University of Virginia Library

五幕目 釣瓶鮨屋の場

  • 役名==彌助實ハ三位中將維盛。
  • 若葉の内侍。
  • 六代君。
  • 鮨屋、彌左衞門。
  • 同女房、おつぢ。
  • 同娘、お里。
  • 梶原平三景時。
  • 權太女房、小せ ん。
  • 一子、善太。
  • いがみの權太。
本舞臺、三間の間、二重舞臺、見附け赤壁、納戸口。上の方、押入れ、まい ら戸、これに錠前卸しあり、下の方、鮨桶大分積み重ね、いつもの所に門口、釣瓶鮨 といふ看板をかけ、舞臺に、おつぢ、やつし女房、前垂れ襷がけにて、鮨を積んで居 る。お里、振り袖、やつし前垂れを締め、竹の皮に鮨を包み居る。門口に鮨買ひの仕 出し、二人立ちかゝり、てんつゝにて幕明く。
[唄]

[utaChushin] 立歸る、春は來ねども花咲かず、娘がつけた鮨ならば、なれがよかろ と買ひに來る、風味も吉野下市に、賣り廣めたる所の名物、釣瓶鮨屋の彌左衞門、留 守の内にも商賣に、拔け目も内儀が早漬けに、娘お里が片襷、裾に前垂れほや/\と、 愛に愛持つ鮎の鮨、押へて締めてなれさする、旨い盛りの振り袖が、釣瓶鮨とは物ら しく、締木に栓を打込んで、桶片付けて


[ト書]

ト此うち、仕出し鮨を買ひ、捨ぜりふにて、向うへ入る。兩人、そこら片付け


さと

申し母さん、昨日父さんの仰しやるには、晩には内の彌助と祝言さす程に、世間 晴れて、女夫になれと云はしやんしたが、日が暮れてもお歸りないは、嘘かいなア。


つぢ

オヽ、アノ云やる事わいの。なんの嘘であらうぞ。器量の好いを見込みに、熊野 詣でから連れて戻つて、氣も心も知ると、彌助と云ふ我が名を讓り、主は彌左衞門と 改めて、内の事任せて置かしやるは、其方と娶はす兼ねての心。 今日は俄かに役所から、親仁どのを呼びに來て、思はぬ隙入り、迎ひにやろにも人は なし。


さと

サイナ、折惡う彌助どのも、方々から鮨の誂らへ、仕込みの桶 が足るまいと、空き桶を取りに行かれましたりや、もう戻らるゝであらうわいな。


[唄]

[utaChushin] 噂半ばへ空桶荷ひ、戻る男の取なりも、悧巧で伊達で、色も香も、知 る人ぞ知る優男、娘が好いた厚鬢に、冠り着せても憎からず、内へ入る間も待ち兼ね て、お里は嬉しく。


[ト書]

ト向うより彌助、やつし袖なし羽織の形にて、鮨の空桶を擔ひ、出で來り、舞臺 へ來て、門口へ入る。


[さと]

アレ、彌助さん、戻らんしたか。エヽモウ、待ち兼ねたわいな。なぜマア此やう に、遲かつたのぢやえ。もしやどこそへ寄つてかと、氣が廻つて、大抵案じた事ぢや ないわいな。


[唄]

[utaChushin] 女房顏して云うて見る、流石鮨屋の娘とて、早い馴れとぞ見えにける。 母はにこ/\笑ひを含み。


つぢ

彌助どの、氣にかけて下さんな。この吉野の里は、辨天の教へに依つて、夫を神 とも佛とも、戴いて居よとある、天女の掟、その代り、悋氣も深い、また有やうは親 の孫、瓜の蔓にではござらぬわいの。


彌助

これはマア、却つて迷惑。段々お世話の上へ、大切なお娘御まで下され、お禮の 申しやうもござりませぬ。さりながら、兎角お前には、彌助どの/\と、どの付けを なされて、さりとては氣の毒、矢ツ張り彌助、どうせい斯うせいと、お心安う、ナア 申し。


つぢ

イヤ/\、それは免して下され。


彌助

そりや又なぜでござります。


つぢ

さればいの。彌助という名は、これまで連合ひの呼び名、どの付けせずに、どう せい斯うせいとは、勿體なうて云ひ憎い。慣れたどの付け、さして下されいの。


[唄]

[utaChushin] 實に夫をば大切に、思ふ掟を幸ひに、娘へこれを聞けがしの、母の慈 悲とぞ聞えける。


[つぢ]

ほんにわしとした事が、奧に、まだ仕掛けの用、暫らく店を、頼みましたぞや。


[唄]

[utaChushin] 母は納戸へ入りにける。


[ト書]

トおつぢ、思ひ入れあつて奧へ入る。


さと

コレ、彌助、父さんも母さんも、其方と今宵、祝言させうと仰しやるに依つて、 これからは、お里さまお里さまと、さま附けは止めにして、女房どものお里、と呼び 捨てにしてたもいなう。


彌助

イヤ/\、滅相もない事仰しやりませ。どうして御主人の娘御を、呼び捨てにな りませうぞ。


さと

其やうな事云はずと、云うて見や。


彌助

それでも、どのやうに致します事やら。


さと

そんなら、わたしが教へてあげうほどに、よく覺えて置きなさんせ。


彌助

ハイ/\、どうぞお教へなされて下さりませ。


さと

斯うやつて、内へ歸つて來たら、オホン、女房ともの お里、いま戻つた、斯う云ふのぢやわいなア。


[ト書]

ト仕方して教へる。


彌助

左樣なら、斯う戻つて、女房とものお里さま、いま戻 つた。


さと

アレ、矢ツ張り樣ぢやわいなア。


彌助

そんなら、女房どものお里、いま戻つた。


さと

オヽ嬉し。


[唄]

[utaChushin] 割りなき仲と見えにける。この家の惣領、いがみの權太。


[ト書]

トてんつゝになり、向うより權太、スタ/\出て


權太

阿母は内にか。


[ト書]

ト内へ入る。お里、思ひ入れ。


お里

兄さん……ようお出でなさんした。


權太

なんだ、その面は。よく來たが恟りか。わりやア彌助と、巧い事をして居るさう な。コレ、彌助もよく聞け。いま追ひ出されて居ても、爰の内の物は、竈の下の灰ま でおれが物だ。今日は親仁の毛蟲が、役所へ行たと聞いたによつて、ちつと阿母に云 ふ事があつて來た。二人ながら奧へ行け。行つて阿母を、ちよつと呼んで來い。エヽ、 行きやアがれ。


[唄]

[utaChushin] 睨み廻され、ウヂ/\と、これにと云うて立つ彌助、娘も共に引添う て、一間へこそは入りにけれ。母は一間を立出でゝ。


[ト書]

ト彌助、お里、暖簾口へ入る。おつぢ出て思ひ入れ。


つぢ

わりや權太郎ぢやないか。ほんにマア、目に見るさへも腹が立つ……とつとゝお のれ、うせ居らぬか……南無阿彌陀佛々々々々々々。


權太

モシ/\、お母さん、ちよつと待つておくんなさいまし。


[ト書]

トおつぢ、思ひ入れ。


つぢ

何にもわれに用は無い……どうなとしをれ。


[ト書]

ト奧へ行きかける。


權太

アヽ、モシ/\、ちよつと待つて下さいまし。


[ト書]

ト云ひながら側へ寄る。


つぢ

コリヤヤイ、おのれはマア、勘當受けをつた内へ、ノサ/\と遠慮もなう、第一 世間へ聞えが惡い。サヽ、どこへなと、早う行き居らぬか。


權太

ちよつとのうちは、いゝぢやねえか。偶々來たのに、そんなに邪慳に云ひなさん な。コレ、母さん、聞いてくんなさい。イヤモウ、おれも今度と云ふ今度は、コツキ リ上を明けやした。イヤサ、ホツカリしたよ。アヽ、恐しい恐しい、無頼漢仲間の友 達連れ合ひ、頭無しまで借り込んで、今ぢやア首も作り付けのやうだ。誠にみじめ觀 念佛が聞いて呆れらア。人を付け。おれが體が、始末におへなくした。


つぢ

こりや又親仁どのゝ留守を考へ、無心に來たか。性懲りもない椀 白者、其おのれが心から、嫁御があつても足踏み一つさす事ならぬ。聞きやこ の村へ來て居るげなが、互ひに知らねば、摺り合つても嫁姑の明き盲目、眼潰れと 人々に、云はれるが面目ない。エヽ不所存者め。


[唄]

[utaChushin] 目に角を、立て替つたる機嫌にぐんにやり、直ぐではゆかぬと、いが みの權太、思案し替へて。


權太

申し、母者人、今晩參つたは、無心ではござりませぬ。お暇乞ひに參りました。


つぢ

そりやマアなんで。


權太

私しは遠い所へ參ります程に、親仁樣もお前樣も、隨分おまめでござりませ。


[唄]

[utaChushin] 悄れかゝれば、母は驚ろき。


つぢ

遠い所は、そりやどこへ。どうした譯で、何に行くのぢや。


[唄]

[utaChushin] 根問ひは親の騙され小口、サアしてやつたと眼を瞬き


權太

親の物は子の物と、お前にこそ無心申せ、いつに人の物を箸片し、いがんだ事も 致しませぬに、不孝の罪か、昨夜わしは、大盗人にあひました。


つぢ

や……、なんと云やる。


權太

サア、その中には、代官所へ上げる年貢、銀三貫目といふもの盗み取られ、云ひ 譯もなく仕樣もなく、お仕置にあふよりはと、覺悟極めて居りまする。情ない目にあ ひました。


[唄]

[utaChushin] かます袖をば顏に當て、しやくり上げても出ぬ涙、鼻が邪魔して眼の 縁へ、屆かぬ舌ぞ恨めしき、甘い中にも分けて母親、實と思ひ目を摺り。


つぢ

鬼神に横道なしと、年貢金を盗まれ、死なうと覺悟は、まだ出かした。災難にあ ふも親の罰、よう思ひ知れよ。


權太

アイ/\、思ひ知つては居りますけれど、どうで死なねばなりますまい。


つぢ

コリヤ、ヤイ。


權太

ハイ/\。


つぢ

常のおのれが性根ゆゑ、これも騙りか知らねども、しやうぶ分けにと思うた金、 親仁どのに隱して遣らう。これでほつとり、性根を直し居れ。


權太

アイ/\/\。


[唄]

[utaChushin] そろ/\戸棚へ、子の蔭で、親も盗みをする。母の、甘い錠さへ明け 兼ねる。


[ト書]

ト二重舞臺へ上がり


つぢ

南無三、こりや錠が卸りてあるが、鍵がなうては。


權太

そりやア、雁首で、コチ/\が好うござります。


つぢ

オヽ、器用な子ぢやの。


[ト書]

ト腰より煙管を出す。


[唄]

[utaChushin] 仕馴れたる、おのが手業を教へる不孝、親は我が子が可愛さに、地獄 の種の三貫目、後をくろめて持つて出て。


[ト書]

ト權太、煙管にて錠を叩き明ける。おつぢ、戸棚より銀包みを三貫目通り出し


つぢ

アヽコレ、なんぞに包んでやりたいものぢや。


[ト書]

ト思ひ入れ。


[唄]

[utaChushin] 限りない程甘い親、うまい和郎ぢやといがみの權太、鮨の空き桶好い 入れ物、これへ/\と親子して、金をつけたる黄金鮨、蓋しめ栓しめ。


權太

アヽモシ、これがようござります。


[ト書]

ト鮨の空き桶を持ち來る。兩人してこれへ金を入れる。


つぢ

サアよいワ。これで目立たぬ。早う持つて行け。


[ト書]

ト桶を權太へ渡す。


[唄]

[utaChushin] 親子が工合の最中へ、苦い父親彌左衞門、これも疵持の足の裏、アタ フタとして門口を。


[ト書]

ト向うより彌左衞門出て來て、門口へ來て


彌左

いま戻つたぞよ。明けいよ/\。エヽ、明けぬかい。


[ト書]

ト門口を叩く。兩人、アタフタ思ひ入れ。


權太

南無三、親仁だ。


[ト書]

トうろたへる。


[唄]

[utaChushin] 内にはてんだううろたへ廻り、その桶を爰へ/\と、空き桶と共に並 べて、親子はヒソ/\、奧と口とへ引分かれ、息を詰めてぞ入りにける。


[ト書]

ト右の桶を空き桶と一緒に併べ、暖簾口へ入る。


彌左

なぜ明けぬぞい。早う明けぬかい。


[唄]

[utaChushin] 頻りに叩けば奧より彌助、走り出て、戸を明ける、内入り惡く、あた りを見廻し。


[ト書]

ト奧より彌助出で來り、捨ぜりふにて門口を明ける。、彌左衞門、内へ入り


[彌左]

コリヤ、又どいつも寢て居るか。云ひ付けた鮨どもは仕込んであるか。


[唄]

[utaChushin] 鮨桶を、提げたり、明けたり、くわつたくわた。


[彌左]

こりや思ふほど仕事が出來ぬわい……マヽ、茶を一つ。


彌助

ハイ/\。


[ト書]

ト暖簾口へ入る。彌左衞門、思ひ入れあつて、腰より幕前の手拭に包みし、切り 首を取出し、鮨の空き桶へ隱し、蓋をして居る。奧より彌助、茶を汲み出て來り


[彌助]

ハイ、お茶おあがりなされませ。


[ト書]

ト差出す。彌左衞門、恟りして


彌左

オヽ……ムウ、茶か。


[ト書]

ト桶を片寄せ、茶碗を取つて、茶を呑み


[彌左]

さうして、女房どもやお里めは、何をして居るぞ。


彌助

阿母樣もお里さまも、奧に仕事をなされてゞござりまする……これへお呼び申し ませう。


[ト書]

ト奧へ行かうとするを、彌左衞門、留めて


彌左

アヽコレ。


[ト書]

トあたりを見廻し、門口を締め


[彌左]

先づ/\。


[ト書]

ト彌助を二重舞臺へ直す。


[唄]

[utaChushin] 内外見廻し、表を締め、上座へ直し、手をつかへ。


[ト書]

ト合ひ方。


彌左

君の親御、小松の内府重盛公の、御恩を受けたる某何卒御子維盛卿の、御行くへ をと思ふ折柄、熊野浦にてお出逢ひ申し、月代を勸め、この家へお供申したれども、 人目を憚り、下部の奉公、餘りと申せば勿體なさ。女房ばかりに仔細を語り、今宵祝 言と申すも、心は娘をお宮仕へ。彌助々々と賤しき我が名をお讓り申したも、彌々助 くるといふ文字の縁起。人は知らじと存ぜしに、今日鎌倉より、梶原平三景時來つて、 維盛卿を圍まひあると退引きさせぬ詮議、烏を鷺と云ひ拔けては歸れども、邪智深い 梶原、もしや吟味に參らるゝも知れずと、心企みは致しは置けど、油斷は怪我の基。 明日からでも、我が隱居所、上市村へお越しあられませう。


[唄]

[utaChushin] 申し上ぐれば維盛卿。


彌助

父重盛の厚恩を、受けたる者は幾萬人、數限りなきその中に、おとこがやうな者 あらうか。昔は如何なる者なるぞ。


[唄]

[utaChushin] 訊ね給へば。


彌左

私しめは平家盛りの折柄、唐土育王山へ祠堂金をお渡しなさるゝ時、音頭の瀬戸 にて、三千兩の金盗み取られ、役目の難儀、切腹にも及ばん所、有り難いは重盛さま、 日の本の金、唐土へ渡す我れこそは、日の本の盗賊と、御身の上を悔み給ひ、重ねて なんの崇りもなく、お暇を下され、親里へ立歸つて、由緒ある鮨商賣、今日を安樂に 暮らせども、忰權太郎めが盗み騙り、殺生の報いぞと、思ひ知つたる身の懺悔、お恥 かしうござります。


[唄]

[utaChushin] 語るに付けて維盛も、榮華の昔父の事、思ひ出され御膝に、落つる涙 も痛はしき、娘お里は今宵待つ、月の桂の殿もうけ、寢道具抱へ立出づれば、主はハ ツと泣く目を隱し。


[ト書]

ト暖簾口よりお里、絹布團、二つ枕持ち出し來る。兩人、思ひ入れ。


彌左

コレ、彌助、いま云ひ聞かした通り、上市村へ行く事を、必らずともに忘れまい ぞ。今宵はお里と、爰にゆるり。嚊とおれとは離れ座敷、遠いが花の香がなうて、ア、 氣樂にあらう、ハヽヽヽヽ。


[唄]

[utaChushin] 打笑ひ、奧へ行くのも娘は嬉しく。


[ト書]

ト彌左衞門、奧へ入る。彌助、お里殘り


さと

ほんにマア、粹な父さん。離れ座敷は隣り知らず、餅搗きませうと、オヽをかし ……ホヽヽヽヽ、此方は爰に天井拔け、寢て花せう。


[唄]

[utaChushin] 蒲團敷く、維盛卿はつく%\と、身の上、又は都の空、若葉の内侍や 若君の、事のみ思ひ出されて、心も澄まず氣も浮かず、打悄れ給ひしを、思はせぶり と、お里は立寄り。


[さと]

これはマア……エヽ、辛氣な。何案じてぢやぞいなア。二世も三世も固めの枕、 二つ並べて、こちや寢よう。モシ、お月さんも、もう寢たぞえ。


[唄]

[utaChushin] 先へころりと轉び寢は、戀の罠とぞ見えにけり、維盛枕に寄り添ひ給 ひ。


[ト書]

トお里、二枚折り屏風を立て、蒲團着て寢る。


彌助

これまでこそ假の情、夫婦となれば二世の縁、結ぶに辛き一つの云ひ譯、何を隱 さう某は、國に殘せし妻子あり、貞女兩夫に見えずの、掟は夫も同じ事、二世の固め は、免してたも。


[唄]

[utaChushin] 流石小松の嫡子とて、解けたやうでもどこやらに、親御の氣風殘りけ る、神ならず佛ならねば、それぞとも、知らぬ道をば行き迷ふ、若葉の内侍は若君を、 宿ある方に預け置き、手負ひの事も頼まんと、思ひ寄る身も縁の端、この家を見かけ、 戸を打ち叩き。


[ト書]

ト向うより若葉の内侍、六代の手を引き出で來り、門口へ來て


若葉

頼みませう……一夜の宿を頼むわいの。


[唄]

[utaChushin] 一夜の宿を乞ひ給へば、維盛は、好い退き汐と表の方、叩く扉に聲を 寄せ。


彌助

この内は鮨商賣、宿屋ではござらぬわいの。


[唄]

[utaChushin] 愛想の無いが愛想となり。


若葉

イヤ申し、幼ないを連れた旅の女、是非に一夜を頼むわいの。


[唄]

[utaChushin] 是非に一夜とのたまふにぞ斷わり云うて歸さんと、戸を押し開き月影 に、見れば内侍と六代君、ハツと戸をさし、内の樣子、娘の手前も訝かしく、そろ/ \立寄り見給へば、早くも結ぶ夢の體、表に内侍は不思議の思ひ。


若葉

今のはどうやら我が夫に、似たと思へど、形かたち、頭も青き下男。よもやマア。


[唄]

[utaChushin] よもやと思ひ給ふうち、戸を押し開いて維盛卿。


彌助

若葉の内侍か、六代か。


若葉

さては我が夫。


六代

父樣かいなう。


[唄]

[utaChushin] なう懷かしやと取縋り、詞は無うて三人が、泣くより外の事ぞなき。


彌助

先づ/\内へ。


[唄]

[utaChushin] 先づ/\内へと、密かに伴ひ。


[彌助]

今宵は取分け、都の事を思ひ暮らして居たりしが、親子ともに息災で、不思議の 對面、さりながら、某この家に居る事を、誰が知らせしぞ。殊に又、はる%\の旅の 空供を連れぬは、何とも以て。


[唄]

[utaChushin] 訊ね給へば若葉の君。


若葉

都でお別れ申してより、須磨や八島の軍を案じ、一門殘らず討死と、聞く悲しさ も嵯峨の奧、泣いてばつかり暮らせしに、高野とやらんに在すると、云ふ者があるゆ ゑに、小金吾召連れお行くてを、志す道、追手に出逢ひ。


[唄]

[utaChushin] 可哀や金吾は深手の別れ、頼みの力も無い中に。


[若葉]

巡り逢うたは嬉しいが、三位中將維盛さまが、袖の無いお羽織に、このお頭は何 事ぢやいなう。


[唄]

[utaChushin] むせび絶入り給ふにぞ、面目なさに維盛も、額に手を當て袖を當て、 伏し沈みてぞ在します、泪の内にも若葉の君、臥したる娘に目を付け給ひ。


若葉

若い女中の寢入り端、殊に枕も二つあり、定めてお伽の人ならん。斯くゆるがし きお暮らしなら、都の事も思し召し、風の便りもあるべきに、打捨て給ふは、お胴慾 でござりまするわいなう。


彌助

それも心にかゝりしかど、文の落ち散る恐れあり、分けてこの家の彌左衞門、父 重盛への恩報じと、我れを助けてこれまでに、重々厚き夫婦が情、何がな一禮返禮と、 思ふ折柄、娘の戀路、つれなく云はゞ過ちあらん、却つて恩が仇なりと、假の契りは 結べども、女は嫉妬に大事を漏らすと、彌左衞門にも口留めして、我が身の上を明か さず、仇な枕も、親への義理。


[唄]

[utaChushin] 義理にこれまで契りしと、語り給へば臥したる娘、堪え兼ねしか聲上 げて、ワツとばかりに泣き出だす、こは何ゆゑと驚ろく内侍、若君引連れ、逃げ退か んとし給へば。


[ト書]

トお里、起き上がり


さと

ア、モシ、マア、お待ちなされて下さりませ。


[唄]

[utaChushin] 涙と共に、お里は駈け寄り。


[さと]

先づ/\これへ。


[唄]

[utaChushin] 内侍若君上座へ直し。


[さと]

私しは里と申して、この家の娘。いたづら者、憎い奴と、思し召されん申し譯、 過ぎつる春の頃、色珍らしい草中へ、繪にあるやうな殿御のお出で。


[唄]

[utaChushin] 維盛さまとは露知らず、女の淺い心から。


[さと]

可愛らしい、愛しらしいと


[唄]

[utaChushin] 思ひ染めたが戀の元。


[さと]

父も聞えず母さんも、夢にも知らして下さんしたら、例へ焦れて死ぬればとて。


[唄]

[utaChushin] 雲井に近き御方へ、鮨屋の娘か惚れらりよか。


[さと]

一生連れ添ふ殿御ぢやと、思ひ込んで居るものを、二世の固めは、親への義理に 誓つたとは、情ないお情に。


[唄]

[utaChushin] あづかりましたとだうと伏し、身を慄はして 泣きければ、維盛卿は氣の毒と、内侍も道理の詫び涙、乾く間もなき折からに、村の 役人駈け來り、戸を叩いて。


[ト書]

ト向うより、宿役人出で來り、舞臺へ來て、門口を叩き


役人

コレ/\、いま爰へ鎌倉から、梶原平三さまがお出でなさる。内を掃除して置か つしやれ。必らず麁相のないやうに、さつしやれや。


[唄]

[utaChushin] 云ひ捨てゝこそ立歸る。人々ハツと泣く目も晴れ、如何はせんと俄の 仰天、お里はさそくに心付き。


[ト書]

ト宿役人、引返して入る。


さと

先づ/\親の隱居屋敷、上市村へ、早う/\。


[唄]

[utaChushin] と氣をあせる。


彌助

實にその事は彌左衞門、我れにも教へ置きしかど、とても開かぬ平家の運命、檢 使を引受け潔う、腹掻き切らん、さうぢや。


[ト書]

ト腹切らうとする。内侍、留めて


若葉

コレ、お待ち遊ばせ。この若のいたいけ盛りを、思し召し、一先づ爰を。


[唄]

[utaChushin] と無理矢理に、引立て給へは維盛も、子に引 かさるゝ後ろ髮、是非なくその場を落ち給ふ、御運の程ぞ危ふけれ。


[ト書]

ト彌助、内侍、六代の手を引き三人とも向うへ入る。


[唄]

[utaChushin] 樣子を聞いたかいがみの權太、勝手口より跳り出で。


[ト書]

ト暖簾口より、權太、ツカ/\と出で來たり


權太

お觸れのあつた、内侍、六代、維盛彌助め、ふん縛つてくれべいか。


[唄]

[utaChushin] 尻引ツからげ駈け出すを。


さと

コレ、待つて下さんせ。兄さん、これはわたしが一生の願ひ。どうぞ見遁がして 下さんせいなア。


[ト書]

ト縋る。


權太

べら坊め、大金になる仕事だワ。エヽ、退きやアがれ。


[唄]

[utaChushin] 縋るを蹴飛ばし毆り飛ばし、最前置きし金の鮨桶、これ忘れてはと引 ツ提げて、後を慕うて追うて行く。


[ト書]

ト權太、お里を蹴飛ばし、以前の鮨桶を引ツ抱へ、門口へ出て、一散に向うへ入 る。


さと

申し、父さん……母さんイなう。


[唄]

[utaChushin] 呼ぶ聲に、彌左衞門、母も駈出で。


[ト書]

ト奧より彌左衞門、おつぢ、出で來り


兩人

ヤア、娘、何事ぢやぞいの。


さと

申し、先刻都から、維盛さまの御臺若君、尋ねさまよひお出であり、積る話しの その中へ、詮議に來ると知らせを聞き、三人連れて上市へ、落しまするを情ない、兄 さんが聞いて居て、討取るか生捕つて褒美にすると、たつた今、追ひ駈けてござんし たわいなう。


[唄]

[utaChushin] 云ふより恟り彌左衞門。


彌左

そりや一大事ぢや。ソレ、脇差寄越せ。


[ト書]

トお里、戸棚より脇差を持つて來て、彌左衞門に渡す


[唄]

[utaChushin] 嗜みの朱鞘の脇差、腰にぼツ込み、駈け出す向うへ。


[ト書]

ト彌左衞門、一腰を差し、ツカ/\と花道へかゝる。


[唄]

[utaChushin] 矢筈の提灯、梶原平三景時、家來數多に十手持たせ、道を塞いで。


[ト書]

ト時の太鼓になり、向うより景時、陣羽織、手甲、臑當うしろ鉢卷、凛々しき形 にて、重ね草鞋にて、采を持ち出で來る。軍兵二人、袖なし羽織 を着たる形にて矢筈の紋付き、高張り提灯を持ち、後より摺込み四天の捕り手四人付 き、出で來り、花道にて、彌左衞門に行き合ひ、キツとなつて


景時

ヤア、老ぼれめ、何所へ行く。逃げるとて逃がさうか。


[唄]

[utaChushin] 追取り卷かれて、ハツと吐胸、先も氣遣ひ、爰も遁がれず、七轉八倒、 心は早鐘、時に時つく如くなり。


[景時]

ヤア、比奴横道者。おのれ今日、維盛が事詮議すれば、存ぜぬ知らぬと云ひ拔け る。其まゝにして歸せしは、思ひ寄らず踏み込まう爲、この家に維盛隱まひある事、 所の者より地頭へ訴へ、早速鎌倉へ早打ち、取るものも、取り敢へず來れども、油斷 の體は、おのれを取逃がすまい爲。サア、首討つて渡すか。但し違背に及ぶか。返答 ぶて。ドヽどうだ。


[唄]

[utaChushin] 責め付けられ、叶はぬ所と胸を据ゑ。


彌左

成る程、一旦は隱まひないとは申したれども、餘り御詮議が強いゆゑ、隱しても 隱されず、はや先達て首討ちましてござります。御覽に入れるでござりませう。何を 申すも爰は門中。マヽヽ、これへお通り下さりませ。


[ト書]

ト皆々舞臺へ來り、内へ入る。


[唄]

[utaChushin] 伴ひ入れば母娘、どうなる事と氣遣ふうち、鮨桶引ツ提げ、彌左衞門、 靜々出でゝ向うに直し。


[ト書]

ト梶原、上の方へ通る。彌左衞門、桶を取出し、梶原の前へ直し


彌左

三位維盛の首、お受取り下されい。


[唄]

[utaChushin] 蓋を取らんとする所へ、女房駈け寄り、ちやつと押へ。


つち

アヽコレ、親仁どの、この桶の中には、わしがちやつと大事の物を入れて置いた。 こなさん、明けてどうさつしやる。


彌左

オヽ、われは知るまい。この桶には、最前維盛卿のお首を討つて、入れて置いた。


つぢ

イヤ/\、この桶には、こなたに見せられぬ物があるわいの。


彌左

エヽ、おのれが、何にも知らぬからぢや。


つぢ

イヤ、こなたが知らぬゆゑぢやわいの。


[ト書]

ト兩人爭ふ。


[唄]

[utaChushin] 爭ひ果てねば梶原平三。


景時

ヤイ/\、さては此奴等、云ひ合せ、巧んだな、拵らへたな。 ソレ、者ども、括れ。


家來

ハツ……動くな。


[ト書]

ト取卷く。


[唄]

[utaChushin] 縛れ括れと下知の下、捕つた/\と取卷く所に。


權太

維盛夫婦、餓鬼めまで、いがみの權太が、生捕りました。


[唄]

[utaChushin] 討取つたりと呼はる聲、ハツとばかりに彌左衞門、女房娘も氣は狂亂、 いがみの權太は嚴めしく、若君内侍を猿縛り、宙に引立て目通りに、どつかと引据ゑ。


[ト書]

ト權太、鮨桶を抱へ、内侍六代を縛つて出てくる。


[權太]

親仁の賣僧が三位維盛を、熊野浦より連れ歸り、道にて頭を剃りこぼち、青二才 にして彌助と名を替へ、この節は嫌らしい聟詮索。生捕つて面恥と存じたに、思ひの 外手強い奴、村の者の手を借りて、やう/\と討取つて、首に致して持參仕りました。 御實檢下さりませう。


[ト書]

ト桶を景時の前へ差出す。景時、首を見る事あり


景時

成る程、月代を剃りこぼち、彌助と云ふとは存じながら、先達て云はぬは、彌左 衞門めに、思ひ迷ひをさゝう爲。聞き及んだいがみの權太、惡者と聞きしが、お上へ 對しては忠義の者。出かした/\……内侍六代生捕つたな。ハテ、好い器量。夢野の 鹿で思はずも、女鹿子鹿の手に入るは、天晴れの働らき。褒美には、親彌左衞門めが 命赦してくれう。


權太

アヽモシ、親の命位を赦してもらはうと思つて、この働らきは致しませぬ。


景時

ムウ、すりや、親の命は取られても、褒美が欲しいか。


權太

ハテ、親の命は親と相對、私しにば、どうぞお金をお願ひ申します。


景時

ハテ、小氣味の好い奴。褒美くれん。


[唄]

[utaChushin] 着せし羽織、脱いで渡せば佛頂面。


[ト書]

ト景時、着せし陣羽織を脱ぐ。家來取つて、好き所へ置く。


[景時]

コリヤ、その羽織は頼朝公のお召替へ。何時でも鎌倉へ持參せば、金銀と釣替へ。 そくたくの合ひ紋。


權太

成る程、當時は騙りが流行るから、こりや二重取りをさせぬ分別。ハテ、好くし たものだなア。


[唄]

[utaChushin] 繩付き渡せば受取つて、首を器に納めさせ。


[ト書]

ト内侍、六代を渡す。捕り手受取り、兩人、繩を扣へる。首桶を持ちし捕り手、 右の切り首を取つて、首桶へ納め、景時は悠々と下へ來り


景時

コリヤ、權太、彌左衞門一家の奴等は、暫らく汝に預けるぞ。


權太

お氣遣ひなされますな。貧乏動ぎもさせる事ぢやアござりませぬ。


景時

ハテサテ、健氣な……繩付きを引ツ立てい。


家來

ハア。


[唄]

[utaChushin] 褒めそやして梶原平三、縄付き引立て立歸る。


[ト書]

ト三重、時の太鼓になり、提灯持ち先に景時、花道へかヽる。後より内侍、六代、 捕り手兩人、この繩を扣へ、後より同じく捕り手、首桶を引ツ抱へ、この人數花道へ 入る。權太、門口より後見送り


權太

アヽ、コレ/\、その次手に、褒美の金を忘れて下さりますな。お頼み申します。


[唄]

[utaChushin] 見送る隙間、油斯見合せ彌左衞門、憎さも憎しと引ツ抱へ、グツと突 ツ込む恨みの刃、ウンと仰向に反り返る見るに親子はハアはつと、憎いながらも悲し さの、母は思はず駈け寄つて。


[ト書]

ト彌左衞門、一腰を拔き、權太の脇腹へグツと突き立てる。


つぢ

コレ、天命知れや、不孝の罪、思ひ知れ。


[唄]

[utaChushin] 思ひ知れやと云ひながら、先立つものは涙にて、伏し沈みてぞ泣き居 たる、彌左衞門齒噛みをなし。


彌左

泣くな女房、なに吠える。不便なの可哀いのと云うて、こんな奴を生けて置けば、 世界の人の大きな難儀ぢやわい。門端も蹈ますなと、云ひ付け置いたに、内へ引入れ、 大事の/\維盛さまを殺し、内侍さまや若君を、よう鎌倉へ渡したな。腹が立つて/ \、涙がこぼれて、胸が裂けるわい。三千世界に子を殺す、親と云ふのはおればかり、 天晴れ手柄な因果者に、ようしをつたな。


權太

コレ、親仁どの、こなたの力で、維盛を、助ける事は、叶はぬ/\。


彌左

コリヤヤイ、今日幸ひと別れ道の、傍らに手負ひの死人、好い身替りと首討つて 戻り、この中に隱し置いた。コリヤ、これを見居れ。


[唄]

[utaChushin] 鮨桶取つて打明ければ、グワラリと出たる三貫目。


[ト書]

ト以前の鮨桶を明ける。中より、隱せし三貫目、バラバラと出る。彌左衞門、恟 りして


[彌左]

ヤア、こりや金ぢや。こりやどうぢや。


[唄]

[utaChushin] 呆れ果てたるばかりなり、手負ひは顏を打眺め。


權太

おいとしや、親仁樣。私しが性根の惡さに、御相談の相手もなく、前髮の首を惣 髮にして渡さうとは、料簡違ひの危ない所、梶原程の侍ひが、彌助と云うて青二才の、 男に仕立てある事を、知らいで討手に來ませうか。それと云はぬは彼方も企み。維盛 さま御夫婦の、路銀にせんと盗んだ金、重いを證據に取違へた鮨桶、明けて見たれば 中には首、ハツと思へどこれ幸ひ、月代剃つて突き付けたは、矢ツ張りお前が、仕込 みの首。


彌左

ムウ、その又根性で、御臺若君に繩をかけ、なぜ鎌倉へ渡したぞ。


權太

オヽ、そのお二人と見えたのは、この權太めが女房、忰。


彌左

ヤア。して/\、維盛さま御夫婦、若君は何所に。


權太

オヽ、逢はせませう。


[唄]

[utaChushin] 袖より取出す一文笛、吹き立つれば、折よしと維盛卿内侍は茶汲みの 姿となり、若君連れて駈け付け給ひ。


[ト書]

ト權太、袖より一文笛を出して吹く。下の方より、維盛。内侍は小せん、六代は 善太の形に着替へ、出で來り


維盛

彌左衞門夫婦の衆、權太郎へ一禮を。


[ト書]

ト權太を見て


若葉

ヤア、手を負うたか。ホイ。


[ト書]

ト恟りする。


[唄]

[utaChushin] 手を負うたかと驚ろくも、お替りないかと恟りも、一度に興をさまし ける、母は悲しさ手負ひに取付き。


つぢ

斯程正しき性根にて、人に踈まれ誹らるゝ、身持ちはなぜにしてくれた。常が常 なら連合ひも、むざと手疵も負はせまい、酷い事ぢや、酷いわいなう。


[唄]

[utaChushin] 悔み歎けば權太郎。


權太

ヤレ、そのお悔み、無用々々。常が常なら梶原が、身替り喰うては歸りませぬ。 まだそれさへも疑うて、親の命を褒美にくれう、忝ないと云ふと早、詮議に詮議をか ける所存。いがみと見たゆゑ油斷して、一杯喰うて歸りしは、災ひも三年と、惡い性 根の年の明け時、生れ付いて諸勝負に魂ひ奪はれ、今日もあなたを二十兩、騙り取つ たる荷物の内、恭々しくも高位の繪姿、彌助に顏の生寫し、合點ゆかねど母人へ、金 の無心を囮に入込み、忍んで聞けば維盛卿、御身に迫る難儀の段々。爰で性根を改め ずば、いつ親人の御機嫌に、あづかる時節もあるまいと、打つて替へたる惡事の裏。 維盛さまの首はあつても、内侍若君の代りに立つる人もなく、途方に暮れし折柄に、 女房小せんが忰を連れ、親御の勘當、古主への忠義、なにうろたへる事がある、わし と善太をコレ斯うと、手を廻すれば忰めも、母さんと一緒にと、共に廻した縛り繩、 かけても/\手が外れ、結んだ繩もしやら解け、いがんだおれが直ぐな子を、持つた は何の因果ぞと、思うては泣き、諦めては泣き、後手にしたその時は、心は鬼でも蛇 心でも、堪え堪えし血の涙、可哀や不便や女房も、ワツと一聲、その時は、この血を 吐きましたわいの。


[唄]

[utaChushin] 血を吐きましたと語るにぞ、力み返つて彌左衞門。


彌左

聞えぬぞや權太郎、孫めに繩をかける時、血を吐く程の悲しさを、常に持つては なぜくれぬ。廣い世界に嫁一人、孫と云ふのは彼奴一人、子供が大勢遊んで居れば、 親の顏を目印に、苦みの走つた子があるかと、尋ねて見ては、コレ/\子供衆、權太 が子供は居ませぬかと、問へば子供は、どの權太、家名は何と尋ねられ、おれが口か らまんざらに、いがみの權とはえゝ云はず、惡者の子ぢやゆゑに、跳ね出されて居る であらうと、思ふ程猶其方が憎さ。いま直る根性が、半歳ばかり前に直つたら、ナウ、 婆。


つぢ

親仁どの……嫁や孫の顏、見覺えて置かうのに。


彌左

オヽ/\/\、おれも、そればつかりが。


[唄]

[utaChushin] そればつかりがと咽せ返り、ワツとばかりに泣き沈む、心ぞ思ひやら れたり、内侍は始終御涙、維盛卿は身に迫る、いとゞ思ひに掻き暮れ給ひ。


惟盛

彌左衞門が歎ぎ、さる事なれども、逢うて別れ、逢はで死するも皆因縁。汝が討 つて歸りたる、首は主馬の小金吾とて、内侍が供せし譜代の家來。生きて盡せし忠義 は薄く、死んで身替る忠勤厚し、これも不思議の因縁づく。


[唄]

[utaChushin] 語り給へば。


彌左

てもさても、そんなら、これも鎌倉の奴等が仕業であらう。


維盛

オヽ、云ふにや及ぶ、右大將頼朝が威勢に蔓る無得心。一太刀恨みぬ、殘念至極。


[唄]

[utaChushin] 怒りに交る御涙、實にお道理と彌左衞門、梶原が預けたる、陣羽織を 取出し。


彌左

オヽ、幸ひ頼朝が着替へとて、褒美の合ひ紋に殘し置きしこの羽織、ズタ/\に 引ツ裂いても、御一門の數には足られど、一裂きづゝ御手向け……サア、遊ばせ。


[ト書]

ト以前の陣羽織を取つて差出す。


維盛

ナニ、頼朝の着替へとや。


[ト書]

ト羽織を取つて


[維盛]

晋の豫讓が試しを引き、衣を刺して一門の、恨みを晴らさん、思ひ知れ。


[唄]

[utaChushin] 御佩力に手をかけて、羽織を取つて引上げ給へば、裏に模樣か歌の下 の句。


[ト書]

ト羽織を取つて、裏に目を付け


[維盛]

「内や床しき、内ぞ床しき」と、二ツ並べて書きたるは……ハテ心得ぬ。この歌 は小町が詠歌、雲の上にありし昔に替らねど、見し玉垂れの内や床しきとありけるを、 その返しとて、人も知つたるこの歌を、物々しく書きたるは心得ず。殊に梶原は、和 歌に心を寄せし武士、内や床しきとは、この羽織の、縫ひ目の内ぞ床しき。


[唄]

[utaChushin] 襟際付け際切り解き。


[ト書]

ト維盛、短刀にて、羽織の裏を切り解く。中より淨土袈裟、法衣、水晶の數珠、 出る。維盛取上げ


維盛

こりやコレ、袈裟衣、珠數まで添へて、入れ置いたは。


彌左

こりやどうぢや。


[唄]

[utaChushin] こは如何にと呆れる人々、維盛卿。


惟盛

ホウ、さもさうず、さもあらん。保元平治のその昔、我が父小松の重盛、池の禪 尼と云ひ合せ、死罪に極まる頼朝を、命助けて伊東へ流人、その恩報じと維盛を、助 けて出家させよとの、鸚鵡返しか恩返しか。ハア、敵ながらも頼朝は、天晴れな大將。


[唄]

[utaChushin] 見し玉垂れの内よりも、心の内の床しさや。


[ト書]

ト衣を取上げ


[惟盛]

これとても父重盛のお庇。エヽ、忝ない。


[唄]

[utaChushin] 喜び給ふぞ道理なる、人々ハツと喜び涙、手負ひの權太は這ひ出で摺 り寄り。


權太

及ばぬ智惠で梶原を、誑かつたと思ひしが、彼方が何も皆合點。思へばこれまで 騙つたも、殘す命をかたらるゝ、種と知らざる淺ましさ。


[唄]

[utaChushin] 悔みに近き終り際。


維盛

維盛もこれまでは、佛を騙つて輪廻を離れず、離れる時は今この時。


[唄]

[utaChushin] 髻りフツツと切り給へば、内侍若君取縋り。


[ト書]

ト維盛、小さ刀を出し、髮を切る。


若葉

共に尼とも姿を替へ


さと

せめてはお宮仕へなりと


若葉

お許しなされて


兩人

下さりませせ。


[唄]

[utaChushin] 願へば叶はず、打拂ひ/\。


維盛

内侍は高雄の文覺へ、六代が事頼まれよ。お里は兄に成り替り、親へ孝行肝要な るぞ。


[唄]

[utaChushin] 立出で給へば彌左衞門。


彌左

女中の供は、年寄りの役。


[唄]

[utaChushin] 諸ともに旅用意、手負ひを痛はる母親が。


つぢ

アコレ、つれない親仁どの、權太郎が最期も近し。死目に會うて下されいの。


[唄]

[utaChushin] 留めるにせき上げ彌左衞門。


彌左

現在血を分けた忰を手にかけ、どう死目に會はれうぞ。死んだを見ては一足も、 歩かるゝものかいの。息ある内は叶はぬとても、助かる事もあらうかと思ふが、せめ ての力草。留める其方が、胴慾ぢやわいなう。


[唄]

[utaChushin] 云うて泣き出す父親に、母は取分け、娘は猶、不便不便と維盛の、首 には輪袈裟、手に衣。


維盛

手向けの文も阿褥多羅。


彌左

三藐三菩提。


若葉

高雄。


維盛

高野へ


さと

引分くる。


彌左

夫婦の別れに


つぢ

親子の名殘り。


[唄]

[utaChushin] 手負ひを見送る顏と顏、思ひはいづれ大和路や、芳野に殘る名物に、 維盛彌助といふ鮨屋、今は榮ふる花の里、その名も高く。


[ト書]

ト維盛、花道。若葉六代、彌左衞門付いて東の歩みへかゝる。段切れにて、


よろしく幕
[唄]

[utaChushin] あらはせり。


[ト書]

ト幕の外。三重になり、双方、揚げ幕へ入る。


シヤギリ