University of Virginia Library

三幕目 渡海屋の場
大物浦の場

  • 役名==九郎判官義經。
  • 武藏坊辨慶。
  • 龜井六郎重清。
  • 片岡八郎清繁。
  • 娘お安實ハ若君。
  • 銀平女房。
  • お柳實ハ典侍の局。
  • 渡海屋銀平實ハ新中納言知盛。
本舞臺、三間の間、二重舞臺。眞中に暖簾口、上の方、赤壁、これにいろ/ \の帳面。この上、誂らへの神棚、神酒徳利、燈明、下の方、戸棚、この所に菰包み の荷物を重ね、ズツと上手に、九尺の障子屋體、いつもの所に門口。爰におため、お とく、前垂れ掛けにて、爼板に向ひ、大根を切つて居る。上にお安、寢て居る。蒲團 かけあり、門口の側に灘助、梶六、太郎藏、五郎太、船頭の拵らへにて、右菰包みの 荷物を舞臺へ下ろして居る。すべて船問屋の體。てんつゝにて、幕明く。
とく

マア/\、皆さん一服


ため

のましやんせいなア。


灘助

イヤ、とてもの事に、この荷物を積込んでしまふべい。


梶六

それ/\、さうして緩くりしてのまう。


太郎

おためさんや、おとくどんの顏を見ながら


五郎

煙草にして、小當りもよからう。


兩人

又そんな、てんがうばつかり。


灘助

てんがうさまは六月だ。


梶六

囃すもお好き。


太郎

おきやアがれ。


[ト書]

ト此うち四人、荷を門口に運び


灘助

さうして、もう荷はこれきりかよ。


とく

サア、西國へ行く分は、それぎりでござんすが


ため

旦那さんの仰しやるには、まだ牛窓へ行く大事の荷物が


とく

中の間にござんすわいなア。


太郎

そんなら、もう一返り來ずばなるまい。


灘助

さうサ、おいらは殘つて、その荷物を調べるうち


梶六

二人は、舟場の遣繰りをするが好い。


五郎

何にしろ、マア、此奴を積込んでしまふべい。


太郎

それがいゝ。サア、やらかせ。


[ト書]

ト灘助、梶六手傳ひ、太郎藏、五郎太、荷を擔ぎ上げ


灘助

そんなら、早く頼むぜ。


梶六

ドレ、奧の荷を調べよう。


[ト書]

ト始終此うちてんつゝ、活け殺しにて、灘助、梶六、暖簾口へ、太郎藏、五郎太、 荷を擔ぎ向うへ、双方入る。兩人の女、料理拵らへして居て


とく

成る程、聲の大きな衆ぢやぞいなア。


ため

その大聲にも構はず、お安さんが爰に好う寐入つて


とく

サア、風でも引かせ申してはと、わたしが、蒲團をかけるも知らず


ため

後生樂のものぢやぞいなア。


[ト書]

ト云ひながら介抱して居る。合ひ方になり、障子の内より、辨慶、やつし山伏に て、風呂敷包みを背負ひ、出て來る。靜かに兩車の音。


辨慶

イカサマ、今日は日和だと思つたら、又ぼろ付いて來たさうだ。


[ト書]

ト女中みて


とく

オヽ、これはお客僧さま。さぞマア、御退屈でござりませう。


ため

さうして、おツ付け御膳を出しますのに、どこへお出でなされまする。


辨慶

イヤモウ、川留めに逢つた旅人のやうだと、好く云ひますが、西國への日和待ち で、連れ共もケロリンカン。わしもあんまりホツとした。内に只居やうより、西町へ 行つて、買ひ物でもして來ようと思つて。


とく

左樣でござりますか。併し、出船の雲が見えるかして、荷物を船へ積みましたれ ば、晴れ申すと、直ぐに出船。お手間を取らずに、早う戻つて。


辨慶

ムウ、さういふ事なら歸り途、船場へ廻つて來ようわいの。


ため

それでもあなた折角と、外のお客へは鳥貝鱠なれどお出家さまの事ぢやに依つて、 わざ/\と精進料理、ちつと待つてお上がりなされて。


辨慶

イヤ/\、愚僧は山伏なれば、精進には及ばぬ。鳥貝、鱠の方がよからう。


とく

でも、山伏樣なら、今日は二十八日。


ため

不動さまの御縁日。


辨慶

オヽ、ほんに、それ/\、大事の精進であつたわいの。マア、何にしろ、行つて 來ませう。


[ト書]

ト云ひながら、お安を跨ぎにかゝる。ドロ/\。


[辨慶]

アイタヽヽヽヽヽ。


[ト書]

ト足を擦つて、思ひ入れ。


兩人

どうなされました/\。


辨慶

イヤ、お娘が爰に寐て居たを、ツイ跨ぎ越したれば、俄かに足がすくばつて。


兩人

エ。


[ト書]

ト兩人、顏見合せて、思ひ入れ。


辨慶

アヽ、聞えた/\。なんぼ小さうても女の子、虫が知らして、しやき張つたもの と見えたわえ。


兩人

何をマア、わつけもない。


三人

ハヽヽヽヽ。


辨慶

ドレ、大降りのないうち


兩人

早うお歸りなされませ。


辨慶

ドリヤ、行つて來ようか。


[ト書]

ト唄になり、山下駄を穿き、はつてう笠を冠つて向うへ入る。下女兩人、見送り、 思ひ入れあつて


とく

ほんに、此やうな所に、お寐ぢやによつて、今のやうな。


ため

サア/\、ちやつとお目を、覺ましなされませ/\。


[ト書]

ト兩人抱き起す。お安目を覺まし


やす

ほんに、二人がお料理するを見て居ながら、ツイ眠たうなつて。


とく

サア/\、お目が覺めたなら、今朝お習ひの清書を母樣のお側で。


ため

好うお書きなされて、旦那さんのお歸りに、お目にかけたら、それこそ又


兩人

御褒美でござりませう。


やす

そんなら、いつものやうに、母樣に字配りしてもらはうか。


兩人

サア、お出でなされませ。


[ト書]

ト兩人、お安を連れ、合ひ方にて奧へ入る。


[唄]

[utaChushin] かゝる所へ誰れとも知らぬ、鎌倉武士、家來引具し入り來り。


[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、向うより、相模五郎、旅形の侍ひにて、供侍ひ二三人、付 添ひ出て、直ぐに門口へ來り


五郎

亭主に逢はう。いづれに居る。


家來

亭主、出ませい/\。


[ト書]

ト喚く。奧より、おとく、おため、走り出て來ながら


兩人

ハイ/\、何の御用でござりまする。


五郎

其方どもは、なんだ。


兩人

この家の召仕ひでござりまする。


五郎

ヤア、慮外な奴。下女端下の存じた事でない。亭主を出せ/\。


兩人

イエ、旦那は他行、私しどもに何なりと。


五郎

ヤア、又しても無禮な奴。大切な御用、他行とあらば呼びにやれ。遲いと曲事だ ぞ、早くしろ。


家來

キリ/\致せ。


[唄]

[utaChushin] 權威にほこり詈しるにぞ、女房は驚ろき、奧より立出で。


[ト書]

トこの淨瑠璃にて、奧より典侍の局、好みの女房の拵らへにて、出て來り


典侍

これは/\、どなた樣かは存じませぬが、女子どもが、端ないは、お免し下さり ませ。併し、二人が申します通り、主は問屋廻りに出ましたで、宿にではござりませ ぬが、私しで濟む事なら、何の御用でござりまするな。


五郎

して、其方は何者だ。


典侍

主銀平が女房でござりまする。


五郎

女房とあらば、云ひ聞かさん。身共は北條が家來、相模五郎と云ふ者。この度義 經、尾形を頼み、九州へ逃げ下るとの風聞に依つて、鎌倉どのゝ仰せを請け、主人時 政の名代として、討手に只今下れども、打續きし雨風にて、船一艘も調はず、幸ひこ の家に借り置きたる船、日和次第に出船と聞いたるゆゑ、その船身共が借り受けて、 艪を押切つて下らん爲、罷り越した。旅人あらばぼいまくり、座敷を明けて休息させ い。サヽ、早く致せ早く致せ。


[唄]

[utaChushin] 權威を見せてのしあがれば、女房はハツと返答に、當惑しながら側へ 寄り。


典侍

それはマア/\、御大切な御用に船が無うて、さぞ御難儀。此方のお客も二三日 以前から、日和待ちして御逗留、今更船を斷わりまして、あなたの御用にも立て難う ござります。殊に先樣もお武家方なりや、御同船とも申されますまい。爰は御料簡遊 ばして、今夜の所を、お待ちなされましたら、其うちには日和も直り、何艘も何艘も、 入船の中を調べて。


五郎

ヤイ/\默れ、默り居らう。一日でも逗留がなれば、この家へは云ひ付けぬ。所 の守護へ權付けに云ひ付けるワ。奧に居る、その侍ひめが怖うて、おのれらが口から 云ひ憎いなら、身共が逢つて、直に云うてくれん。


典侍

 アヽモシ、お待ち遊ばしませ。お急きなさるは御尤もなれど、 あなたを奧へやりまして、直に御相談させましては、船宿の難儀、押付け主も歸りま せう。マア、それまでお待ちなされて。


五郎

ヤア、何をそれまで便々と。こりや聞えた。なんだな。奧の武士に逢はさぬは、 察するところ平家の餘類か。但し義經の由縁の者。家來ども、ソレ、拔かるな。


家來

ハア。


五郎

奧へ蹈ん込み、吟味せん。


[ト書]

ト立ちかへるを、局、引留め


典侍

アヽモシ、それではマア、主にお逢ひなされた上で


五郎

何を女郎め。最早誰れに逢はうより、直に相對。そこ退け。


[唄]

[utaChushin] 止むる女房を跳ね退け、突き退け、また取付くを荒氣なく。


[ト書]

ト五郎、侍ひ、奧へ行かうとするを、局、いろ/\支へる。下女兩人留めるを、 供の侍ひ、引捕へる。この立廻りのうち、雨車になり、向うより銀平、好みの拵らへ、 傘をさして出で來る。


[唄]

[utaChushin] 蹈み倒し蹴倒すを、戻りかゝつて見る、走り入つて彼の侍ひが、腕を 取つて。


[ト書]

ト此うち銀平、直ぐに舞臺へ來り、この體を見るより其まゝ内へ入り、女房を圍 ひ、五郎が手をグツと捻ぢ上げる。


五郎

アイタヽヽヽヽヽ。


銀平

イヤ、眞平御免下さりませ。私しは即ちこの家の亭主、渡海屋の銀平。見ますれ ば、女どもが、何か定めし不調法、御立腹のその樣子、私しめに一通り、仰しやつて 下さりませ。


[ト書]

ト五郎を突き放す。五郎、思ひ入れ。


五郎

ムウ、すりやおのれが、この家の亭主か。亭主なら云うて聞かさう。身は北條の 家來なるが、義經の討手を蒙むり、奧の武士が借りたる船、此方 へ借らん爲、奧へ蹈ん込み、身が直に、その武士に逢はうと云へば、われの女房が遮 つて、止むるゆゑ、今の仕儀だワ。


銀平

ヘイ。憚りながら、そりやあなたが御無理のやうに存ぜられます。なぜと仰しや りませ。人の借りて置いた船を、無理に借りようと仰しやりますは、マア御無理ぢや アござりませぬか。その上に又、宿借りの座敷へ蹈ん込まうとなさるゆゑ、女どもが お留め申すを、蹈んだり蹴たりなされますは、ちとお侍ひ樣には、似合はぬやうに存 じます。一夜でも宿を致しますれば商ひ、旦那、その座敷へ蹈ん込ませましては、ど うもお客人へ私しが立ちませぬ。爰の所を御料簡なされまして、お歸りなされて下さ りませ。


五郎

イヤ、うぬ、素町人めが。鎌倉武士に向つて、歸れとは推參千萬。是非とも奧へ 踏ん込んで……うぬ、留立てせば手は見せぬぞ。


[ト書]

ト刀へ手を掛け、思ひ入れ。


銀平

アヽモシ、それはお前樣、御短氣でござりませう。私しも船問屋ではござれ、聞 きはづつて居りまする。惣別、刀脇差では、人を切るものぢやアないさうにござりま する。お侍ひ樣方の二腰は、身の要害、人の粗忽、狼藉を防ぐ爲の道具とやら、さる に依つて、武士の武の字は、戈を止めるとやら、書きますさうにござりますぞえ。


五郎

ヤア、小癪なる事を吐かしたな。その頬桁を、切り下げくれん。


[唄]

[utaChushin] 拔打ちに切りつくるを引ツ外し、相模が利腕むんづと取り。


銀平

こりやモウ、料簡がならぬわえ。町人の家は武士の城廓、敷居の内へ泥臑を踏み 込むさへあるに、この刀で、ダヽ誰れを切る氣だ。その上に又、平家の餘類の、イヤ 義經の由縁なんのと、旅人を脅すのか。よし又判官どのにもせよ、大物に隱れない、 眞綱の銀平が、お圍まひ申したらなんとする。サア、眞綱が扣へた。侍ひめ、ならば ビクとも動いて見い、素頭微塵にはしらかし、命を取楫、この世の出船。キリ/\爰 を、なくなるまいか。


[唄]

[utaChushin] 刀もぎ取り、宙に引提げ持つて出で、門の敷居に、もんどり打たせば、 死入るばかりの痛みを怺へ、顏をしかめて起上がり。


五郎

ヤイ、亭主め、侍ひを捕へて、よく酷い目に合せたな。この返報には、うぬが首 を。


[ト書]

ト思ひ入れ。


銀平

どうしたと。


[ト書]

ト立ちかゝる。


五郎

家來ども。サア、來い/\。


[唄]

[utaChushin] 暴風に遭うたる小船の如く、尻に帆かけて主從は、後をも見ずして逃 げ失せける。


銀平

ハヽヽヽ。口程にもない侍ひめだ。


典侍

ほんに、好い所へ戻つて、好い態であつたわいな。併し又、どうならうかと、ひ や/\思うて居ましたわいな。


銀平

なにサ/\。とは云ふものゝ、今のもやくやを、定めし奧のお客人が。


典侍

サア、大方お聞きなされたであらうわいな。


[ト書]

ト銀平、莨盆取寄せ、莨のみ、局、下女兩人捨ぜりふ。


[唄]

[utaChushin] 女夫がひそめく話し聲、洩れ聞えてや、一間の障子押開き、義經公、 旅の艱苦に、窶れ果てたる御顏ばせ、駿河、龜井も後に從ひ立出づる。


[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、障子屋體より、義經先に次郎、六郎付添ひ出で來る。銀平 見て


銀平

それ/\、お客樣が/\。


典侍

これはマア/\、端近う。


[ト書]

ト兩人云ひながら、此方へ來て、膝を直し、皆々思ひ入れ。


義經

隱すより顯るゝはなしと、兄頼朝の不興を受け、世を忍ぶ我が身の上、尾形を頼 み下らんと、この所に逗留せしに、其方よくも計り知り、時政よりの家來を退け、今 の難儀を救ひしは、町人に似合はぬ働らき、我れ一の谷を攻めし時、鷲の尾と云へる 木樵の童に、山道の案内させしに、山家には剛なる者。武士となして召使ひしが、そ れに優つた汝が働らき、天晴れ、世が世の義經なら、武士に引上げ、召使はんに、斯 く漂ひの身となつて、あるに甲斐なき事どもぢやなア。


[唄]

[utaChushin] 武勇烈しき大將の、身を悔みたる御詞、駿河、龜井も諸ともに、無念 の拳を握りける。


銀平

これは/\、有り難いそのお詞。イヤモウ、私しもこの界隈では、眞綱の銀平と 申して、少しばかりは人に知られて居りますれど、高が町人、只今の腕立ても、畢竟 申さば竈將軍、些細な事がお目にとまつて、我れ/\づれに御褒美の御意。冥加至極 もござりませぬ。殊に君の御顏を見覺え奉るは、先頃八島へ赴むき給ふ時、渡邊福島 より、兵船の役にさゝれ、私しが手船も御用に達し、一度ならずこの度も、不思議に お宿仕りまするも、恐れながら深き御縁でござりませう。さるによつて、お爲を存じ 申し上げたきは、いま歸りし北條が家來、取つて返さば御大事。一時も早う御乘船が、 よろしからうと存じまする。


[唄]

[utaChushin] 云ひもあへぬに、駿河の次郎。


次郎

サア、我れ/\もその思案なれど、この天氣にては、御出船如何あらんと、その 儀を。


銀平

アヽイヤ、そこに拔かりがござりませうか。弓矢打ち物は、お前樣方の御商賣。 船と日和を見る事は、私しどもの又商賣。昨日今日は巽、夜中になれば雨も上がり、 明け方には朝嵐に變つて、御出船にはひんぬき上々の日和、數年の功で、そこらはキ ツと見極めて置きましたて。


[唄]

[utaChushin] 見透かすやうに云ひけるは、その道々と知られける。


次郎

オヽ、銀平出かしたり。其方慥かに申す上は、氣遣ひあるまい。雨の晴れ間に片 時も早く。


六郎

主君の御供仕らん。


義經

ナニサマ、船中の事は、銀平よろしく計らひ得させよ。


銀平

ハツ、只今も申す通り、幼少より船の事はよく、鍛錬仕れば、御安堵あつて御乘 船、御見送りの爲、私しも手船にて、須磨明石のあたりまで、御供いたすでござりま せう。元船の在る所は、五丁餘り沖の方。船は即ち日吉丸、思ひ立つ日が吉日、吉祥、 兩具の用意仕り、後より追ツ着き奉りませう……女房はあなた方に、わざとお口を祝 はせ申して、女子どもは濱邊まで御案内申せ。


兩人

ハイ/\、畏まりました。


銀平

左樣なら、御免下さりませ。


[唄]

[utaChushin] 挨拶そこ/\銀平は、納戸の内へ入りければ。


[ト書]

ト銀平、奧へ入る。下女兩人、此うち銚子、杯、鉢肴など持つてくる。局よろし く


典侍

サア、何もなし、お粗末にはござりまするが、船路の旅を恙なう、おめで鯛の

[_]
[1]
むしり肴で、わざとお祝ひ遊ばさ れませ。


次郎

これは/\、要らぬ事を、銀平の心配。


六郎

殊に女房の心遣ひ、我が君


兩人

お取上げ遊ばしませい。


義經

主が厚き志し、門出を祝うて一献酌まん。


[ト書]

ト杯を取上げる。


女房

サヽ、お一つ召上がりませう。


[ト書]

ト注ぐを呑んで


義經

サヽ、其方達も、一つ/\。


[ト書]

ト杯を廻す。


兩人

然らば頂戴仕りませう。


[ト書]

ト杯を頂く。これより酒事、捨ぜりふにて、ちよつとあつて


義經

最早船場へ赴むかん。


次郎

それがよろしうござりませう。イザ、御案内を。


典侍

ハイ/\。ソレ、女子ども。


兩人

畏まりました。


[ト書]

ト雨車。局、思ひ入れあつて


典侍

小雨ながらも、大切なお身の上、暫しのうちもお姿を。


[唄]

[utaChushin] 隱れ簑笠、憚りながら。


[ト書]

ト簑笠を取出し、義經に着せる。


義經

オヽ、過分々々。


[唄]

[utaChushin] 龜井駿河も諸ともに、簑笠取つて着せ參らせ、二人も手早く紐引締め、 いざさせ給へと主從三人、女が案内に打連れて、船場へこそは。


[ト書]

トこの淨瑠璃、雨車にて、おとく、おため、傘をさし先に立ち、義經、次郎、六 郎、向うへ入る。局、見送るうち、奧より灘助、梶六、薦包みや長持など持ち出て來 り


灘助

おかみ樣、親方が云ひ付けた、牛窓へ行く中の間の荷物。


梶六

これで、殘りはごんせぬかな。


典侍

オヽ、こりや、二人の衆。そりや大切の荷物、麁相のないやう、まだ行李もある であらう。


灘助

オツト、あれも一緒か。ドレ、もう一遍。


梶六

此奴らも、來さうなものだ。


[ト書]

ト雨車、風の音にて、兩人、奧へ入る。向うより太郎藏、五郎太走り出て、門口 へ來り


太郎

牛窓の荷はまだかな。


五郎

艀舟の支度は、すつぱりだ。


典侍

オヽ、いま噂して居ましたわいな。


[ト書]

ト此うち灘助、梶六、奧より、薦包みの行李を持ち出で


灘助

サア、これ切りだ……丁度いゝ、ちよつとそこまで。


兩人

合點だ。


[ト書]

ト四人、長持を門口へ運び


灘助

サア、荷はもうこれでよし。


梶六

爰でこそ、一服のんで、と云つたところが


太郎

あの女中衆は、どこへ行きました。


典侍

今お客を船場まで


灘助

送りにか。


五郎

ホイ、しけた。


典侍

イヤ、しけと云へば、此方に知れぬ事ぢやが、此やうな日和でも、船を出さるゝ ものかいな。


灘助

さればサ。わしらも、この商賣をして居るが、なかなかこの天氣ぢやア、また二 三日は上がるまいと思ふのに。


梶六

爰の親方、銀平どのゝ云ふには、この日和は、夜中にやアぐわらりと上がつて、 朝東風に變つた所で、直ぐに出船。


太郎

その時急に、荷を積むの、船拵らへのと云つちやア手遲れ。


五郎

なんでも、今のうち荷を積み込んで、船も支度をして置けとの事。


灘助

それも、これまで云はしやる通り


梶六

違ひがないゆゑ、此やうに


皆々

支度をするのだ。


典侍

さうかいな。そんなら、大方銀平どのが、キツと日和を見極めた所が


灘助

あればこそ、云ひ付ける通り


梶六

手配り用意も


皆々

充分でござります。


典侍

そんなら、隨分氣を付けて。


四人

サア、運んでしまふべい。


[唄]

[utaChushin] おつと合點と船子ども、てんでに荷物を艀舟まで、行く道すがら。


[ト書]

ト四人よろしく、右の荷を擔ぎ、向うへ入る。これに構はず


[唄]

[utaChushin] 門送りして女子ども、息急き内へ入相時。


[ト書]

ト此うち向うより、おとく、おため戻つて來る。時の鐘、直ぐに内へ入る。


兩人

ハイ、お見送り申しました。


典侍

ヤレ/\、マア、お客方も御機嫌好う、立たせ申されば、二人は奧の片付けもの


兩人

畏まりました。


[ト書]

ト時の鐘、どらにて兩人奧へ入る。局、思ひ入れあつて


典侍

兎や斯うするうちもう日暮れ。ドレ、次手にお燈明を。


[唄]

[utaChushin] 火打鳴らして油さし、神棚の上に灯を照らせば。


[ト書]

ト燧箱を出し神棚より、燈へ火を灯す。この時奧よりお安、清書双紙を持ち出て 來り。


やす

母樣、清書をしましたわいなア。


典侍

オヽ、お安か。ようしやつた。父さんに見せませうが、今夜は侍ひ衆を元船まで 送つてなれば、其方も寐るまで爰に居や。ほんに、こちの人とした事が、千里萬里も 行くやうに身拵らへ。もう日も暮れた。用意が好くば行かしやんせぬか。


[唄]

[utaChushin] 呼べど、くつとも應へなし。


[典侍]

返事せぬは、もし晝の草臥れで、轉寐ではあるまいか。コレ、銀平どの/\。


[謠]

[utaChushin] 抑々これは、桓武天皇九代の後胤、平の知盛の幽 靈なり。


[ト書]

ト鳴り物入り、謠切れると後コイヤイ、上手の障子引拔くと、内に銀平、本行知 盛の拵らへ、長刀を構へ、床几にかゝり居て


銀平

渡海屋銀平とは假の名、新中納言知盛と、實名を顯はす上は。


[唄]

[utaChushin] 恐れありと娘の手を取り、上座に移し奉り。


[ト書]

ト大小の合ひ方、浪の音。


[銀平]

君は正しく、安徳君にて渡らせ給へど、源氏に世を狹められ、所詮勝つべき軍な らねば、知盛諸とも海底に沈みしと欺むき、密かに供奉なし、この年月、お乳の人を 妻と云ひ、御介添の二人の侍從を下女となし、勿體なくも我が子と呼び奉り、時節を 待ちし甲斐あつて、九郎判官義經を、今宵のうちに討取つて、年來の本望達せん事。 アラ喜ばしや、嬉しやなア、典侍の局も、喜ばれよ。


[唄]

[utaChushin] 勇める顏色、威あつて猛く、平家の大將知盛と、その骨柄に顯はれし。


典侍

さては常々のお願ひ、今宵と思し召し立ち給ふな。ハハア、勇ましや、さりなが ら、九郎は鋭き男子とやら。仕損じばし給ふな。


知盛

なにサ/\、そのゆゑにこそ手段を巡らし、最前北條が家來、相模五郎と云はせ しも、我が手の者、討手と僞はり狼藉させ、我れ義經に荷擔人の體を見せ、今宵の難 風を日和と僞はり、船中にて討取る計略なれども、知盛こそ生き殘つて、義經を討つ たるなどゝ、忽ちに沙汰あつでは、末々君を御養育の妨げともなり、また重ねて頼朝 に仇も報はれず、さるによつて某、人數を手配りして、艀舟にて後よりぼツ付き、義 經と海上にて戰はゞ、西國にて亡びたる、平家の惡靈知盛が幽靈なりと、雨風を幸ひ に、彼れらが眼を眩まさん爲、我が出立ちも朧げに、怪しく見する白糸縅、白柄の長 刀、追ツ取りのべ、九郎が首取り立歸らんと、その軍用の品取まとめ、彼の牛窓へと 積みたる荷物は、皆これかゝる手段の物の具。


典侍

斯ばかり深き御計らひ。必定勝利に疑ひなし。


[唄]

[utaChushin] 局が喜び、知盛思惟し。


知盛

勝負の場所は、この大物、何條勝利とは思へども、もし自然この沖に當つて、提 灯松明一度に消えなば、我れ討死の合ひ圖と心得、君にもお覺悟させ參らせ、御亡骸 見苦しからぬやうナ、……兼ねてこの事、心得召され。


典侍

アヽモシ、後氣遣はずと、好い吉左右を知らせてたべ。


知盛

云ふにや及ぶ。斯くまで仕込みし我が計略。たとへ義經天地を潜る術ありとも、 やわか仕損じ申さんや。一門の仇、鬱憤晴らす時節到來。


[ト書]

トばた/\になり、向うより灘助、梶六、白の四天の拵らへにて、松明を持ち、 走り出で、直ぐに舞臺へ來り


兩人

お迎ひ。


[ト書]

ト兩人よろしく住ふ。此うち局、以前の銚子と、三方へ載せたる土器を取上げ、 思ひ入れあつて、お安に飮ませ


典侍

めでたき出陣。


[ト書]

ト知盛へ三方の土器を渡し


[典侍]

知盛卿、イザ、御杯。


知盛

ハツ。


[ト書]

ト局、酌して、知盛飮み


[知盛]

實に天杯をうながされ、嚴命蒙り、義戰の旗上げ。


[ト書]

ト此うち八ツの太鼓鳴る、知盛、思ひ入れあつて


[知盛]

八ツの太鼓も、御年の數を象る、合ひ圖の知らせ……オオそれよ……一天四海を 治め給へば。


[ト書]

ト知盛諷ひながら、陣扇を持ち立上がり


[謠]

[utaChushin] 國も動かぬこの君の惠みの/\、治まる御代こそめでたけれ。


[ト書]

トこの文句一杯に舞ふ事あつて納まる。


[知盛]

ハヽヽヽヽ。


典侍

めでたき門出。


知盛

追ツ付け勝鬨。


やす

知盛、早う。


知盛

ハツ。


[唄]

[utaChushin] 飛ぶが如くに。


[ト書]

ト風の音、カケリになり、三重にて、知盛思ひ入れ。灘助、梶六、先に松明を振 り立て向うへ一散に入る。局、後を見送り、舟玉の札箱より、太刀を出してお安に渡 す。


三重にて

本舞臺、上手に寄せて中足、二間の二重、一面に伊豫簾を下ろし、下手向う は浪手摺り、この前に高き岩組、蘆原、浪の音にて道具納まる。
[唄]

[utaChushin] 夜も早次第に更け渡り、雨風烈しく聞ゆれば、賤が伏屋も大内の、昔 に返る御裝束、初めの姿引かへて、神の御末の御粧ひ、いと尊くも見え給ふ。


[ト書]

ト伊豫簾上がる。おとく、おため、官女の姿にて後に扣へ、典侍局は十二單衣、 お安は冠姿束にてよろしく扣へゐる。


[ト書]

ト床の合ひ方にて


典侍

斯くやごとなきお身、如何に計略なればとて、我が娘と呼びなして、賤の姿にや つさせ申せし、畏れ多さ勿體なき、これ皆、平家不善の罪、積ると知らで人々は榮華 に月日を送るうち、さてこそ壽永の


[唄]

[utaChushin] 秋風に、木の葉も共に散る花の、須磨の内裏を攻め落され、云ひ甲斐 なくも一門方。


[典侍]

知教、教經お二人の、諫めも耳に入らばこそ。


[唄]

[utaChushin] 崩れ立つたる味方の勢ひ、引立てられて兩卿も、思はず船に打乘つて、 波の哀れや海の上、陸には源氏、平家は皆、赤間ケ關や壇の浦、軍の勝敗試さんと、 日の丸畫きし陣扇、船のへさきに押泣て ゝ。


[典侍]

これ射給へと玉虫が。


[唄]

[utaChushin] 招けば敵より武者一騎。


[典侍]

那須の與市宗高と。


[唄]

[utaChushin] 名乘つて海へざんぶと乘り入り、弓矢番ひし折しもあれ、北風烈しく 荒波に、船を搖り上げ搖り落し。


[典侍]

扇も更に定らねば


[唄]

[utaChushin] これはと與市も躊躇ふうち。


[典侍]

沖には平家、陸には源氏の諸軍勢、鳴りを靜めて、見物す。


[唄]

[utaChushin] 宗高一世の浮沈ぞと、心に神を念じけん、少し風間を得たりや應、切 つて放せば過たず、要射切つて、バラバラバラ、扇は空へヒラ/\/\、夕日に映り て皆紅ゐ、水は白波立田川、秋の紅葉と流るれば、敵も味方も一同に、射たりや/\ と譽むる聲、海に響きて凄まじく。その時、二位の尼君には、はや世は斯くと思しけ ん、君を抱き參らせて、既に入水とありけるを、知盛卿の計らひにて、密かに供奉し、 それよりも、この大物に忍ばせ申し、折を窺ふ今宵の手段、味方の勝利疑ひなし。君 にも今に知盛の、吉左右あらん、御待ちあれ、二人も心付けられよ。


兩人

畏まりました。


[唄]

[utaChushin] そよとの音も知らせかと胸轟ろかす鉦太鼓、すはや軍の眞最中と、君 のお側に引添うて、知らせを今やと待つ折柄、知盛の郎黨相模の五郎、息吐きあへず、 馳せ着けば。


[ト書]

トどんちやん烈しく、向うよりバタ/\にて、五郎、早打ちの拵らへにて、走り 出で來る。局見て


典侍

ヤレ、待ち兼ねし相模の五郎。樣子はどうぢや、なんとなんと。


五郎

ハツ、兼ねて主君の手段の如く、暮れ六ツ過ぎより味方の小船を乘り出し、義經 が打乘つたる、元船間近く、漕ぎ寄せしに


[唄]

[utaChushin] 折しも烈しき武庫山颪しに、連れて降りくる雨雷。


[五郎]

時こそ來れと味方の軍勢、みな海中に


[唄]

[utaChushin] 飛び込み/\、西國にて亡びし平家の一門、義經に恨みをなさんと、 聲々に呼はれば。


[五郎]

敵に用意やしたりけん


[唄]

[utaChushin] 提灯松明バラ/\と、味方の船に乘り移り、爰を先途と戰へば。 味方の駈武者大半打たれ、事危ふく見えて候ふ。某は取つて返し、主君の御先途見屆 け申さん。はや、おさらば。


[唄]

[utaChushin] 申しもあへず、駈り行く。


[ト書]

ト五郎、注進の振りあつて、トヾ向うへ入る。


典侍

ヤア/\、すりや一大事に及びしか。さるにても、知盛の御身の上こそ氣遣はし。


とく

定かにそれと、戰ひの


ため

たとへ黒白は分らずとも


典侍

沖の樣子は如何ならん。


[唄]

[utaChushin] 一間の障子、押明くれば。


[ト書]

ト典侍、兩人へ思ひ入れ。兩人、外へ見付けの障子を明けると、後打拔き、波手 摺り、二重にして、遠見に兵船の模樣、高張りを灯し、誂らへの通りある。局お安を 抱き上げ立ち身。侍女兩人も引添ひ、海面を見やつて、思ひ入れ。


[唄]

[utaChushin] 提灯松明星の如く、天を焦せば漫々たる、海も一目に見え渡り、數多 の兵船、やり違へ/\、船櫓を小楯に取り、敵も味方も入り亂れ、船を跳び越え跳び 越えて、追ひつ捲りつ、えい/\聲にて、切り結ぶ、人影までもあり/\と、戰ふ 聲々風に連れ、手に取るやうに聞ゆるにぞ。


典侍

アレ/\、御覽ぜ。あの中に、知盛の在すらん。


[唄]

[utaChushin] やよ何所にと伸び上がり、見給ふうちに。


[ト書]

ト兵船、提灯を段々に消す。


[典侍]

ヤヽヽヽ、提灯松明次第々々に、消え失せて、沖もひつそと、靜まりしは。


[唄]

[utaChushin] これこそ知盛が討死の合ひ圖かと、あまり呆れて泣かれもせず、途方 に暮れて立つたる所に、入江丹藏、朱になつて立歸り。


[ト書]

ト花道より丹藏、手負ひにて駈け出で


丹藏

我が君、典侍のお局さま。


[ト書]

ト本舞臺へ來て平伏する。


典侍

さ云ふは入江の丹藏ならずや。して/\樣子は、如何なるぞ。


丹藏

さればに候ふ、義經主從手痛く働らき、既に危ふく見えけるが。


[唄]

[utaChushin] 味方の手段白浪と、思ひの外に、さとくも察し。


[丹藏]

御主君知盛公、大勢に取卷かれ


[唄]

[utaChushin] 風波烈しく切り立つれば、あしらひ給へど多勢に無勢運の底なる命の 引汐。


[丹藏]

必定海に飛び入つて、はや御最期と存ずれば、お局にも早、お覺悟の御用意あれ。 拙者はこれより御主君の、冥土の御供仕らん。早、おさらば。


[唄]

[utaChushin] 云ひもあへず諸肌くつろげ、持つたる刀を突き立てゝ、汐の深味へ飛 び込めば。


典侍

ヤヽヽヽ、さては知盛卿も、敢へなく討たれ給ひしか。


兩人

お局樣。


典侍

ホイ。


[唄]

[utaChushin] はつとばかりにとだうと伏し、前後も知らず 泣きけるが、局は歎きの中よりも、御顏つく%\打守り。


[典侍]

二歳餘り見苦しき、この茅屋を玉の臺と、思し召しての御住居、朝夕の供御まで も、下々と同じやうに、さもしい物、それさへ君の御心では、殿上にての榮華とも、 思うてお暮らしなされしに、知盛亡び給ひては、賤が伏家に御身一つ、置き奉る事さ へも、ならぬやうに成り果てゝ


[唄]

[utaChushin] 遂にはこの浦の土となり給ふかや。


とく

上なき御身にかばかりも


ため

悲しい事の數々が


典侍

續けば續くものかいなう。


[唄]

[utaChushin] 口説き立て/\、身も浮くばかり歎きしが。


[典侍]

アヽ、由なき悔み事、今は云うても何かせん。いでお覺悟を。オヽ、さうぢや。


[唄]

[utaChushin] 涙ながら御手を取り、泣く/\濱邊に出でけるが、いと尋常なる御姿、 この海に沈めんかと、思へば目もくれ心もくれ、身もわな/\とぞ顫ひける、君は賢 しく在ませど、死ぬる事とは露知り給はず。


やす

コレナウ乳母、覺悟々々と云うて、何國へ連れて行くのぢや。


典侍

オヽ、さう思し召すは理り。ようお聞き遊ばせや。この日の本にはな、源氏の武 士蔓つて、恐ろしい國、この浪の下こそ、極樂淨土と云うて、結構な都がござります る。その都には、祖母君、二位の尼御を始め、平家の一門あの知盛も在すれば、君に もそこへ御出であり、物憂き世界の苦しみを、免がれさせ給へや。


[唄]

[utaChushin] 宥め申せば、打悄れ給ひ。


やす

そりや、嬉しいやうなれど、あの恐ろしい浪の下へ、只一人行くのかや。


典侍

アヽ、勿體ない、なんのマア。このお乳が美しう育て上げたる君樣を、只お一人、 あの漫々たる千尋の底へやりまして、なんと身も世もあられませう。このお乳がどこ までも、お供いたしまするわいなう。


やす

それなら嬉しい。其方さへ行きやるなら、何國へなりと行くわいなう。


典侍

オヽ、よう云うて給はつたなア。


[唄]

[utaChushin] 引寄せ/\、抱き締め。


[典侍]

火に入り水に溺るゝも、前の世の約束なれば。


[唄]

[utaChushin] 未來の誓ひまし/\て。


[典侍]

もうこの上は、天照大神へ、お暇乞ひ遊ばせや。


[唄]

[utaChushin] 東に向はせ參らすれば、美しき御手を合せ、伏拜み給ふ、御有り樣、 見奉れば、氣も消え%\。


[典侍]

オヽ、ようお暇乞ひ遊ばした。佛の御國は、こなたぞや


[唄]

[utaChushin] 指さす方には向せ給ひ。


やす

今ぞ知る、御裳裾川の流れには、浪の底にも都ありとは。


[唄]

[utaChushin] 詠じ給へば。


典侍

ソレ、硯。


[ト書]

ト侍女手早く、硯箱持つて來り、局へ差出す。


[典侍]

今一度とつくり。


やす

今ぞ知る、御裳裾川の流れには、浪の底にも都ありとは。


[ト書]

と局、これをサラ/\と檜扇へ認め、吟じ見て


典侍

オヽ、お出かしなされた、ようお詠み遊ばしたなアその昔、月花の御遊の折から、 斯樣にお歌を詠み給はばなんぼう喜び給はんに、今際の際にこれが、マア、云ふに甲 斐なき御製ぢやなア。


[唄]

[utaChushin] 口説き立て/\、涙の限り、聲の限り、歎き口説くぞ道理なる。


[典侍]

アヽ、歎いても詮なき事、片時も早う、極樂への御門出を急がん。


[唄]

[utaChushin] 若君しつかと抱き上げて、磯打つ波に、裳裾を浸し、海の面を見渡し /\。


[ト書]

ト好き時分より、中の舞を打込み、局、岩組みへ上り、キツとなつて


[典侍]

如何に八大龍王、恒河の鱗屑、君の御幸、守護し給へ。


[唄]

[utaChushin] ざんぶと打込む御製の扇、渦く浪に飛び入らんとする所に、いつの間 にかは、九郎義經、龜井、駿河も駈け寄つて、君を奪ひ取り、局官女を引立つて、一 間の内へ


[ト書]

ト局、お安を抱へ、海へ飛び入らんとする所へ、屋體より、義經、陣立ての形、 次郎、六郎、凛々しき拵らへにて、付添ひ走り出て、直ぐに義經、お安を奪ひ取り、 局を引立て、次郎、六郎、同じく侍女二人を引立て、皆々屋體の内へ入る。三重にて、 返し。


本舞臺、一面の浪の遠見、眞中に大岩。上下は岩の張り物にて道具納まる。
[唄]

[utaChushin] かゝる所へ知盛は、大童に戰ひなし。


[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、ドンチヤンのあしらひ、向うより、知盛、好みの拵らへ、 長刀を突き、出て來る。引下がつて、辨慶、半切れの形にて、付いて出る。花道にて、 知盛、思ひ入れあつて


知盛

我が君は何所にまします。お乳の人、典侍の局。


[唄]

[utaChushin] 呼はり/\、だうと伏し。


[知盛]

エヽ、無念、口惜しや。ナニこれしきの手に、弱りはせじ。


[唄]

[utaChushin] 弱りはせじと、長刀杖に立ちあがり。


[知盛]

お乳の人、我が君樣。


[唄]

[utaChushin] よろぼひ/\、駈け廻れば、一間を蹈み明け、九郎判官、君を右手の 小脇にひん抱き、局を引附け、突ツ立ち給へば。


[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、義經、お安を抱き、典侍の局、側に、次郎、六郎付添ひ出 る。知盛キツと見て


[知盛]

あら珍らしや、如何に義經。


[謠]

[utaChushin] 思ひぞ出づる浦浪の、聲をしるべに出で船の、知盛が沈みしその有樣 に、また義經をも海に沈めんと夕浪に浮べる長刀取り直し、巴浪の紋あたりを拂ひ。


[知盛]

サア/\、勝負々々。


[唄]

[utaChushin] 勝負々々と詰め寄れば、義經少しも騒ぎ給はず。


義經

ヤア知盛、さな急かれそ。義經が云ふ事あり。


[唄]

[utaChushin] 靜々と歩み出で。


[ト書]

ト肥前節になり


[義經]

其方、西海にて入水と僞はり、君を供奉なし、この所に忍び、一門の仇を報はん とは、天晴れ/\。我れこの家に逗留せしより、並々ならぬ人相骨柄、察するところ 平家にて、何某ならんと思ふゆゑ、辨慶に云ひ含め、その事計り知つたるゆゑ、艀舟 の船頭を海へ切り込み、裏海へ船を廻し、夙よりこれへ入込んで、始終詳しく見屆け て、君も我が手に入つたれども、日の本をしろし召す君何條義經が擒となすいはれあ らん。恐れあり/\、君の御身は義經が、守護し奉れば、氣遣はれな、知盛。


[唄]

[utaChushin] 聞く嬉しさは典侍の局。


典侍

オヽ、あの詞に違ひなく、先程より義經どの、段々の情にて、我が君の御身の上 は、知るべの方へ渡さんとの、武士の堅い誓言。喜んでたべ、知盛卿。


[唄]

[utaChushin] 聞くに凝つたる氣も逆立ち、局を取つて突きのけ。


知盛

チエヽ殘念や、口惜しや。我れ一門の仇を報はんと心魂を碎きしに、今宵暫時に 手段顯はれ、身の上を知られしは、天命々々。まつた、義經、君を助け奉るは、天恩 を思ふゆゑ、これ以て知盛が恩に被るべきいはれなし。サア、今こそ汝を一太刀恨み、 亡魂へ、イデ手向けん。


[唄]

[utaChushin] 痛手によろめく足蹈みしめ、長刀追ツ取り立向ふ。辨慶押隔て、打ち 物業にて叶ふまじと、珠數サラ/\と押揉んで。


辨慶

如何に知盛、斯くあらんと期したるゆゑ、我れも疾より、船手へ廻り、計略の裏 を缺いたれば、最早惡念發起なせ。


[唄]

[utaChushin] 持つたるいらたか知盛の、首へヒラリと投げかくれば。


知盛

ムウ、さてはこの珠數かけたるは、知盛に出家とな。エヽ、穢らはし/\。そも 四姓始まつて、討つては討たれ、討たれては討つは、源平の慣ひ、生き變り死に變り、 恨をなさで置くべきか。


[唄]

[utaChushin] 思ひ込んだる無念の顏色、眼血走り、髮逆立ち、この世からなる惡靈 の、相を顯はすばかりなり、君は始終を聞し召し、知盛に向はせ給ひ。


やす

我れを供奉し、長々の介抱は、其方が情。今日また麿を助けしは、義經が情なれ ば、仇に思ふな、知盛。


[唄]

[utaChushin] 勿體なくも御涙を、浮べ給へば典侍の局、共に涙に暮れながら、用意 の懷劍咽喉に突き立て、名殘り惜しげに、御顏を打守り/\。


典侍

よう仰しやつた、いつまでも義經の志し、必らず忘れ給ふなや。源氏は平家の仇 敵と、後々までも、このお乳が、仇し心も付けうかと、人々に疑はれん。さあれば生 きてお爲にならぬ。君の御事、くれ%\も、頼み置くは義經公。


[唄]

[utaChushin] さらばとばかりこの世の暇、敢へなく息は絶えにける。思ひ設けぬ局 の最期、君は猶更知盛も、重なる憂き目に、勇氣も碎け、暫し詞もなかりしが、御座 近く、涙をハラハラと流し。


[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、典侍の局、自害して落入ると、知盛、思ひ入れあつて


知盛

ハヽア、果報はいみじく、尊き君と生れさせ給へども、西海の波に漂よひ、海に 望めども、汐にて水に渇せしは、これ餓鬼道。


[唄]

[utaChushin] 或る時は風波に遭ひ、お召しの船を荒磯に吹き上げられ今も命を失は んと。


[知盛]

多くの官女が泣き叫ぶは


[唄]

[utaChushin] 阿鼻叫喚、陸に源平戰ふは、取りも直さず、修羅道の苦しみ、又は源 氏の陣所々々に、夥多の駒の嘶くは畜生道。


[知盛]

いま賤しき御身となり、人間の浮き艱難目前にして、六道の苦しみを受け給ふ、 これと云ふも、父清盛、外戚の望みあるに依つて、姫宮を男の子と云ひ觸らし、權威 を以て御位につけ、天道を欺むきし、その惡逆、積り/\て、一門我が子の身に報い しか。


[唄]

[utaChushin] 是非もなや。


[知盛]

我れ斯く深手を負うたれば、長らへ果てぬこの知盛、今この海に身を沈め、末代 に名を殘さん。大物の沖にて、判官に仇なせしは、知盛が怨靈なりと、傳へよや。 サヽ、息あるうちに片時も早く、君の供奉を、頼む/\。


義經

ホウ、我れはこれより九州の、尾形の方へ赴むくなり。君の御身は義經が、何所 までも供奉なさん。


[唄]

[utaChushin] 御手を取つて出で給へば、龜井、駿河、武藏坊、御後に引添うたり、 知盛ニツコと打笑みて。


知盛

昨日の仇は今日の味方、アラ心安や、嬉しやなア。これぞこの世の暇乞ひ。


やす

知盛。さらば。


知盛

ハツ。


[唄]

[utaChushin] 振返つて御顏を、見奉るも目は涙、見返り給ふ別れの門出、留まるこ なたは冥土の出船。


[知盛]

三途の海の瀬踏みせん。


[唄]

[utaChushin] 碇を取つて頭に擔ぎ、渦卷く波に飛び入つて、敢へなく消えたる忠臣 義心、その亡骸は大物の、千尋の底に朽ち果てゝ、名は引汐に搖られ流れ、搖られ流 れて、後白浪とぞ。


[ト書]

トこの淨瑠璃のうち、義經先にお安を抱き上げ、次郎、六郎、辨慶付いて、花道 へ來る。知盛碇を持つて、よろしく岩臺の上に上がる。


皆々

さらば。


[唄]

[utaChushin] なりにける。


[ト書]

ト段切、知盛、浪間へ飛び込む。



[ト書]

ト直ぐに出端を打ちかける。これにて花道の人數、皆皆向うへ入る。知らせにつ き


シヤギリ
[_]
[1] In our copy-text the character in green was New Nelson 2137 or Nelson 1891.