University of Virginia Library

Search this document 

collapse section1. 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
collapse section2. 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
collapse section3. 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
二十
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
 30. 
 31. 
 32. 
 33. 
 34. 
 35. 
 36. 
 37. 
 38. 
 39. 
 40. 
 41. 
 42. 
 43. 
 44. 
 45. 
 46. 
 47. 
 48. 
 49. 
 50. 
 51. 
 52. 
 53. 
 54. 
 55. 
 56. 
  

二十

 「Kと私は同じ科へ入學しました。Kは澄ました顏をして、養家から送つてく れる金で、自分の好な道を歩き出したのです。知れはしないといふ安心と、知れたつ て構ふものかといふ度胸とが、二つながらKの心にあつたものと見るよりほか仕方が ありません。Kは私よりも平氣でした。

 最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉強 するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀 音の傍の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂のすぐ傍の狹い室でし たが、彼は其所で自分の思ふ通りに勉強が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手 頸に珠數を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つ と勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數の輪を勘定するらし かつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒 づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな 心持がして、爪繰る手を留めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふので す。

 私は又彼の室に聖書を見ました。私はそれ迄に御經の名を度々彼の口から聞い た覺がありますが、基督教に就いては、問はれた事も答へられた例もなかつたのです から、一寸驚ろきました。私は其理由を訊ねずにはゐられませんでした。Kは理由は ないと云ひました。是程人の有難がる書物なら讀んで見るのが當り前だらうとも云ひ ました。其上彼は機會があつたら、コーランも讀んで見る積だと云ひました。彼はモハメツドと劒といふ言葉に大いなる興味を有つてゐるやうでした。

 二年目の夏に彼は國から催促を受けて漸く歸りました。歸つても專問の事は何 にも云はなかつたものと見えます。家でも亦其所に氣が付かなかつたのです。あなた は學校教育を受けた人だから、斯ういふ消息を能く解してゐるでせうが、世間は學生 の生活だの、學校の規則だのに關して、驚ろくべく無知なものです。我々に何でもな い事が一向外部へは通じてゐません。我々は又比較的内部の空氣ばかり吸つてゐるの で、校内の事は細大共に世の中に知れ渡つてゐる筈だと思ひ過ぎる癖があります。K は其點にかけて、私より世間を知つてゐたのでせう、澄ました顏で又戻つて來ました。國を立つ時は私も一所でしたから、汽車へ乘るや否やすぐ何うだつたとKに問ひまし た。Kは何うでもなかつたと答へたのです。

 三度目の夏は丁度私が永久に父母の墳墓の地を去らうと決心した年です。私は 其時Kに歸國を勸めましたが、Kは應じませんでした。さう毎年家へ歸つて何をする のだと云ふのです。彼はまた踏み留まつて勉強する積らしかつたのです。私は仕方な しに一人で東京を立つ事にしました。私の郷里で暮らした其二ヶ月間が、私の運命に とつて、如何に波瀾に富んだものかは、前に書いた通りですから繰り返しません。私 は不平と幽鬱と孤獨の淋しさとを一つ胸に抱いて、九月に入つて又Kに逢ひました。 すると彼の運命も亦私と同樣に變調を示してゐました。彼は私の知らないうちに、養 家先へ手紙を出して、此方から自分の詐を白状してしまつたのです。彼は最初から其 覺悟でゐたのださうです。今更仕方がないから、御前の好きなものを遣るより外に途 はあるまいと、向ふに云はせる積もあつたのでせうか。兎に角大學へ入つて迄も養父 母を欺むき通す氣はなかつたらしいのです。又欺むかうとしても、さう長く續くもの ではないと見拔いたのかも知れません。