義經千本櫻
幕柱五千本 (Yoshitsune senbon zakura) | ||
大詰 川連法眼館の場
- 役名==九郎判官義經。
- 佐藤四郎兵衞忠信。
- 忠信實ハ源九郎狐。
- 龜井六郎重清。
- 駿河次郎清 繁。
- 川連法眼。
- 同妻、飛鳥。
- 横川の禪司覺範 實ハ能登守教經。
衆徒
時に何れも、今日の會合に、川連どのゝ詞、何とも以て、その意を得ぬ儀と存 じたるゆゑ、横川の禪司覺範どのへ、密訴に及びしに。
同
左やう/\、覺範どのゝ詞では、いよ/\義經は隱まつてあるに相違なきゆゑ
同
今宵を過さず、川連が館へ押寄せ、夜討にして義經が首討つて
同
鎌倉へ渡して、頼朝の恩賞にあづかれとの指圖。殊に夜討の駈引、覺範どのゝ指 揮に從ひ
同
山科の荒法橋は、燈籠ケ辻より一文字に押寄せ、梵鐘三ツ四ツ打ち立てゝ、敵を 騒がす合ひ圖の手配り。
同
また梅本の鬼佐渡は、如意輪寺の裏の手を、眞直ぐに六地藏の橋を引き、敵の逃 ぐるを待ちかけて、散々に討つて落し
同
覺範どのには、新坊谷の坊に火をかけ、聖天山より無二無三に駈け散らして、勝 利を得んと、評定これに一決して
同
各々合ひ圖の時を待つて、もし敵方に用意のあつては、一山の瑕瑾ゆな、我れ/ \四人は裏傳ひ。
同
川連が館へ忍び、拔けがけなして、法眼始め
同
手に立つ奴ばら、片ツ端
同
切つて/\切りまくり
同
義經が素頭取つて、鎌倉の
皆々
恩賞にあづからん。
衆徒
何れも、これより法眼が、館へ忍んで必ずとも。
三人
云ふにや及ぶ。手柄は仕勝ち。
衆徒
然らば何れも。
三人
合點だ。
[ト書]
ト山颪しになり、皆々勇み立ち、靜々と下座へ入る。チヨンと山幕切つて落す。 ト直ぐ淨瑠璃になる。
本舞臺、三間の間、一面に結構なる高足、二重舞臺見附け一面に金襖、正面、 瓦燈口。上の方、塗り骨綟張りの障子を斜に見切り、高欄、渡り金鐵物、上り段好み あり、誂らへの通り飾り付け、下の方、萩垣、櫻の立ち木、これに砧を仕かけ、すべ て川連館の體。琴唄にて幕明く。
[唄]
[utaChushin] 鶯の聲なかりせば雪消えぬ、山里いかで春を知らまし、春は來ながら 春ならぬ、九郎判官義經を、御慰めの琴三味や、川連法眼が奧座敷、音締めも世上忍 び駒、柱に立てる雁金も、春を見捨てぬ志し、實に頼もしき待遇なり。
[ト書]
ト向う揚げ幕にて
呼び
お歸り。
[唄]
[utaChushin] 今朝より他出の法眼、心に一物ある顏に、悠々と立歸れば、妻の飛鳥 は出で迎ひ。
[ト書]
ト向うより、法眼、袴長絹にて、中啓を持ち、出で來る。上手の障子を明け、妻 飛鳥、裲襠衣裳にて出で迎へ、兩人二重舞臺へ住ひ
飛鳥
我が夫には殊なう早いお歸り。今日の御評定、一山のお仕置か。但しは又、奧の お客義經さまの、御事でござりますかな。
法眼
オヽ、義經の事とも。
飛鳥
ムウ。さては芳野一山は、味方と申すやうな事でござりまするか。
法眼
成る程/\、衆徒の中にも、歸り坂の藥醫坊、山科の荒法橋、梅本の鬼佐渡等、 別しては横川の覺範、一端立つて、義經に味方と云ふは、我が心を探り見ると知つた るゆゑ、この法眼は鎌倉方と、云ひ放つて歸つたわやい。
飛鳥
ムウ。鎌倉方と仰しやつたは、衆徒の心を此方からも、探つて見るお心よな。
法眼
イヤ、この法眼、今日より心を改め、義經とは敵味方。
飛鳥
エヽ、アノお前は義經さまと。
法眼
オヽ、鎌倉どのへ討つて出す氣。疑はしくば、これを見よ。
[唄]
[utaChushin] 懷中の書翰投げ出せば、手に取上げ、文言殘らず讀み終り。
[ト書]
ト法眼、懷中より一通の書面を出して見せる。飛鳥、手に取つて見て、思ひ入れ。
飛鳥
こりや、義經公この山に、お忍びある事、鎌倉へ知れたやうな文體。
法眼
如何にも、汝が云ふ如く、天に口なし、人を以て云はしむる。告げ知らせし者な くして、小舅萩の左衞門より斯く云うて越すべきや。内通せられて知れたる上は、遁 がれなき判官どの。人に手柄をさせんより、我が手にかけて討つ所存。
飛鳥
エヽ、そりやお前、眞實でござりますか。
法眼
如何にも。
飛鳥
イヤ、ほんに/\、こなさんは、義經を切る心か。
法眼
くどい/\。
飛鳥
ハアヽ……さうぢや。
[唄]
[utaChushin] 夫が刀拔くより早く、自害と見ゆる、女房が、持つたる刃物引ツたく り。
[ト書]
ト飛鳥、法眼、刀を持つて、自害せんとする。法眼留めて
法眼
こりや、何んとする。なんで死ぬる。
[唄]
[utaChushin] 云ふ顏きつと打守り
飛鳥
なんで死ぬとは法眼どの、なぜ隔てゝは下さんす。恩賞の下し文、千萬遍來たと ても、一旦の契約を變ずるこなたの氣質ぢやないが、鎌倉どのゝ忠臣、萩の左衞門が 妹飛鳥、義經公の御隱れ家、兄の方へ知らせたかと、この状が來たゆゑに、疑うての 心ぢやの。覺えない云ひ譯を、マザ/\として居られうか。疑ふよりは一思ひに、殺 して下され。法眼どの。
[唄]
[utaChushin] 恨み涙ぞ誠なる、法眼始終聞き濟まし、以前の一通取るより早く、 寸々に引ツ裂き/\。
[ト書]
トこれにて法眼、今の状を寸々に引裂き捨て
法眼
僞りに命は捨てまじ。女房を疑うたは、未練には似たれとも、義經公へ拔け目な き我が忠節、衆徒らが胸中探り次第、心引き見るこの似せ状、引ツ裂き捨つれば安堵 して、自害をとまれ、女房飛鳥。
[唄]
[utaChushin] 解ける心は春の雪、恨みも消えてなかりけり。
[ト書]
ト奧にて
義經
法眼歸られしな。それへ參つて面談いたさん。
[唄]
[utaChushin] 面談ざうと義經公、奧の間より出させ給ひ。
[ト書]
ト管絃になり、奧より義經、壺折り衣裳にて、中啓を持ち、出で來り、褥の上に 座す。蒔繪の脇息、刀掛けに刀をかける。
[義經]
鞍馬山のよしみを忘れず、段々の厚志、殊に兼ねて申し談ぜし衆徒の評定、委細 あれにて承る。妻女の心底、祝着詞に述べ難し。過分に存ずる。
法眼
こは有り難き御諚。師の坊の命と云ひ、只ならぬこなた樣、疎略なき心底、御存 知の上は、身に餘る喜び、この上やあるべき。武藏坊どのは、奧州秀衡方へ遣はされ、 御家臣とても少なければ、龜井、駿河なんどが如く、思し召し下されませう。
[ト書]
ト花道より菖蒲革の足輕、一人出で來り
足輕
ハツ、申し上げまする。佐藤四郎兵衞忠信どの、君の御行くへを尋ね、お出でご ざりまする。これへ通し申さんや、如何計らひませうな。
義經
ナニ、忠信が參りしとや。對面なさん、これへと申せ。
足輕
ハツ。
[ト書]
ト引返して入る。
法眼
忠信どの入來とあれば、君にも何かと御物語り、暫らく奧へ。
飛鳥
左樣ならば我が君さま。
義經
法眼夫婦。
法眼
後程お目にかゝりませう。
[唄]
[utaChushin] 法眼夫婦は立つて行く。
[ト書]
ト法眼、飛鳥、奧へ入る。義經殘る。
[唄]
[utaChushin] 案内に連れて入り來る、佐藤四郎兵衞忠信、御座の間のこなたに出で、 絶えて久しき主君の顏、見るも無念の溜め涙、さし俯向いて詞なし、大將御機嫌斜め ならず。
[ト書]
ト向うより、忠信、好みの形にて、出で來り、直ぐに舞臺下の方へ來り、平伏す る。義經、思ひ入れ。
義經
汝に別れ爰かしこ、鎌倉どのゝ御詮議強く、身の置き所なかりしに、東光坊の弟 子、川連法眼に隱まはれ、心ならざる春を迎へ、暫らくの命をつぐ。我が姓名を讓り し其方、命全たくある事、我が運の盡きざるところ、頼もしゝ喜ばし。その砌り預け たる、靜は如何なりしぞや。
[唄]
[utaChushin] 御尋ねありければ、忠信不審げに承り。
忠信
こは存じがけなき仰せ。八島の平家一時に亡び、天下一統の凱歌を上げ給ふ折柄、 告げ來る母の病氣、聞し召し及ばれ、お暇賜はつて、本國出羽へ歸りしは、去年三月、 程なく別れし母が中陰、忌中に合戰の疵口起り、破傷風といふ病となり、既に命も危 ふき半、御兄弟の御仲裂け、堀川の御所沒落と承る口惜しさ。胸を射る程重なる病氣、 無念さ餘つて腹切らんと存ぜしが、せめては主君の御顏ばせ、今 一度拜し參らせんと、念願叶ひて本腹と申し、初立ちの長旅、忍びの道中、恙なくこ の館へ御入りと承り、只今參つた忠信に、姓名を賜はり、靜御前を預けしなんど、御 諚の趣き身に取つて、かつふつ覺えござりませぬ。
[唄]
[utaChushin] 云はせも敢へず、氣早の大將。
義經
ヤア、とぼけな忠信。堀川の館を立退きし時、折好く汝、國より歸り、靜が難儀 を救ひしゆゑ、我が着長を汝に與へ、九郎義經といふ姓名を讓り、靜を預け別れしに、 其方、世になき我れを見限りて、靜を鎌倉へ渡し、義經が在所探しに來たか。只今國 より歸りしとは、まざ/\しき僞はり表裏。漂泊しても、うつけぬ義經、謀らんとは、 奇怪至極。不忠二心の人外、アレ引ツ括つて面縛せよ。龜井は居らぬか。駿河、參れ。
[唄]
[utaChushin] 聲に駈け來る勇士の面々、裾端折つて忠信が、弓手右手に反り打かけ。
[ト書]
ト下座より、次郎、六郎出で來り
次郎
委細あれにて皆聞いた。サア、腕廻せ、四郎忠信。
六郎
靜御前のお行くへ、サア、明白に白状せよ。
忠信
サ、それは。
次郎
但し踏み付け繩かけうか。
忠信
サア。
次郎
白状するか。
忠信
サア。
兩人
サア。
三人
サア/\/\。
兩人
なんと/\。
[唄]
[utaChushin] なんと/\に難儀の最中。
[ト書]
トばた/\にて、向うより足輕、走り出て來り
足輕
靜御前の御供にて、四郎兵衞忠信どの、御出でにござりまする。
[ト書]
ト引返して入る。皆々思ひ入れ。
義經
ナニ、忠信これにある上に、又ぞろ忠信來りしとは、ハテ心得ぬ。
忠信
ムウ、我が名を騙る胡亂者。引ツ括つて大將への面晴れ。さうだ。
[ト書]
ト行かうとする。兩人、留めて
六郎
ヤア、ならぬ/\。詮議の濟まぬ其うちは。
次郎
動かす事、罷りならぬ。
[唄]
[utaChushin] 兩人向うを支へたり。
義經
イヤ、さなせぞ兩人。忠信これにある上に、また忠信が靜を同道。何にもせよ、 仔細ぞあらん。片時も早くこれへ通せ、重清、早く。
六郎
ハツ
[唄]
[utaChushin] あつと龜井は次の間へ。
[ト書]
ト六郎、向うへ一敬に入る。
[唄]
[utaChushin] 我が身危ぶむ忠信は、默して樣子を窺へば、別れ程經し君が顏、見た さ逢ひたさとつかはと、川連が奧の間に、歩み來る間もとけしなく
[ト書]
ト向うより、靜御前、袱紗包みの皷を持ち、出で來り、舞臺へ來て
靜
ヤア、我が君樣、お懷かしう、ござりましたわいなア。
[唄]
[utaChushin] 人目いとはず縋り付き、戀し床しの溜め/\を、涙の色に知らせたり。
義經
オヽ、女心に慕ふは尤も。別れし時云ひ聞かせし如く、人の情にあづかる義經、 輪廻きたなき振舞ひならねば、つれなくももてなしたり。して、同道せし忠信は、何 所に居るぞ。
靜
忠信どのは、たつた今お次まで同道せしが、爰へは未だ參られませぬか……オヽ、 それ/\、ても早う爰へ來てぢや。一緒にお目見得するものを、ちつとの間に先へ拔 けがけ。まだ軍場かと思うてか。ほんに、まん勝ちな人ではある。
[唄]
[utaChushin] 恨み口なる詞に不審、一倍晴れぬ四郎忠信。
忠信
アイヤ、靜さま、我が君もその如く、覺えなき御尋ね。拙者めは今の先、出羽の 國より戻りがけ、去年お暇申してから、お目にかゝるは只今始めて。
靜
エヽ、あの人の、じやら/\と、てんがうばつかり。
忠信
イヤ、てんがうではござりませぬ。大眞實。
靜
アレ、また眞顏で騙すのか。
[唄]
[utaChushin] 何氣も媚めく詞のうち、立戻る龜井六郎。
[ト書]
ト向うより、六郎、立戻つて來り
六郎
靜さま同道の忠信、引立て來らんと存ぜしところ、次の間にも有り合さず、玄關 長屋、所々方々尋ねましたるところ、皆暮れ相知れませぬやうにござりまする。
[唄]
[utaChushin] 申すに心迷ひ給ひ。
義經
ムウ、コレ靜、爰に居るは、其方を預けたる忠信ならず、只今國より歸りしと、 物語りするうち、靜と同道との案内、二人ある中にも見えざるは不審者、面體似たる 似せ者ならずや。靜、心は付かざるにや。
[唄]
[utaChushin] 仰せのうちに忠信を、つれ%\と打眺め。
靜
さう仰しやれば、どうやら小袖も形も違うてある。お待ち遊ばせや……それか… …オヽ、さうぢや。思ひ當る。
[唄]
[utaChushin] 事がある。
[靜]
君が筐と別れし時、賜はりし初音の鼓、御覽遊ばせ、此やうに、肌身も放さず手 に觸れて、忠信の介抱受け、八幡山崎小倉の里、所々に身を忍び居たりしに、折々に 留守のうち、君戀しさのこの鼓、打つて慰む度々、忠信歸らぬ事もなく、その音を感 に堪える事、ほんに酒の過ぎた人同然、打止めばキヨロリと何氣ない顏付きは、よく よく鼓が好きと初手は思ひ、二度三度四度目には、ても變つた事、五度目には不思議 立ち、六度目には怖氣立ち、それよりは打たざりしが、君は爰にと聞き付けて、心急 く道、忠信に離れた時、鼓の事思ひ出し、打てば不思議や目の前に、來るともなく見 えたるは、女心の迷ひ目かと、思うて連れ立ち來りしに、又この場の不思議。こりや マア、どう云ふ事でござりますぞいな。
[唄]
[utaChushin] 申し上ぐれば義經公。
義經
ムウ、鼓を打てば歸り來るとは、それぞ好き詮議の近道……忠信に尋ね問ふべき 仔細もあれば、奧の廣間へ引据ゑよ。
次郎
ハツ、忠信、お立ちやれ。
[唄]
[utaChushin] 龜井駿河も忠信に、引添うてこそ入りにける。
[ト書]
ト忠信、次郎、六郎、下座へ入る。
義經
イヤナニ靜、この詮議は、其方に申し付ける。その鼓を以て、同道なしたる忠信 を詮議せよ……もしも怪しき事あらば、この刀で、打つて捨てよ。
[ト書]
ト刀掛けに掛けたる一腰を取つて差出す。
靜
ハツ。
[ト書]
ト刀を受取る。
義經
我が手で打たれぬ鼓の妙音、心得たか。
靜
畏まりましてござりまする。
義經
しかと詮議を申し付けたぞ。
[唄]
[utaChushin] 帳臺深く入り給ふ。
[ト書]
ト義經奧へ入る。靜御前、殘る。
[唄]
[utaChushin] 靜は君の仰せを受け、手に取上げて引き結ぶ、しんき深紅と絢ひ交ぜ の、調べ結んで胴掛けて、手の中締めて肩に上げ、手品も優に打ち鳴らす、聲清らか に澄み渡り、心耳を澄ます妙音は、世に類なき初音の鼓、彼の洛陽に聞えたる、會稽 城門の越の鼓、斯くやと思ふ春風に、誘はれ來る佐藤忠信、靜が前に兩手を突き、音 に聽き惚れしその風情、すわやと見れば、打ち止まず、猶も樣子を調べの音色、聽入 り聽入る餘念の體、怪しき者とは見て取る靜、折よしと鼓を止め。
[ト書]
ト此うち靜、皷を取出し、胴を掛けて打つ。好き時分、向うより忠信出て來り、 舞臺へ來て、聽き惚れ居る。
靜
遲かりし忠信どの、我が君樣の殊ないお待兼ね。サア/\奧へ。
[唄]
[utaChushin] 詞にハツとは云ひながら、座を立ち遲れ、差し俯むく油斷を見濟まし、 切り付けるを、ヒラリと飛び退き、飛びしさり。
忠信
こりや靜さま、なんとなされます。
[唄]
[utaChushin] 咎められて機轉の笑ひ。
靜
ホヽヽヽ。オヽ、あの人のけうとい顏わいの。久し振りの靜が舞、見ようと御意 遊ばすゆゑ、八島の軍物語りを。
[唄]
[utaChushin] 舞の稽古と鼓を早め、斯くて源平入り亂れ、船は陸路へ、陸は磯へ漕 ぎよせ打出し打ち鳴らす、皷に又も聽入つて、餘念他愛もなき所を。
[靜]
忠信やらぬ。
[唄]
[utaChushin] 切りかゝる、太刀筋負はしてかい潜るを、付け入る柄元、しつかと取 り。
忠信
こりや靜さま、何科あつて騙し打。切らるゝ覺え、かつてござらぬ。
[唄]
[utaChushin] 刀たぐつて投げつくれば。
靜
ヤア、覺えないとは卑怯な一言。似せ忠信の詮議せよと、仰せを受けしこの靜。 云はずば斯うして云はさうか。
[唄]
[utaChushin] 皷を押取りはた/\/\、女のか弱き腕先に、打ち立てられて、ハア はつと、あやまり入つたる忠信に、皷打ちつけ、サア白状、サア/\/\と詰めかけ られ、一言半句も詞なく、只平伏して居たりしが、やう/\に頭を擡げ、初音の皷手 に取上げ、さも恭々しく押頂き、靜の前に直し置き、靜々立つて廣庭へ、下りる姿も 悄々と、見すぼらしげに手をつかへ。
忠信
今日が日まで隱しおほせ、人に知らせぬ身の上なれども、今日國より歸つたる、 誠の忠信に御不審かゝり、難儀とあるゆゑ、據ろなく、身の上を申し上ぐる、始まり は、それなる初音の鼓、桓武天皇の御宇、内裏に雨乞ひありし時、この大和の國に、 千年功經る牡狐、牡狐、二疋の狐を狩り出し、その狐の生皮を 以て、拵らへたるその鼓、雨の神を諫めの神樂、日に向ひてこれを打てば、鼓は元よ り浪の音、狐は陰の獸ゆゑ、水を發して降る雨に、民百姓は喜びの、聲を初めて上げ しより、初音の鼓と號け給ふ。その皷は私しが親、私しめは、その皷の子でござりま する。
[唄]
[utaChushin] 語るにゾツと怖氣立ち、騒ぐ心を押靜め。
靜
ムウ、其方の親はこの皷、その子ぢやと云やるからは、さては其方は、狐ぢやの。
[ト書]
トこれにて忠信、狐の姿に引拔く。
忠信
ハツ、成る程、雨の怒りに、兩親の狐を捕られ、殺されたその時は、親子の差別 も悲しい事も、辨へなき、まだ子狐、藻をかつく程年もたけ、鳥居の數も重なれど、 一日親をも養はず、生みの恩を送らねば、豕狼にも劣りしゆゑ、六萬四千の狐の下座 に付き、只野狐と下げしまれ、官上りの願も叶はず、親に不孝な子があれば、畜生よ 野良狐よと、人間では、仰しやれども。
[唄]
[utaChushin] 鳩の子は親鳥より、枝を下がつて禮儀を述べ、烏は親の養ひを、育み 返すも皆孝行、鳥でさへその通り、まして人の詞に通じ、人の情も知れる狐。
[忠信]
なんぼ愚痴無智の畜生でも、孝行と云ふ事を、知らいでなんと致しませう。とは 云ふものゝ親はなし、まだも頼みはその皷、千年功經る威徳には、皮に魂ひ止まつて、 性根入つたは即ち親、附添うて守護するは、まだこの上の孝行と思へど、淺ましや禁 中に、留め置き給へば、八百萬神宿直の御座、恐れあれば寄り付かれず。
[唄]
[utaChushin] 頼みの綱も切れ果しは。
[忠信]
前世に誰れを罪せしそ。人の爲に怨みする者、狐と生れ來ると云ふ、因果の經文 怨めしく、日に三度、夜に三度、五臟を絞る血の涙。
[唄]
[utaChushin] 火焔と見ゆる狐火は、胸を燃やする焔ぞや。
[忠信]
斯程業因深き身も、天道樣のお惠みで、不思議に初音の皷、義經公の御手に入り、 内裏を出れば恐れもなし、ハハア嬉しや喜ばしやと、その日より付添ふは、義經公の 御庇、稻荷の森にて忠信が、有り合はさばとの御悔み、せめて御恩を送らんと、その 忠信に成り代り、靜さまの御難儀を救ひました御褒美とあつて、勿體なや畜生に、清 和天皇の後胤、源九郎義經といふ、御姓名を賜はりしは、空恐ろしき身の冥加。これ と云ふも我が親に、孝行が盡したい、親大事と思ひ込んだ心が届き、大將の御名を下 されしは、人間の果を請けたる同然。いよ/\親が猶大切、片時も離れず付添ふ皷。
[唄]
[utaChushin] 靜さまは又我が君を、戀ひ慕ふ調の音、變らぬ音色と聞ゆれども。
[忠信]
この耳へは兩親が、物云ふ聲と聞ゆるゆゑ、呼び返されて幾度か、戻つた事もご ざりました。只今の皷の音は、私しゆゑに忠信どの、君の御不審蒙むつて、暫らくも 忠臣を苦しま は汝が科、早く歸れと父母の、教への詞に力なく、元の古巣へ歸りま する。今までは大將の、御目を掠めました段、お情には靜さま、お詑びなされて下さ りませ。
[唄]
[utaChushin] 縁の下より伸び上がり、我が親皷に打向ひ、交す詞のしり聲も、涙な がらの暇乞ひ、人間よりは睦ましゝ。
[忠信]
親仁樣、母樣、お詞を背きませず、私しはモウお暇申しまする、とは云ひながら、 お名殘惜しかるまいか。兩親に別れた折は何にも知らず、一日々々經つに付け、暫し もお側に居たい、産みの恩が送りたいと、思ひ暮らして泣き明かし、焦れた月日は四 百年、雨乞ひゆゑに殺されしと、思へば照る日が怨めしく。
[唄]
[utaChushin] 曇らぬ雨は我が涙。
[忠信]
願ひ叶ふが嬉しさに、年月馴染みし妻狐、中に儲けし我が子狐、不便さ餘つて幾 度か、引かるゝ心を胴慾に、荒野に捨てゝ出でながら、飢ゑはせぬか、凍えはせぬか、 若し狩人に捕はれはせぬか。我が親を慕ふ程、我が子も丁度このやうに、我れを慕は うかと、案じ過しがせらるるは。
[唄]
[utaChushin] 切つても切れぬ輪廻の絆、愛着の鎖に繋ぎ留められて。
[忠信]
肉も骨も身も碎くる程、悲しい妻子を振り捨てゝ、去年の春から付添うて丸一年、 經つや經たずに去ねとあるとて、なんとマア、アツと申して參られませうかいの/\。 お詞背かば不孝となり、盡した心も水の泡、切なさが餘つて、歸るこの身は何たる業。 まだせめてもの思ひ出に。大將の賜はつたる、源九郎を我が名にして、末世末代呼ば るゝとも、この悲しさは何とせん。靜さま、御推量なされて下さりませ。
[唄]
[utaChushin] 泣きつ口説いつ身悶えし、だうと伏して泣き 叫ぶ、大和の國の源九郎狐と、云ひ傳へしも哀れなり、靜は流石女氣の、彼れが誠に 目もうるみ、一間の方に打向ひ。
靜
我が君さま、お聞き遊ばされましたか。
[唄]
[utaChushin] 申す内より障子を開き。
[ト書]
ト奧より、義經出で來り
義經
オヽ、詳しく聞き届けた。さては人間にてはなかりしな。今までは義經も、狐と は知らざりし。不便な彼れが心ぢやなア。
[唄]
[utaChushin] 不便の心とありければ、頭をうな垂れ禮をなし、御大將を伏拜み/\、 座立ちは立ちながら、皷の方を懷かしげに、見返り/\行くとなく、消ゆるともなく 春霞。
[ト書]
ト忠信、揚げ幕へ入る。
[唄]
[utaChushin] 人目朧に見えざれば、大將哀れと思し召し。
[義經]
あれ呼び返せ、皷打て、音に連れ、又も歸り來らん、皷々。
[唄]
[utaChushin] 靜は又も取上げて、打てば不思諸や音は出で ず、こはこは不思議と取直し、打てども/\こは如何に、上とも平とも音せねば。
靜
ムウ、さては魂ひ殘すこの皷、親子の別れを悲しんで、音を留めしよな。人なら ぬ身もそれ程に、子ゆゑに物を思ふかいなう。
[唄]
[utaChushin] 打悄るれば義經公。
義經
我れとても、生類の、恩愛の節儀、身に迫る。一日の孝もなく、父頼朝を長田に 打たれ。
[唄]
[utaChushin] 日蔭鞍馬に成長し、せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠 勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に。
[義經]
見捨てられたる義經が、名を讓りたる源九郎は、前世の業、我れも業、そもいつ の世の宿縁にて、かゝる業因なりけるぞや。
[唄]
[utaChushin] 身につまされし御涙に、靜はワツと泣き出せば、目にこそ見えね庭 の面、我が身の上と大將の御身の上を一口には、勿體涙に源九郎、 ワツと叫べば我れと我が、姿を包む春霞、晴れて形を顯はせり。
[ト書]
ト薄どろ/\になり、下の方の砧を卷上げる。狐忠信顯はれる。
[唄]
[utaChushin] 義經公御座を立ち給ひ、手づから皷取上げて。
義經
ヤヨ、源九郎、汝靜を預かり、永々の介抱、詞には述べ難し。禁廷より賜はりし、 大切の品なれど、切なる汝が心を感じ、これを汝に得さするぞや。
忠信
ナニ、その皷を下されんとや。
義經
如何にも。
[ト書]
ト皷を受取り
忠信
ハア。有り難や、忝なや。焦れ慕ふ親皷、辭退申さず頂戴せん。重ね%\深き御 恩の御禮、今より君の影身になり、御身の危ふき時は、一方を防ぎ奉らん。返す返す も嬉しやなア。
[ト書]
ト雷序になり
[忠信]
オヽそれよ、我が身の上に取紛れ、申す事怠つたり。一山の惡僧ばら、今宵この 館を、夜討にせんと企てたり。押寄せさするまでもなく、我れ轉變の通力にて、衆徒 を殘らず訛つて、この館へ引入れ/\。
[唄]
[utaChushin] 眞向、立割り車切り、又一時にかゝりし時、蜘蛛手かか繩十文字、或 ひは右袈裟左袈裟、上を拂へば沈んで受け、裾を拂へばひらりと飛び、けいせう祕術 は得たりや得たり。
[忠信]
御手に入つて亡ぼすべし、必らず御油斷、遊ばしまするな。
[唄]
[utaChushin] 皷を取つて禮を爲し、飛ぶが如くに行く末の、後をくらまし失せにけ る。
[ト書]
トどろ/\、雷序にて、忠信、皷を持つて、砧にて消える。
義經
源九郎が通力にて、計らず知りし今宵の夜討。これより奧にて何かの用意。靜、 來やれ。
[唄]
[utaChushin] 打連れ、奧へ入り給ふ。
[ト書]
ト管絃にて義經、靜を連れ、奧へ入る。知らせにつき、舞臺へ網代幕を振り落ず。
ドロ/\、雷序になり、所々へ狐火出る。小狐一疋出て、向うを招く。これ より化かされの合ひ方になり、向うより藥醫坊、荒法橋、鬼佐渡、いづれも化かされ の衆從の形にて出で來り、これよりをかしみの仕草、いろ/\あつて、トヾ皆々上手 に入る。鳴り物打上げ知らせにて、道具幕切つて落す
本舞臺、一面の櫻の林。上下、網代塀。日覆より櫻の吊り枝。奧庭の模樣よ ろしく、道具納まる。
[大ザツマ]
[utaChushin] それ芳野の花爛まんと、吹雪に紛れ山風に、連 れて群がる數多の狐火、斯くと白刃の大薙刀、石突土に突き鳴らし、衆徒の大將横川 の覺範、茫然として彳めり。
[ト書]
ト大太鼓入り、セリ上げの鳴り物になり、ドロ/\、狐火。覺範、胸當、手甲、 臑當、緋の衣、頭巾姿、重ね草鞋を穿き、大薙刀にて小狐を踏まへ、セリ上がる。
覺範
ハテ、訝かしやなア。樹下石上の勤行に、日夜怠慢なきが如く、一門の仇報はん と、川連が館へ來かゝる道眠るともなく彳みしは、さては野干が仕業よな。いで息の 根をとめてくれん。
[唄]
[utaChushin] いで一討と薙ぎ立つれど、通力自在の古狐、あなたこなたを飛びかは す、さながら野邊の狐火が、風に揉まるる如くなり、猶も鋭き薙刀の、手練に流石の 野狐も、あしらひ兼ねしか忽ちに、掻き消す如く失せにけり。
[ト書]
トこの淨瑠璃のうち、狐引拔き、源九郎狐好みの姿になり、覺範と立廻りあつて 消える。
[唄]
[utaChushin] 覺範あとを見送つて
[覺範]
益なき事にて思はぬ隙取り……ヤア/\、川連どのは何所にある。客僧これまで 參つたり、奧へ推參申さんや。とく/\對面いたされよ。
[唄]
[utaChushin] 呼はり/\歩み行く、後の方に聲あつて。
義經
ヤア/\、平家の大將、能登守教經待て。
[唄]
[utaChushin] 聲かけられて、キツと見返り。
[ト書]
ト花道にて覺範、思ひ入れあつて
覺範
ムウ、聲あつて形なきは、我れを呼ぶにはあらざりしか。覺えなき名に驚ろきて、 思はぬ氣後れ。人無くて、恥かゝざりし。
[唄]
[utaChushin] 獨り言して行く所を。
義經
ヤア/\、横川の禪司覺範とは假の名、誠は平家の大將、能登守教經へ、九郎判 官義經。
忠信
佐藤四郎兵衞忠信。
六郎
龜井六郎重清。
次郎
駿河の次郎清繁。
義經
いま改めて見參。
皆々
見參。
覺範
何がなんと。
[ト書]
トつツかけになり、上手より義經、次郎は安徳君を抱き、後に六郎、軍兵大勢附 いて出る。向うより誠の忠信、槍を持ち、出で來り、覺範を舞臺へ押し戻し、キツと 見得。
覺範
ヤア、この覺範を教經とは、何を以て、何を證據に。
義經
愚かや教經。
[ト書]
ト肥前節になり
[義經]
紅の旗じるしは、衆徒にやつせど隱れなし。安徳君は義經が、知盛より預かり奉 り、大切に守護なしあるワ。
忠信
過ぎし八島の戰ひに、打ち洩らしたる汝ゆゑ、時節を待つてこの年月、思ひ設け し甲斐あつて、計らず出會ふ兄の仇。
六郎
まつた一味の惡僧ばら、源九郎が通力にて、殘らず打取る上からは、
次郎
最早遁かれぬ尋常に、その名を明かして
皆々
降參々々。
覺範
ヤア、いまはしき降參呼はり、斯くなる上は何をか包まん、横川の禪司 覺範と、變名なせし我れこそは、桓武天皇九代の後胤、門脇中納 言教盛が嫡男、能登守教經。月近く寄つて、面像拜み奉れエヽ。
[ト書]
ト頭巾を脱ぎ、引拔いてキツト見得。
皆々
さてこそなア。
覺範
斯く本名を現はす上は、片ツ端から死人の山だ。覺悟なせ。
義經
ヤレ待て教經。いま打取るは易けれど、君御安泰にまします上、我が身替りに相 果てし、繼信への追善に、この場は一旦見遁がし得させん。
覺範
流石は義經、よく申した。この場は此まゝ別るゝとも
忠信
また重ねての再會には
六郎
折も芳野の花櫓。
次郎
花々しき勝負を遂げん。
義經
先づそれまでは、能登守教經。
覺範
方々
皆々
さらば。
[ト書]
ト和歌になり、覺範眞中に、皆々見得よく居並び、キツと見得。
覺範
先づ今日はこれぎり。
義經千本櫻
幕柱五千本 (Yoshitsune senbon zakura) | ||