University of Virginia Library

3. 雨月物語巻之三

3.5. 佛法僧

うらやすの國ひさしく。民作業をたのしむあまりに。春は花の下に息らひ。秋は錦の 林を尋ね。しらぬ火の筑紫路もしらではと械まくらする人の。富士筑紫の嶺/\を心 にしむるぞそゞろなるかな。伊勢の相可といふ郷に。拝志氏の人。世をはやく嗣に譲 り。忌こともなく頭おろして。名を夢然とあらため従來身に病さへなくて。彼此の旅 寝を老のたのしみとする。季子作之治なるものが生長の頑なるをうれひて。京の人見 するとて。一月あまり二条の別業に逗まりて。三月の末吉野の奥の花を見て。知れる 寺院に七日はかりかたらい。此ついでにいまだ高野山を見ず。いざとて。夏のはじめ 青葉の茂みをわけつゝ。天の川といふより踰て。摩尼の御山にいたる。道のゆくての 嶮しきになづみて。おもはずも日かたふきぬ。壇場。諸堂霊廟。残りなく拝みめぐり て。こゝに宿からんといへど。ふつに答ふるものなし。そこを行人に所の掟をきけば。 寺院僧坊に便なき人は。麓にくだりて明すべし。此山すべて旅人に一夜をかす事なし とかたる。いかゞはせん。さすがにも老の嶮しき山路を來しがうへに。事のよしを聞 きて大きに心倦つかれぬ。作之治がいふ。日もくれ。足も痛みて。いかゞしてあまた のみちをくだらん。弱き身は草に臥とも厭ひなし。只病給はん事の悲しさよ。夢然云。 旅はかゝるをこそ哀れともいふなれ。今夜脚をやぶり。倦つかれて山をくだるともお のが古郷にもあらず。翌のみち又はかりがたし。此山は扶桑第一の霊場。大師の廣徳 かたるに尽ず。殊にも來りて通夜し奉り。後世の事たのみ聞ゆべきに。幸の時なれば。 霊廟に夜もすがら法施したてまつるべしとて。杉の下道のをぐらきを行/\。霊廟の 前なる燈篭堂の簀子に上りて。雨具うぢ敷座をまうけて。閑に念仏しつゝも。夜の更 ゆくをわびてぞある。方五十町に開きて。あやしげなる林も見えず。小石だも掃ひし 福田ながら。さすがにこゝは寺院遠く。陀羅尼鈴錫の音も聞えず。木立は雲をしのぎ て茂さび。道に界ふ水の音ほそ%\と清わたりて物がなしき。寝られぬまゝに夢然か たりていふ。そも/\大師の神化。土石草木も霊を啓きて。八百とせあまりの今にい たりて。いよゝあらたに。いよゝたふとし。遺芳歴踪多きが中に。此山なん第一の道 場なり。太師いまぞかりけるむかし。遠く唐土にわたり給ひ。あの國にて感させ給ふ 事おはして。此三鈷のとゞまる所我道を揚る霊地なりとて。杳冥にむかひて抛させ給 ふが。はた此山にとゝまりぬる。壇場の御前なる三鈷の松こそ此物の落とゞまりし地 なりと聞。すべて此山の草木泉石霊ならざるはあらすとなん。こよひ不思議にもこゝ に一夜をかりたてまつる事。一世ならぬ善縁なり。なんぢ弱きとて努/\信心をこた るべからずと。小やかにかたるも清て心ぼそし。御廟のうしろの林にと覚えて。仏法 /\となく鳥の音山彦にこたへてちかく聞ゆ。夢然目さむる心ちして。あなめづらし。 あの啼鳥こそ仏法僧といふならめ。かねて此山に栖つるとは聞しかど。まさに其音を 聞しといふ人もなきに。こよひのやどりまことに滅罪生善の祥なるや。かの鳥は清浄 の地をえらみてすめるよしなり。上野の國迦葉山。下野の國二荒山。山城の醍醐の峯。 河内の杵長山。就中此山にすむ事。大師の詩偈ありて世の人よくしれり

寒林獨坐草堂暁三寳之聲聞一鳥
一鳥有聲人有心性心雲水倶了々

又ふるき歌に

松の尾の峯静なる曙にあふぎて聞けば佛法僧啼

むかし最福寺の延朗法師は世にならびなき法華者なりしほどに。松の尾の御神此鳥を して常に延朗につかへしめ給ふよしをいひ傳ふれば。かの神垣にも巣よしは聞えぬ。 こよひの竒妙既に一鳥聲あり。我こゝにありて心なからんやとて。平生のたのしみと する俳諧風の十七言を。しばしうちかたふいていひ出ける

鳥の音も秘密の山の茂みかな

旅硯とり出て御燈の光に書つけ。今一聲もかなと耳を倚るに。思ひがけずも遠く寺院 の方より。前を追ふ聲の厳敷聞えて。やゝ近づき來たり。何人の夜深て詣給ふやと。 異しくも恐しく。親子顔を見あはせて息をつめ。そなたをのみまもり居るに。はや前 駆の若侍橋板をあらゝかに踏てこゝに來る。おどろきて堂の右に潜みかくるゝを。武 士はやく見つけて。何者なるぞ。殿下のわたらせ給ふ。疾下りよといふに。あはたゝ しく簀子をくだり。土に俯して跪まる。程なく多くの足音聞ゆる中に。沓音高く響て。 烏帽子直衣めしたる貴人堂に上り給へば。従者の武士四五人ばかり左右に座をまうく。 かの貴人人々に向ひて。誰/\はなど來らざると課せらるゝに。やがてぞ参りつらめ と奏す。又一群の足音して。威儀ある武士。頭まろけたる入道等うち交りて。禮たて まつりて堂に昇る。貴人只今來りし武士にむかひて。常陸は何とておそく参りたるぞ とあれば。かの武士いふ。白江熊谷の両士。公に大御酒すゝめたてまつるとて実やか なるに。臣も鮮き物一種調じまいらせんため。御従に後れたてまつりぬと奏す。はや くさかなをつらねてすゝめまいらすれば。万作酌まゐれとぞ課せらる。恐まりて。美 相の若士膝行よりて瓶子を捧ぐ。かなたこなたに杯をめぐらしていと興ありげなり。 貴人又日はく。絶て紹巴が説話を聞ず。召せとの給ふに。呼つぐやうなりしが。我跪 まりし背の方より。大なる法師の。面うちひらめきて。目鼻あざやかなる人の。僧衣 かいつくろひて座の末にまゐれり。貴人古語かれこれ問弁へ給ふに。詳に答へたてま つるを。いと/\感させ給ふて。他に録とらせよとの給ふ。一人の武士かの法師に問 ていふ。此山は大徳の啓き給ふて。土石草木も霊なきはあらずと聞。さるに玉川の流 には毒あり。人飲時は斃るが故に。大師のよませ給ふ哥とて

わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水

といふことを聞傳へたり。大徳のさすがに。此毒ある流をばなど涸ては果し給はぬや。 いぶかしき事を足下にはいかに弁へ給う。法師笑をふくみていふは。此哥は風雅集に 撰み入給ふ。其端詞に。高野の奥の院へまゐる道に。玉川といふ河の水上に毒虫おほ かりけれは。此流を飲まじきよしをしめしおきて後よみ侍りけるとことわらせ給へば。 足下のおぼえ給ふ如くなり。されど今の御疑ひ僻事ならぬは。大師は神通自在にして 隠神を役して道なきをらひらき。巖を鐫には土を穿よりも易く。大蛇を禁しめ。化鳥 を奉仕しめ給ふ事。天が下の人の仰ぎたてまつる功なるを思ふには。此哥の端の詞ぞ まことしからね。もとより此玉河てふ川は國/\にありて。いづれをよめる歌も其流 もきよきを誉しなるを思へば。こゝの玉川も毒ある流にはあらで。哥の意も。かばか り名に負河の此山にあるを。こゝに詣づる人は忘る/\も。流れの清きに愛て手に掬 びつらんとよませ給ふにやあらんを。後の人の毒ありといふ狂言より。此端詞はつく りなせしものかとも思はるゝなり。又深く疑ふときには。此歌の調今の京の初の口風 にもあらず。おほよそ此國の古語に。玉蘰玉簾珠衣の類は。形をほめ清きを賞る語な るから。清水をも玉水玉の井玉河ともほむるなり。毒ある流れをなど玉てふ語は冠ら しめん。強に佛をたふとむ人の。歌の意に細妙からぬは。これほどの訛は幾らをもし いづるなり。足下は歌よむ人にもおはせで。此歌の意異しみ給ふは用意ある事こそと 篤く感にける。貴人をはじめ人々も此ことわりを頻りに感させ給ふ。御堂のうしろの 方に仏法/\と啼音ちかく聞ゆるに。貴人杯をあげ給ひて。例の鳥絶て鳴ざりしに。 今夜の酒宴に栄あるぞ。紹巴いかにと課せ給ふ。法師かしこまりて。某が短句公にも 御耳すゝびましまさん。こゝに旅人の通夜しけるが。今の夜の俳諧風をまうして侍る。 公にはめづらしくおはさんに召て聞せ給へといふ。それ召せと課せらるゝに。若きさ むらひ夢然が方へむかひ。召給ふぞちかうまゐれと云。夢現ともわかで。おそろしさ のまゝに御まのあたりへはひ出る。法師夢然にむかひ。前によみつる詞を公に申上げ よといふ。夢然恐る/\。何をか申つる更に覚え侍らず。只赦し給はれと云。法師か さねて。秘密の山とは申さゞるや。殿下の問せ給ふ。いそぎ申上よといふ。夢然いよ /\恐れて。殿下と課せ出され侍るは誰にてわたらせ給ひ。かゝる深山に夜宴をもよ ほし給ふや。更にいぶかしき事に侍といふ。法師答へて。殿下と申奉るは関白秀次公 にてわたらせ給ふ。人々は木村常陸介。雀部淡路。白江備後。熊谷大膳。粟野杢。日 比野下野。山口少雲。丸毛不心。隆西入道。山本主殿。山田三十郎。不破万作。かく 云は紹巴法橋なり汝等不思議の御目見えつかまつりたるは。前のことばいそぎ申上げ よといふ。頭に髪あらばふとるべきばかりに凄しく肝魂も虚にかへるこゝちして。振 ふ/\。頭陀嚢より清き紙取出て。筆もしどろに書つけてさし出すを。主殿取てたか く吟じ上る

鳥の音も秘密の山の茂みかな

貴人聞せ給ひて。口がしこくもつかまつりしな。誰此末句をまうせとのたまふに。山 田三十郎座をすゝみて。某つかうまつらんとて。しばしうちかたふきてかくなん

芥子たき明すみじか夜の牀

いかゞあるべきと紹巴に見する。よろしくまうされたりと公の前に出すを見給ひて。 片羽にもあらぬはと興じ給ひて。又杯を揚てめぐらし給ふ。淡路と聞えし人にはかに 色を違へて。はや修羅の時にや。阿修羅ども御迎ひに來ると聞え侍る。立せ給へとい へば。一座の人々忽面に血を潅ぎし如く。いざ石田増田が徒に今夜も泡吹せんと勇み 立躁ぐ。秀次木村に向はせ給ひ。よしなき奴に我姿を見せつるぞ。他二人も修羅につ れ來れと課せある。老臣の人々かけ隔たりて聲をそろへ。いまだ命つきざる者なり。 例の悪業なさせ給ひそといふ詞も。人々の形も。遠く雲井に行がごとし。親子は気絶 てしばしがうち死入けるが。しのゝめの明ゆく空に。ふる露の冷やかなるに生出しか ど。いまだ明きらぬ恐ろしさに。大師の御名をせはしく唱へつゝ。漸日出ると見て。 いそぎ山をくだり。京にかへりて薬鍼の保養をなしける。一日夢然三条の橋を過る時。 悪ぎやく塚の事思ひ出るより。かの寺眺られて白昼ながら物凄しくありけると。京人 にかたりしを。そがまゝにしるしぬ

3.6. 吉備津の釜

妬婦の養ひがたきも。老ての後其功を知ると。咨これ何人の語ぞや。害ひの甚しから ぬも商工を妨げ物を破りて。垣の隣の口をふせぎがたく。害ひの大なるにおよびては。 家を失ひ國をほろぼして。天が下に笑を傳ふ。いにしへより此毒にあたる人幾許とい ふ事をしらず。死て蟒となり。或は霹靂を震ふて怨を報ふ類は。其肉を醢にするとも 飽べからず。さるためしは希なり。夫のおのれをよく脩めて教へなば。此患おのづか ら避べきものを。只かりそめなる徒ことに。女の慳しき性を募らしめて。其身の憂を もとむるにぞありける。禽を制するは気にあり。婦を制するは其夫の雄ゝしきにあり といふは。現にさることぞかし。吉備の國賀夜郡庭妹の郷に。井沢庄太夫といふもの あり。祖父は播磨の赤松に仕へしが。去ぬる嘉吉元年の乱に。かの館を去てこゝに來 り。庄太夫にいたるまで三代を經て。春耕し。秋收めて。家豊にくらしけり。一子正 太郎なるもの農業を厭ふあまりに。酒に乱れ色に酖りて。父が掟を守らず。父母これ を嘆きて

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私にはかるは。あはれ良人の女子のかほよきを 娶りてあはせなば。渠が身もおのづから脩まりなんとて。あまねく國中をもとむるに。 幸に媒氏ありていふ。吉備津の神主香央造酒が女子は。うまれだち秀麗にて。父母に もよく仕へ。かつ歌をよみ。箏に工みなり。従來かの家は吉備の鴨別が裔にて家系も 正しければ。君が家に因み給ふは果吉祥なるべし。此事の就んは老が願ふ所なり。大 人の御心いかにおぼさんやといふ。庄太夫大に怡び。よくも説せ給ふものかな。此事 我家にとりて千とせの計なりといへども。香央は此國の貴族にて。我は氏なき田夫な り。門戸敵すべからねば。おそらくは肯がひ給はじ。媒氏の翁笑をつくりて。大人の 謙り給ふ事甚し。我かならず万歳を諷ふべしと。往て香央に説ば。彼方にもよろこび つゝ。妻なるものにもかたらふに。妻もいさみていふ。我女子既に十七歳になりぬれ ば。朝夕によき人がな娶せんものをと。心もおちゐ侍らず。はやく日をえらみて聘礼 を納給へと。強にすゝむれば。盟約すでになりて井沢にかへりことす。即聘礼を厚く とゝのへて送り納れ。よき日をとりて婚儀をもよほしけり。猶幸を神に祈るとて。巫 子祝部を召あつめて御湯をたてまつる。そも/\當社に祈誓する人は。数の秡物を供 へて御湯を奉り。吉祥凶祥を占ふ。巫子祝詞をはり。湯の沸上るにおよびて。吉祥に は釜の鳴音牛の吼るが如し。凶きは釜に音なし。是を吉備津の御釜秡といふ。さるに 香央が家の事は。神の祈させ給はぬにや。只秋の虫の叢にすだくばかりの聲もなし。 こゝに疑ひをおこして。此祥を妻にかたらふ。妻更に疑はず。御釜の音なかりしは祝 部等が身の清からぬにぞあらめ。既に聘礼を納めしうへ。かの赤縄に繋ぎては。仇あ る家。異なる域なりとも易べからずと聞ものを。ことに井沢は弓の本末をもしりたる 人の流にて。掟ある家と聞けば。今否むとも承がはじ。ことに佳婿の麗なるをほの聞 て。我児も日をかぞへて待わぶる物を。今のよからぬ言を聞ものならば。不慮なる事 をや仕出ん。其とき悔るともかへらじと言を尽して諫むるは。まことに女の意ばへな るべし。香央も従來ねがふ因みなれば深く疑はず。妻のことばに従て婚儀とゝのひ。 両家の親族氏族。鶴の千とせ。亀の万代をうたひことぶきけり。香央の女子磯良かし こに往てより。夙に起。おそく臥て。常に舅姑の傍を去ず。夫が性をはかりて。心を 尽して仕へければ。井沢夫婦は孝節を感たしとて歓びに耐ねば。正太郎も其志に愛て むつまじくかたらひけり。されどおのがまゝのたはけたる性はいかにせん。いつの比 より鞆の津の袖といふ妓女にふかくなじみて。遂に贖ひ出し。ちかき里に別荘をしつ らひ。かしこに日をかさねて家にかへらず。磯良これを怨みて。或は舅姑の忿に托て 諫め。或ひは徒なる心をうらみかこてども。大虚にのみ聞なして。後は月をわたりて かへり來らす。父は磯良が切なる行止を見るに忍びず。正太郎を責て押篭ける。磯良 これを悲しがりて。朝夕の奴も殊に実やかに。かつ袖が方へも私に物を餉りて。信の かぎりをつくしける。一日父が宿にあらぬ間に。正太郎磯良をかたらひていふ。御許 の信ある操を見て。今はおのれが身の罪をくゆるばかりなり。かの女をも古郷に送り てのち。父の面を和め奉らん。渠は播磨の印南野の者なるが。親もなき身の浅ましく てあるを。いとかなしく思ひて憐れをもかけつるなり。我に捨られなば。はた舩泊り の妓女となるべし。おなじ浅ましき奴なりとも。京は人の情もありと聞ば。渠をば京 に送りやりて。栄ある人に仕へさせたく思ふなり。我かくてあれば万に貧しかりぬべ し。路の代身にまとふ物も誰がはかりことしてあたへん。御許此事をよくして渠を恵 み給へと。ねんごろにあつらへけるを。磯良いとも喜しく。此事安くおぼし給へとて。 私におのが衣服調度を金に貿。猶香央の母が許へも偽りて金を乞。正太郎に与へける。 此金を得て密に家を脱れ出。袖なるものを倶して。京の方へ迯のぼりける。かくまで たばかられしかば。今はひたすらにうらみ嘆きて
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。遂に 重き病に臥にけり。井沢香央の人々彼を悪み此を哀みて。専醫の験をもとむれども。 粥さへ日々にすたりて。よろづにたのみなくぞ見えにけり。こゝに播磨の國印南郡荒 井の里に。彦六といふ男あり。渠は袖とちかき従兄の因あれば。先これを訪らふて。 しばらく足を休めける。彦六正太郎にむかひて。京なりとて人ごとにたのもしくもあ らじ。こゝに駐られよ。一飯をわけて。ともに過活のはかりことあらんと。たのみあ る詞に心おちゐて。こゝに住べきに定めける。彦六我住となりなる破屋をかりて住し め。友得たりとて怡びけり。しかるに袖。風のこゝちといひしが。何となく脳み出て。 鬼化のやうに狂はしげなれば。こゝに來りて幾日もあらず。此禍に係る悲しさに。み づからも食さへわすれて抱き扶くれども。只音をのみ泣て。胸窮り堪がたげに。さむ れば常にかはるともなし。窮鬼といふものにや。古郷に捨し人のもしやと獨むね苦し。 彦六これを諫めて。いかでさる事のあらん。疫といふものゝ脳ましきはあまた見來り ぬ。熱き心少しさめたらんには。夢わすれたるやうなるべしと。やすげにいふぞたの みなる。看々露ばかりのしるしもなく。七日にして空しくなりぬ。天を仰ぎ。地を敲 きて哭悲しみ。ともにもと物狂はしきを。さま%\といひ和さめて。かくてはとて遂 に曠野の烟となしはてぬ。骨をひろひ壟を築て塔婆を営み。僧を迎へて菩提のことね んごろに吊らひける。正太郎今は俯して黄泉をしたへども招魂の法をももとむる方な く。仰ぎて古郷をおもへはかへりて地下よりも遠きこゝちせられ。前に渡りなく。後 に途をうしなひ。昼はしみらに打臥て。夕々ごとには壟のもとに詣て見れば。小草は やくも繁りて。虫のこゑすゞろに悲し。此秋のわびしきは我身ひとつぞと思ひつゞく るに。天雲のよそにも同じなげきありて。ならびたる新壟あり。こゝに詣る女の。世 にも悲しげなる形して。花をたむけ水を潅きたるを見て。あな哀れ。わかき御許のか く気疎きあら野にさまよひ給ふよといふに。女かへり見て。我身夕々ごとに詣侍るに は。殿はかならず前に詣給う。さりがたき御方に別れ給ふにてやまさん。御心のうち はかりまいらせて悲しと潛然となく。正太郎いふ。さる事に侍り。十日ばかりさきに かなしき婦を亡なひたるが。世に残りて憑みなく侍れば。こゝに詣ることをこそ心放 にものし侍るなれ。御許にもさこそましますなるべし。女いふ。かく詣つかふまつる は。憑みつる君の御迹にて。いつ/\の日こゝに葬り奉る。家に残ります女君のあま りに歎かせ給ひて。此頃はむつかしき病にそませ給ふなれば。かくかはりまいらせて。 香花をはこび侍るなりといふ。正太郎云。刀自の君の病給ふもいとことわりなるもの を。そも古人は何人にて。家は何地に住せ給ふや。女いふ。憑みつる君は。此國にて は由縁ある御方なりしが。人の讒にあひて領所をも失ひ。今は此野ゝ隈に侘しくて住 せ給ふ。女君は國のとなりまでも聞え給ふ美人なるが。此君によりてぞ家所領をも亡 し給ひぬれとかたる。此物がたりに心のうつるとはなくて。さしてもその君のはかな くて住せ給ふはこゝちかきにや。訪らひまいらせて。同じ悲しみをもかたり和さまん。 倶し給へといふ。家は殿の來らせ給ふ道のすこし引入たる方なり。便りなくませば 時々訪せ給へ。待侘給はんものをと前に立てあゆむ。二丁あまりを來てほそき徑あり。 こゝよりも一丁ばかりをあゆみて。をぐらき林の裏にちいさき草屋あり。竹の扉のわ びしきに。七日あまりの月のあかくさし入て。ほどなき庭の荒たるさへ見ゆ。ほそき 燈火の光り窓の紙をもりてうらさびし。こゝに待せ給へとて内に入ぬ。苔むしたる古 井のもとに立て見入るに。唐紙すこし明たる間より。火影吹あふちて。黒棚のきらめ きたるもゆかしく覚ゆ。女出來りて。御訪らひのよし申つるに。入らせ給へ。物隔て かたりまいらせんと端の方へ膝行出給ふ。彼所に入らせ給へとて。前栽をめぐりて奥 の方へともなひ行。二間の客殿を人の入ばかり明て。低き屏風を立。古き衾の端出て。 主はこゝにありと見えたり。正太郎かなたに向ひて。はかなくて病にさへそませ給ふ よし。おのれもいとをしき妻を亡なひて侍れば。おなじ悲しみをも問かはしまいらせ んとて推て詣侍りぬといふ。あるじの女屏風すこし引あけて。めづらしくもあひ見奉 るものかな。つらき報ひの程しらせまいらせんといふに。驚きて見れば。古郷に残せ し礒良なり。顔の色いと青ざめて。たゆき眼すざましく。我を指たる手の青くほそり たる恐しさに。あなやと叫んでたをれ死す。時うつりて生出。眼をほそくひらき見る に。家と見しはもとありし荒野の三昧堂にて。黒き佛のみぞ立せまします。里遠き犬 の聲を力に。家に走りかへりて。彦六にしか/\のよしをかたりければ。なでふ狐に 欺かれしなるべし。心の臆れたるときはかならず迷はし神の魘ふものぞ。足下のごと く虚弱人のかく患に沈みしは。神佛に祈りて心を收めつべし。刀田の里にたふとき陰 陽師のいます。身禊して厭符をも戴き給へと。いざなひて陰陽師の許にゆき。はじめ より詳にかたりて此占をもとむ。陰陽師占べ考へていふ。災すでに窮りて易からず。 さきに女の命をうばひ。怨み猶尽ず。足下の命も旦夕にせまる。此鬼世をさりぬるは 七日前なれば。今日より四十二日が間戸を閉ておもき物斎すべし。我禁しめを守らば 九死を出て全からんか。一時を過るともまぬがるべからずと。かたくをしへて。筆を とり。正太郎が背より手足におよぶまで。てんりうのごとき文字を書。猶朱符あまた 紙にしるして与へ。此呪を戸毎に貼て神佛を念ずべし。あやまちして身を亡ぶること なかれと教ふるに。恐れみかつよろこびて家にかへり。朱符を門に貼。窓に貼て。お もき物斎にこもりける。其夜三更の比おそろしきこゑしてあなにくや。こゝにたふと き符文を設つるよとつぶやきて復び聲なし。おそろしさのあまりに長き夜をかこつ。 程なく夜明ぬるに生出て。急ぎ彦六が方の壁を敲きて夜の事をかたる。彦六もはじめ て陰陽師が詞を奇なりとして。おのれも其夜は寝ずして三更の此を待くれける。松ふ く風物を僵すがごとく。雨さへふりて常ならぬ夜のさまに。壁を隔て聲をかけあひ。 既に四更にいたる。下屋の窓の紙にさと赤き光さして。あな悪や。こゝにも貼つるよ といふ聲。深き夜にはいとゞ凄しく。髪も生毛もこと/\く聳立て。しばらくは死入 たり。明れば夜のさまをかたり。暮れば明るを慕ひて。此月日頃千歳を過るよりも久 し。かの鬼も夜ごとに家を繞り或は屋の棟に叫びて。忿れる声夜ましにすざまし。か くして四十二日といふ其夜にいたりぬ。今は一夜にみたしぬれば。殊に慎みて。やゝ 五更の天もしら/\と明わたりぬ。長き夢のさめたる如く。やがて彦六をよぶに。壁 によりていかにと答ふ。おもき物いみも既に満ぬ。絶て兄長の面を見ず。なつかしさ に。かつ此月頃の憂怕しさを心のかぎりいひ和さまん。眠さまし給へ。我も外の方に 出んといふ。彦六用意なき男なれば。今は何かあらん。いざこなたへわたり給へと。 戸を明る事半ならず。となりの軒にあなやと叫ぶ聲耳をつらぬきて。思はず尻居に座 す。こは正太郎が身のうへにこそと。斧引提て大路に出れば。明たるといひし夜はい まだくらく。月は中天ながら影朧々として。風冷やかに。さて正太郎が戸は明はなし て其人は見えず。内にや逃入つらんと走り入て見れども。いづくに竄るべき住居にも あらねば。大路にや倒れけんともとむれども。其わたりには物もなし。いかになりつ るやと。あるひは異しみ。或は恐る/\。ともし火を挑げてこゝかしこを見廻るに。 明たる戸腋の壁に腥々しき血潅ぎ流て地につたふ。されど屍も骨も見えず。月あかり に見れば。軒の端にものあり。ともし火を捧げて照し見るに。男の髪の髻ばかりかゝ りて。外には露ばかりのものもなし。浅ましくもおそろしさは筆につくすべうもあら ずなん。夜も明てちかき野山を探しもとむれども。つひに其跡さへなくてやみぬ。此 事井沢が家へもいひおくりぬれば。涙ながらに香央にも告しらせぬ。されば陰陽師が 占のいちじるき。御釜の凶祥もはたたがはざりけるぞ。いともたふとかりけるとかた り傳へけり。

雨月物語三之巻終
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[1]The Ueda Akinari Zenshu reads 父母これを歎きて私にはかるは。
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[2]The Ueda Akinari Zenshu reads 今はひたすらにうらみ歎きて。