University of Virginia Library

大詰 八幡村與兵衞内の場

  • 役名==南方十次兵衞實ハ南與兵衞。
  • 同女房、おはや實ハ都。
  • 十次兵衞母親。
  • 三原傳藏。
  • 平岡丹平。
  • 濡髮長五郎。
造り物、平舞臺、惣二階。見附け、押入れ、赤壁納戸口。上手、下手とも屋體。いつもの所に門口。右の舞臺に母親、神棚へ神酒などを供へ居る。おはやは小芋を三方に載せて月見の拵らへして居る。この見得、床の淨瑠璃にて幕開く。
[唄]

[utaChushin] 出で入るや月弓の、八幡山崎、南與兵衞のお婆、我が子可愛か金を出せと、諷ひしを思ひ合せば、その昔、八幡近在隱れなき、郷代官の家筋も、今は妻のみ生き殘り、神と佛を友にして、秋の半の放生會、宵宮祭と待つ宵と、かけ荷うたる供へ物、母は神棚しつらへば、嫁は小芋を月魄へ、子種頼みの米團子、月の數ほど持ち出づる。


[ト書]

トあと合ひ方になる。


母親

コレ嫁女、月見の芋は明日の晩。今日は待宵、殊に日のうちからは、早いわいなう。


はや

母さんの、何をわつけもない。お前が明日の放生會を、今日からお供へ遊ばすゆゑ、何もかも、宵月からする事と存じまして、オヽ笑止やなア。


母親

アヽ、コレ嫁女、その笑止は、矢ツ張り廓の詞。大坂の新町で、都と云うた時とは違ふぞや。今では南與兵衞の女房のおはや、近所の人が來たとて、煙草など吸ひつけて出しやんなや。今でこそ落ちぶれたれど、前は南方十次兵衞と云うて、人も羨やむ身代。連合ひがお果てなされてから與兵衞が放埓、郷代官の役目も上がり、内證もしもつれ、こなたの手前も恥かしい事だらけ。さりながら、爰の殿樣もお替りなされ、新代官は皆上がり、古代官の筋目をお尋ねにて、與兵衞も俄のお召し。昔に返るはこの時と、難行なれども、神いさめの供物、蚤の息が天とやら、お上の首尾が聞きたいわいなう。


はや

イヤモウ、それはお氣遣ひ遊ばすな。お前のその心が通じて、御出世でござりませうわいなア。


[唄]

[utaChushin] 早う吉左右聞きましたやと、待ちかね見やる表の方、編笠にて顏隱し、世を忍ぶ身の後や先、見廻して立ち寄る門口、嬉しや爰ぞとずつと入る、母は見るより。


[ト書]

トこの淨瑠璃にて、向うより長五郎、前幕の形にて、編笠を着て、向うより出て來て、後先見廻して直ぐに本舞臺へ來て、内へ入ると、母何心なう、長五郎を見て


母親

ヤア、長五郎ではないか。


長五

母者人。


はや

濡髮さんか。


長五

都どの。これはしたり。さては願ひの通り、與兵衞どのと夫婦にならつしやつたか。


はや

ヤア、喜んで下さんせ。わたしを請け出した權九郎は、根が似せ金師で牢へ入れられ、殺された太皷持ちは、盜人の上前取りで、追剥になつて殺し徳。なんの氣がゝりなう、添うて居やんすわいなア。


長五

ハテ、仕合せな事ぢやなう。同じ人を殺しても、運の好いのと、惡いのと。


[ト書]

トちよつと思ひ入れあつて


[長五]

イヤ、仕合せな事ぢやなう、


[ト書]

ト母親、こなしあつて


母親

コレおはやゝ、しみ%\とした話しぢやが、其方衆は近附きかいなう。


はや

アイ、廓でのお近付き。


母親

アノ、與兵衞もかや。


はや

イヽヤ、これは、つい一目知る人ぢやが、また長五郎さんが、お前を母さんと仰しやる譯はえ。


母親

オヽ、不思議なは道理々々。どうで一度は、云はねばならぬ、マア一通り、聞いて下されいなう。


[ト書]

ト合ひ方になり


[母親]

この長五郎は、五つの時、養子に遣つて、わしはこの家へ嫁入り。與兵衞は先妻の子で、わしとは生さぬ仲ゆゑに、その譯知つても知らぬ顏。あそこや爰の手前を思ひ、かつふつ音づれもせなんだが、去年開帳參りに、フト大坂で見た時には、年はたけても父御ゆづりの高頬の黒子。もし其方は、長右衞門へ遣つた、長五郎ではないかと、問ひつ問はれつ昔語り、息子の親達も死失せ、相撲取りになつたとの話し。歸つて與兵衞に話さうかと思うたれど、以前を慕ひて、尋ねにでも行つたかと、思はれるが恥かしさに、隱して居ましたが、斯うしらけて來たからは、與兵衞が戻られたら、引合して、兄弟の杯。嫁ともに子三人。ほんにわしほど、果報な身の上は、又と世界にあるまいわいなう。


[唄]

[utaChushin] 喜ぶ親の心根を、思ひやるほど長五郎、明日をも知れぬ我が命を、知られぬ母のいたはしやと、思へばせき來る涙を隱し。


長五

イヤ申し、母者人。與兵衞どのが、お歸りあらうとも、わたしの事はお話し御無用になされて下さりませ。


母親

そりや又、なぜに。


長五 

されば、相撲取りと申す者は、人を投げたり、抛つたり、喧嘩同然。勝負の遺恨に依つて、侍ひでも、町人でも、切つて/\切りまくり、ぶち殺して。


母親

ヤア。


長五

イヤ、そんな事、わしは致しませねど、男を立て通して、一家一門へ、難儀のかゝる事もあるもの。マア、この商賣しまふまでは、お前とも赤の他人。忰を持つたと思うて下されまするな。何時知れぬ身の上、これがお別れにならうも知れず。おはやどの、與兵衞どのへも母の事、頼みますると云うて下され。長崎の相撲に下りますれば、長うお目にかゝりますまい。隨分御息災で、お暮しなされて下さりませ。


[唄]

[utaChushin] と打萎るれば。


[ト書]

ト長五郎、愁ひの思ひ入れ。母親、おはや、合點のゆかぬこなしあつて


母親

コリヤ長五郎、そんな商賣せねばならぬか。長崎へも、どつこへも行かずと、この内に居て、與兵衞とも問ひ談合。その恰幅では、何さしたとて仕兼ねはせまい、ナウおはや。


はや

さうでござりまするとも。御兄弟と云ふ事、主も聞かれましたら喜ばれませう。マア、お茶漬でも、ナア阿母樣。


母親

イヤ/\、初めて來たもの、鱠でもしませう。あの體へは牛蒡の太煮、蛸の料理が好きであらう。マア、それまでは氣が晴れてよい二階座敷、淀川を見て肴にして、一つ呑みや。うご/\せずに、行きやいなう。ドリヤ、拵らへませうか。


[唄]

[utaChushin] 薄刃の錆は身より出て、死出の出立ちの料理ぞと、思へばいとゞ胸ふさがり。


長五

申し、何もお構ひなくとも、け椀の一杯ぎり、つい食べて、歸りませう。


[ト書]

トこれにて母親、おはや、納戸へ入る。長五郎、こなしあつて


[唄]

[utaChushin] 母の手盛りを牢扶持と、思ひ諦らめ煙草盆、提げて二階へ萎れ行く。


[ト書]

トこれにて長五郎煙草盆、提げて、二階へ上がる。


[唄]

[utaChushin] 人の出世は時知れず、見出しにあづかる南與兵衞、衣類大小申し請け、伴なふ武士は何者か、所目馴れぬ血氣の兩人、家來もその身も立ちどまり。


[ト書]

トこの淨瑠璃にで南與兵衞、着附け、袴、大小にて、出て來り、後より平岡丹平、三原傳藏、着附け、羽織大小にて出る。次に家來一人、旅形にて附いて出て、花道よき所にて立ちとまり


與兵

即ちあれが、拙者の宅でござりまする。


丹平

然らば、あれが御貴殿樣の、お宅でござりまするか。


傳藏

左やうござらば、御案内の下されい。


與兵

サ、お越しなされませう。お先へ參る。


[唄]

[utaChushin] 互ひに辭儀合ひ南與兵衞、いそ/\として内に入り。


[ト書]

トこれにて皆々、本舞臺へ來て、與兵衞は直ぐに内へ入つて


[與兵]

母者人、女房ども、只今歸つたぞよ。


[ト書]

トこれにて母親、おはや兩人、出て來て


はや

ヤア、お歸りか。


母親

戻りやつたか。して、お上の御首尾は、どうぢやぞいなう。


[ト書]

トこれにて與兵衞は眞中に居ると、上手に母親、下手におはや。


與兵

イヤ、お喜び下されい。首尾は極上々。まツこの如く衣類大小下し置かれ。名前も南方十次兵衞と、親の名跡に改め下され、昔の通り、庄屋代官を仰せつけられ、七ケ村の支配まで、仰せつけられましてござりまする。


母親

ヤレ/\、それはめでたい事。さうして、見れば、表にお歴々がござるが、あれは全體、どなたぢやぞいなう。


與兵

即ち、あれは西國方のお侍ひ。密々に仰せ合さるゝ事あつて、御同道申せしが、さして隱す程の事ではござらねども、暫らく母人にも、御遠慮下され。女房どもゝ、用事あるまで差控へてよからう。


[唄]

[utaChushin] と云ひ渡し、表へ出づれば。


[ト書]

トこれにて與兵衞は門口へ行くと


母親

コレ嫁女、今からは武士づき合ひ、遠慮が多い。


[唄]

[utaChushin] 物馴れし、母と嫁とは立別れ、奧と口とへ入りにける。


[ト書]

トこれにて母親は奧へ入ると、おはやは思ひ入れあつて、下手の屋體へ入る。


與兵

イザ、お通り下されませう。


兩人

然らば、御免下され。


[唄]

[utaChushin] 兩人を上座に直し。


[ト書]

トこれにて丹平、傳藏、内へ入つて、上手へ居直る。


與兵

さて、今日殿の御前にて、仰せつけられし、秘密の御用、仔細は各々方に承はれとの儀。先づそのお尋ね者の科の樣子、お物語り下されい。


[唄]

[utaChushin] と尋ぬれば、年がさなる侍ひ取りあへず。


丹平

さて、拙者は平岡丹平、これなるは三原傳藏と申して、主人の名は、お上にも御存じ。當春、大坂表にて、兩人の同苗どもを殺されしゆゑ、相手の者の在所を、所所方々と詮議致せども、討つたる相手の行くへ知れず、この間承はれば、この八幡近在に由縁あつて、立越えしと申す。さるに依つて、當役所へお願ひ申せしに、兄弟の敵、隨分見付け、召捕られよ。併し、夜に入つては當地不案内、所に馴れたる者に申しつけ、繩かけ渡さんとあつて、貴殿へ仰せつけられた。仔細と申すは、斯くの通りでござる。


[ト書]

トこの間、おはや、下手の屋體より立ち聞いて居る。上手の屋體より母、これも立ち聞いて居る。


[唄]

[utaChushin] 語るを一間に母親は、耳そば立つればこなたには、女房おはやが立ち聞きの、蟲が知らすか胸騷ぎ、與兵衞はなんの心も付かず。


[ト書]

ト此うち、長五郎は二階にて聞いて居て、いろ/\とこなしある。與兵衞は、何も知らず


與兵

然らば、敵討ち同然、隱密々々。もし左やうな儀もござらうかと、母女房まで退け、御内意を承はる。なんとその討たれさつしやつた、御同苗のお名は、なんと申しまするな。


丹平

その討たれたは、身共が弟、郷左衞門と申しまする。


傳藏

手前が兄、有右衞門と申しまする。


與兵

フム、すりや平岡郷左衞門、三原有右衞門どのとなア。


丹平

如何にも。


傳藏

すりや、貴殿には御存じかな。


與兵

イヤ、承はつたやうにも……して、その殺したる者は何者。


丹平

サア、その相手は、相撲仲間で隱れもなき、濡髮の長五郎。


[唄]

[utaChushin] 聞いて母親障子をぴつしやり、おはやは運ぶ茶碗をぐわつたり。


[ト書]

トこれにて母親は恟りして、障子を締めると、おはやは丸盆に茶碗を載せて持つて居るを、恟りして落す。與兵衞はこれを見て


與兵

ハテ、不調法な。


[唄]

[utaChushin] 呵る夫の側に坐り、猶も樣子を聞き居たる。


[ト書]

トこれにておはやは與兵衞の下手に坐る。


[與兵]

して、御兩所は、何所を目當。


丹平

この丹平は、當所を家探し致したうござる。


與兵

イヤ、御尤も。して傳藏どのゝ思し召しは、如何でござりまするな。


傳藏

手前が存ずるには、最前其許樣へお頼み申した繪姿を、村々へ貼り置き、油斷の體に見せ、どか/\と踏ん込んで、牛部屋、柴部屋、或ひは二階などを、吟味いたしたい所存でござる。


與兵

それも尤も。


[ト書]

ト與兵衞、思ひ入れあつて


[與兵]

併し、大きな體で、下家には居りますまい。兎角二階などが心元ない。先づ御兩所には、楠葉橋本邊を、御詮議なされませ。夜に入らば、拙者が受取り、例へ相撲取りでござらうが、柔術取りでござらうが、見付け次第に繩打つて、お渡し申さん。その段、ちつともお氣遣ひなされまするな。


傳藏

イヤ、其お詞を承はつて、我れ/\が安堵。イヤ丹平どの、楠葉邊へ參らうではござらぬか。


丹平

イカサマ、日の内は、我れ/\が働らき、夜に入つてお頼み申すが肝心。然らば、お暇申すでござらう。


與兵

然らば又、晩ほどお役所にて、御意得ませう。


兩人

おさらばでござりまする。


[唄]

[utaChushin] と目禮し、二人の武士は立歸る。おはやは始終物案じ差俯向いて居たりしが。


[ト書]

ト丹平傳藏入る。おはや思ひ入れあつて


はや

申し與兵衞さん、味な事を頼まれなされたが、長五郎とやらを、捕つて出さうとの請合ひ。そりやマアお前、ほんの氣でござんすかえ。


與兵

ハテ、けうとい物の云ひやう。あの侍ひに由縁もなく、元來長五郎に意趣もなけれど、今の兩人が願ひに依つて、お上よりこの與兵衞に、仰せつけられたその仔細は、關口流の一手も覺え居る事、お聞き及びあつて、役人どもに申しつける筈なれども、當地に來て間もなく、土地不案内ゆゑ、當所に住み馴れたる其方に申しつくる。日の内は、あの方より詮議せん、夜に入つては此方より、隅々まで詮議いたし、搦め捕つて渡しなば、國の譽れとあつてのお頼み。一生の外聞、召捕つて、手柄の程を見せたらば、母人にも、さぞお喜びであらう。


はや

イヤ/\、なんの、それがお嬉しからうぞいなア。


與兵

とは又、なぜに。


はや

ハテ、昔はともあれ、昨日今日まで八幡の町人、生兵法大疵の基と、ひよつとお怪我でもなされた時は、阿母樣の悲しみ、なんのお喜びでござんせうぞいなア。


與兵

イヽヤ、入らざる女の差出。わりや、手柄の先を折るか。


はや

サア、折るも一つは、お前の爲。


與兵

ヤア、此奴が。なんで濡髮を庇ひ立て。但しはおのれが一門か。何にもせよ、御前で請合ひ、見出しに遭うたこの與兵衞。今までとは違ふ。詞返せは、手は見せぬぞ。


[唄]

[utaChushin] と切刃廻せば。


[ト書]

トこの時、與兵衞は腹を立て、刀の柄に手をかけると納戸より母親、出て


母親

ヤレ、夫婦の衆、爭ひは必らず無用。


[唄]

[utaChushin] と一間を立ち出で。


[母親]

最前からの樣子は、殘らずあれにて聞きましたが、その濡髮の長五郎と云ふ者、其方は、よう見知つて居やるか。


與兵

その長五郎と云へる者、一度堀江の相撲で見請け、その後、色里にてちよつとの出合ひ。隱れもなき大前髮。慥か、右の高頬に黒子、見知らぬ者もあらうとあつて、村々へ配る人相書。


[ト書]

ト懷中より人相書を出して


[與兵]

これ、御覽下されい。


[唄]

[utaChushin] 懷中より、出して見せたる姿繪を。


母親

ドレ。


[唄]

[utaChushin] と見る母、二階より、覗く長五郎手洗鉢、水に姿が映ると知らず、目早き與兵衞が水鏡、きつと見附けて見上ぐるを、敏きおはやが引窓ぴつしやり、内は眞夜となりにけり。


[ト書]

ト母親、繪姿を開くと、二階より長五郎、覗く。下の手洗ひ鉢に姿映る。與兵衞は見て、キツとなつて、二階を見込む。この時、おはやは引窓を締める。


五兵

コリヤ、何をする、女房。


はや

ハテ、雨もぽろつく、最早日の暮れ、灯をともして上げませうわいなア。


[ト書]

ト與兵衞は、さてはと云ふ思ひ入れあつて


與兵

ハテナア、面白し/\。日が暮れたれば、この與兵衞が役。忍び居るお尋ね者、イデ、召捕らん。


[唄]

[utaChushin] とスツクと立つ。


[ト書]

トおはや、こなしあつて


はや

ソレ、まだ日は高い。


[唄]

[utaChushin] 引窓ぐわらり、明けて云はれぬ女房の、心遣ひぞ切なけれ。母は手筥に嗜なみし、銀一包み取出し。


[ト書]

トこれにておはやは窓を明けると、母親は手筥を取つて來て、銀一包み出して


母親

これは、コレ、御坊へ差上げ、永代經を讀んでもらひ、未來を助からうと思ふ、大切な金なれども、手放す心を推量して、なんと、その繪姿、わしに賣つてはたもらぬか。


與兵

フム。母者人、二十年以前に、御實子を大坂へ、養子に遣はされたと聞きましたが、その御子息は、堅固でござるかな。


母親

與兵衞、村々へ渡すその繪姿、どうぞ買ひたい。


與兵

ハテナア。鳥の粟を拾ふやうに、溜め置かれたその金、佛へ上げる布施物を費しても、この繪姿が、お買ひなされたいか。


母親

未來は奈落へ沈むとも、今の思ひに替へられぬわいなう。


與兵

エヽ、是非もなや。


[唄]

[utaChushin] 大小投げ出し。


[ト書]

トこれにて與兵衞、丸腰になつて


[與兵]

兩腰差せば十次兵衞、丸腰なれば、今までの通りの與兵衞。相變らず八幡の町人、商人の代物、お望みならば、上げませう。


母親

アノ、賣つて下さるか……それでは、こなたの。


與兵

アイヤ、日の内は、私しが役目ではござりませぬ。


母親

ハアヽ、忝なや。


[唄]

[utaChushin] と戴く母、袖は乾かぬ涙の海、嫁は見る目を押拭ひ。


はや

イヤ申し、與兵衞さん、あまり母さんのお心根が痛はしさに、大事の手柄を支へました。さぞ憎い奴、不屆き者と、お呵りもあらうが、産の子よりも大切に、可愛がつて下さる御恩、せめてお力にと、とも%\に匿まひました。常々からも、萬事の品、包むと思うて下さんすなえ。


[唄]

[utaChushin] 中に立つ身の切なさは、云ひ譯涙に時うつる。哀れ數ふる暮れの鐘、隈なき月も待宵の、光り映れば。


[ト書]

ト與兵衞、氣を替へて


與兵

イヤ、夜に入らば村々を、詮議する我が役目。


[ト書]

ト二階へこなしあつて


[與兵]

河内へ越ゆる拔け道は、狐川を左に取り、右へ渡つて山越しに……よもやさうは行くまいわい。


[唄]

[utaChushin] それと知らして駈け出づる、情も厚き藪疊、折から月の雲隱れ、忍びて樣子窺ひ居る。堪え兼たる長五郎、二階より飛んで下り、表をさして駈け出すを、母は抱きとめ。


[ト書]

トこれにて與兵衞は二階へ思ひ入れあつて、表へ出て下手へ隱れる。この時長五郎、二階より下りて來て、表へ出かける。母は止めて


母親

コリヤ、うろたへ者、どこへ行く。


長五

イヽヤ、最前より尋常に、繩かゝらうと存じたれども、餘りと申せばお志しの有り難さ。眼前嘆きを見せませうよりは、この家を離れてと、堪えに堪えて居りましたが、與兵衞どのゝ手前もあり、後よりぽツつき、捕はれる覺悟。お免されて下さりませ。


[唄]

[utaChushin] 駈け出すを、取つて引据ゑ。


[ト書]

トまた駈け出すを、母は長五郎を引据ゑて


母親

ヤイ、こゝな物知らずめ。おればかりか嫁の志し、與兵衞の情まで無にしをるか、罰當りめが。生さぬ仲の心を疑ひ、繪姿買はうと云ひかけたは、見遁がしてたもるかたもらぬかと、胸の内を聞かう爲。賣つてくれたその時の嬉しさ。おりや、後ろ影を拜んだわいやい、拜んだわいやい。まだその上に、河内へ越える拔け道まで、教へてくれた大恩を、なんと報じようと思ひ居るぞ。コリヤ、死ぬるばかりが男ではないぞよ。七十近い親持つて、喧嘩口論で、人を殺すと云ふやうな、不孝な子が世にあらうか。來ると其まゝ缺け椀に、一膳盛りと望んだは、おのれは牢へ入る覺悟ぢやな。それが、どう見て居られうぞ。せめて親への孝行に、逃げられるだけ、逃げてくれ。生きられるだけ、生きてたも。なんの因果で科人に。


[唄]

[utaChushin] なつた事ぢやとだうと伏し、前後不覺に泣き叫ぶ。おはやも共にせきのぼす、涙押へて。


はや

申し/\、泣いてござる所ぢやないぞえ。夜が明ければ、放生會で人立ちが多い。今宵のうちに落す思案。どうぞ姿を替へる、仕樣はない事かいなア。


母親

オヽ、それも心付いて置きました。マア、目に立つこの大前髮、剃り落しませう。ドレ、剃刀を、取つて來う。


[ト書]

ト母親、立ちかゝると


長五

イヤ申し、母者人、姿を替へて繩かゝらば、よくよく命が惜しさにと、云はれるも無念な。侍ひを殺した場で、直に相果てうと存じましたが、死なれぬ義理にて、生き長らへ、一日々々と親の事が身に浸み、ま一度お顏が拜みたさに、お暇乞ひに參つて、却つて思ひをかけまする。矢張り此まゝで、與兵衞どのへ、お渡しなされて下さりませ。


母親

すりや、どうしても、繩かゝる氣ぢやな。


長五

覺悟いたして居りまする。


母親

よいワ。勝手にしをれ。


[唄]

[utaChushin] われより先にと剃刀を。


[ト書]

ト母親剃刀にて死なうとするを、おはや、長五郎兩人にて止めて


長五

アヽ申し、あやまりました/\。


母親

サヽ、そんなら、剃つて、落ちてくれ。


[唄]

[utaChushin] 母は手づから合せ砥に、かゝる思ひがあらうとは、神ならぬ身の白髮のこの身、剃るべき髮は剃りもせで、祝うて落す前髮を、涙で揉んで剃り落す、老の拳の定まらず、わな/\慄うて刃尖がきつくり。


[ト書]

トこれにて長五郎、顏に二所ほど疵附く。おはや見て、


はや

申し、二所まで、お顏に疵が。


母親

アヽ、ひよんな事しました。幸ひ、血止め。


[唄]

[utaChushin] 硯の墨べつたり附けて、顏打詠め。


[母親]

大方これで人相が變つたが、肝心の見知りは、高頬の黒子。


[唄]

[utaChushin] 剃り落さんと剃刀を、當てる事は當てながら。


[母親]

これこそは、父御の讓り。


[唄]

[utaChushin] 形見と思へば。


[母親]

嫁女、わしやどうも剃り憎い。こなたを頼む。剃り落して下され。


はや

わしぢやとて、むごたらしい。それが、どう剃らるるもの。お免しなされて下されませ。


母親

思へば/\親の形見まで、剃り落すやうになつたか。エヽ、心柄とは云ひながら


[唄]

[utaChushin] 可愛の者やと取りついて、わつとばかりに泣き沈む。折もこそあれ門口より。


與兵

濡髮、捕つた。


[唄]

[utaChushin] と打ちつける金の手裏劍高頬にぴつしやり、ハツと身構へ母は楯、おはやは灯火立ち覆ひ。


[ト書]

トこれにて與兵衞出て、門口より金包みを長五郎の高頬へ當てる。身構へすると、母親は長五郎を圍ふ。おはやは行燈の灯を我が身で隱して


はや

今のは慥かに、連合ひの聲。


[ト書]

ト云ひつゝ、長五郎の顏を見て


[はや]

長五郎さんの、顏の黒子が、潰れたぞえ。


母親

ヤア、ほんに、誠にこれも情。


[唄]

[utaChushin] と母親は、表を拜み居たりしが、兼ねて覺悟の長五郎、思ひ設けてどつかと座し。


長五

サア母者人、お前の手で繩かけて、與兵衞どのへ、お渡しなされて下さりませ。


はや

コレ長五郎さん、お前の氣がのぼせたか。捕つたと顏へ打ちつけて、黒子を消した連合ひの心、又コレ、この打ちつけた金の包みに、路銀と書いた一筆、そこへお心は附かぬかえ。


長五

イヽヤ、その書付けも、黒子を消した心も、骨にこたへ、肝に通り、餘り過分な忝なさに、母の嘆きも御意見も、不孝の罪も思はれず、片輪な子が可愛いと、義理も法も辨まへなく、助けたい/\と、母人のお慈悲心、暫らくはお心休めと、詞に從ひ、元服まで致したれど、一人ならず二人ならず、四人まで殺した科人、助かる筋はござりませぬ。生仲な者の手にかゝらうより、形見と思ひ母者人、泣かずとも、繩をかけ、與兵衞どのへ手渡しゝて、ようお禮を仰しやれや。ヤヽ、コレ、さうなうては、未來の十次兵衞どのへ、濟むまいがな。


母親

アヽ、誤まつた、長五郎、よう云うてくれたな。イカサマ、思へば、わしは大きな義理知らず。誠を云はゞ我が子を捨てゝも、繼子に手柄さするが人間。畜生の皮かぶり、猫が子をくはへ歩くやうに、隱し退けようとしたは何事。とても遁がれぬ天の網、一世の縁の縛り繩。おはや、その細引でも、取つて下され。


はや

イヤ、それでは連合ひの心を、無になされると云ふもの。唐天竺へござつても、この世にさへござれば、どうしてなりとも、また逢はれる。何かはなしに、落しまして下さんせ。


母親

イヤナウ、一旦庇うたは恩愛、今また繩かけ、渡すのは生さぬ仲の義理。晝は庇ひ、夜は繩かけ、夜晝と分ける繼子、ほんの子、慈悲も立ち、義理も立つ。草葉の蔭の親々への云ひ譯、覺悟はよいか。


長五

待ち兼ねて居りまする。


はや

マア/\、待つて下さんせい。


[ト書]

トおはや、止めるを、突き退けて


[唄]

[utaChushin] おはやを取つて突きのけ突きのけ、手を廻すれば母親は、幸ひ有り合ふ窓の繩、押取つて縛り繩、突き放せば引き繩に、窓は塞がれ心も闇、暗き思ひの聲張り上げ。


[ト書]

トこれにて窓紐にて長五郎を縛りて、放すと、窓の蓋締まる。


母親

濡髮長五郎を召捕つたぞ。十次兵衞は居やらぬか。受取つて、手柄に召され。


[唄]

[utaChushin] 呼ぶ聲に、與兵衞は駈け入り。


[ト書]

トこれにて與兵衞は内へ入つて


與兵

お手柄/\。左やうなうては叶はぬところ。とても遁がれぬ科人。受取つて、御前へ引く。女房ども、もう何時。


はや

されば、夜半にもなりませう。


與兵

たわけ者めが。七ツ半を最前聞いた。時刻が延びると役目が上がる。繩先知れぬ窓の引き繩、三尺殘して切るが古例。目分量にて、これから。


[唄]

[utaChushin] すらりと拔いて縛り繩、ずつかり切れば、ぐわら/\ぐわら、さし込む月に。


[與兵]

南無三方、夜が明けた。身共が役目は夜の内ばかり。明くれば即ち放生會、生けるを放す所の法、恩に着ずとも、勝手にお行きやれ。


[ト書]

ト長五郎を突きやる。


長五

ハア。


[唄]

[utaChushin] ハツと喜ぶ嫁姑、合す兩手の數よりも、九ツの鐘六ツ聞いて。


與兵

殘る三ツは、母への進上。


長五

拙者が命も、御自分へ。


與兵

それも云はずと、さらば。


長五

さらば。


[唄]

[utaChushin] さらば/\の暇乞ひ、別れてこそは、落ちて行く。


[ト書]

ト皆々よろしく、引張り模樣、三重にて、



双蝶々曲輪日記(終り)