことなり。只今暇給はらば。娘 子の命も恙なくおはすべしといふを。庄司更に肯ず。我弓の本末をもしりながら。か くいひがひなからんは大宅の人%\のおぼす心もはづかし。猶計較なん。小松原の道 成寺に法海和尚とて貴とき祈の師おはす。今は老て室の外にも出ずと聞ど。我為には いかにも/\捨給はじとて。馬にていそぎ出たちぬ。道遥なれば夜なかばかりに蘭若 に到る。老和尚眠蔵をゐざり出て。此物がたりを聞て。そは浅ましくおほすべし。今 は老朽て験あるべくもおぼえ侍らねど。君が家の災ひを黙してやあらん。まづおはせ。 法師も即詣なんとて。芥子の香にしみたる袈裟とり出て。庄司にあたへ。畜をやすく すかしよせて。これをもて頭に打かづけ。力を出して押ふせ給へ。手弱くあらばおそ らくは迯さらん。よく念じてよくなし給へと実やかに教ふ。庄司よろこぼひつゝ馬を 飛してかへりぬ。豊雄を密に招きて。比事よくしてよとて袈裟をあたふ。豊雄これを 懐に隠して閨房にいき。庄司今はいとまたびぬ。いざたまへ出立なんといふ。いと喜 しげにてあるを。此袈裟とり出てはやく打かづけ。力をきはめて押ふせぬれば。あな 苦し。なんぢ何とてかく情なきぞ。しばしこゝ放せよかしといへど。猶力にまかせて 押ふせぬ。法海和尚の輿やがて入來る。庄司の人々に扶けられてこゝにいたり給ひ。 口のうちつぶ/\と念じ給ひつゝ。豊雄を退けて。かの袈裟とりて見給へば。富子は 現なく伏たる上に。白き蛇の三尺あまりなる蟠りて動だもせずてぞある。老和尚これ を捉へて。徒弟が捧たる鉄鉢に納給ふ。猶念じ給へば。屏風の背より。尺ばかりの小 蛇はひ出るを。是をも捉て鉢に納給ひ。かの袈裟をもてよく封じ給ひ。そがまゝに輿 に乗せ給へば。人々掌をあはせ涙を流して敬まひ奉る。蘭若に帰り給ひて。堂の前を 深く掘せて。鉢のまゝに埋させ。永劫があひだ世に出ることを戒しめ給ふ。今猶蛇が 塚ありとかや。庄司が女子はつひに病にそみてむなしくなりぬ。豊雄は命恙なしとな んかたりつたへける

雨月物語四之巻終
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[1]The Ueda Akinari Zenshu reads 此隠神のために脳まされ給ふが。