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  初冬 はつふゆ 夜更 よふけ である。

  片山津 かたやまづ (加賀)の温泉宿、半月館 弓野屋 ゆんのや の二階――だけれど、広い 階子段 はしごだん が途中で一段大きく うね ってS形に昇るので三階ぐらいに高い―― 取着 とッつき ドア を開けて、一人旅の、三十ばかりの客が、 寝衣 ねまき で薄ぼんやりと あらわ れた。

 この、半ば西洋づくりの かまえ は、日本間が 二室 ふたま で、四角な縁が、名にしおうここの名所、三湖の雄なる 柴山潟 しばやまがた を見晴しの露台の あつらえ ゆえ、 硝子戸 がらすど と二重を隔ててはいるけれど、霜置く月の冷たさが、 渺々 びょうびょう たる水面から、 おのず から 沁徹 しみとお る。……

 いま と寝覚の枕を上げると、電燈は薄暗し、硝子戸を貫いて、障子にその水の影さえ映るばかりに見えたので、

「おお、寒い。」

  えり から寒くなって起きて出た。が、寝ぬくもりの冷めないうち、早く かわや へと思う 急心 せきごころ に、向う見ずに ドア を押した。

 押して出ると、不意に すご い音で 刎返 はねかえ した。ドーンと扉の閉るのが、広い旅館のがらんとした大天井から地の底まで、もっての外に響いたのである。

 一つ、大きなもの音のしたあとは、目の前の階子段も深い穴のように見えて、白い灯も霜を敷いた さま に床に寂しい。木目の節の、 点々 ぼつぼつ 黒いのも鼠の足跡かと思われる。

 まことに、この大旅館はがらんとしていた。――宵に受持の女中に聞くと、ひきつづき 二十日 はつか 余りの間団体観光の客が立てつけて毎日百人近く込合ったそうである。そこへ女中がやっと四人ぐらいだから、もし 昨日 きのう にもおいでだと、どんなにお気の毒であったか知れない。すっかり潮のように引いたあとで、今日はまた不思議にお客が少く、 此室 ここ 貴方 あなた と、 離室 はなれ の茶室をお好みで、御隠居様御夫婦のお泊りがあるばかり、よい処で、よい折から――と言った癖に……客が ぜん の上の 猪口 ちょく をちょっと控えて、それはお前さんたちさぞ疲れたろう、大掃除の後の骨休め、という処だ。ここは構わないで、湯にでも入ったら かろうと、湯治の客には妙にそぐわない世辞を言うと、 ことば いて、ではそうさして頂きます、後生ですわ、と にべ もなく 引退 ひきさが った。畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを 呆気 あっけ に取られた。

 ……思えば、それも 便宜 たより ない。……

 さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を のぞ くとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、 隙間 すきま とてもないのに、薄い霧のようなものが、すっと 這入 はい っては、そッと 爪尖 つまさき めるので、変にスリッパが すべ りそうで、 足許 あしもと 覚束 おぼつか ない。

  かれ は壁に つかま った。

  てのひら がその壁の面に触れると、遠くで湯の しずく の音がした。

 聞き すま すと、潟の水の、 みぎわ 蘆間 あしま をひたひたと 音訪 おとず れる 気勢 けはい もする。……風は死んだのに、遠くなり、近くなり、汽車が こだま するように、ゴーと響くのは 海鳴 うみなり である。

 更に遠く来た旅を知りつつ、沈むばかりに階段を 下切 おりき った。

 どこにも座敷がない、あっても 泊客 とまりきゃく のないことを知った長廊下の、 底冷 そこびえ のする板敷を、影の

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※※ さまよ うように、我ながら 朦朧 もうろう として 辿 たど ると……

「ああ、この音だった。」

 汀の蘆に波の寄ると思ったのが、近々と聞える処に、洗面所のあったのを心着いた。

 機械口が ゆる んだままで、水が 点滴 したた っているらしい。

 その袖壁の 折角 おれかど から、何心なく中を覗くと、

「あッ。」と、思わず声を立てて、ばたばたと あと 退 さが った。

 雪のような女が居て、姿見に 真蒼 まっさお な顔が映った。

  温泉 いでゆ の宿の真夜中である。