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 客は、なまじ自分の ほか に、 離室 はなれ に老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の 白鷺 しらさぎ に擦違ったように 吃驚 びっくり した。

 が、雪のようなのは、白い くび だ。…… 背後 うしろ むきで、姿見に向ったのに相違ない。 の消えたその洗面所の まわり が暗いから、肩も腰も見えなかったのであろう、と、 うたがい の幽霊を消しながら、やっぱり 悚然 ぞっ として 立淀 たちよど んだ。

 洗面所の壁のその柱へ、袖の陰が うっす りと、 立縞 たてじま の縞目が映ると、 片頬 かたほ で白くさし覗いて、

「お 手水 ちょうず ……」

 と、ものを忍んだように言った。優しい柔かな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び 悚然 ぞっ として息を引く。……

「どうぞ、こちらへ。」

 と言った時は――もう怪しいものではなかった――紅鼻緒の草履に、白い爪さきも見えつつ、廊下を導いてくれるのであろう。 小褄 こづま を取った手に、 黒繻子 くろじゅす の襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた 浅葱 あさぎ が長く からま った、ぼっとりものの中肉が、帯もないのに、 嬌娜 しなやか である。

「いや知っています。」

 これで安心して、 と寄りざまに、 ななめ に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も えん 判然 はっきり して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも 可懐 なつかし いまで、ほんのり人肌が、 くう に来て まつわ った。

 階段を った薄い霧も、この女の気を分けた かすか な湯の煙であったろうと、踏んだのは おし い気がする。

「何だろう、ここの女中とは思うが、すばらしい 中年増 ちゅうどしま だ。」

 手を洗って、ガタン、トンと、 土間穿 どまばき の庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッと いたので、客はもう一度ハッとした。

 と小がくれて、その中年増がそこに立つ。

「これは はばか り……」

「いいえ。」

 と、もう縞の小袖をしゃんと 端折 はしょ って、昼夜帯を 引掛 ひっかけ に結んだが、 あか 扱帯 しごき のどこかが漆の葉のように、 くれない にちらめくばかり。もの しずか な、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、 一重瞼 ひとえまぶた の、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、 容子 ようす のいい女で、色はただ雪をあざむく。

「しかし、驚きましたよ、まったくの処驚きましたよ。」

 と、 懐中 ふところ 突込 つっこ んで来た、 手巾 ハンケチ で手を くのを見て、

「あれ、 貴方 あなた ……お 手拭 てぬぐい をと思いましたけれど、 唯今 ただいま お湯へ入りました、私のだものですから。――それに濡れてはおりますし……」

「それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。」

「でも、貴方。」

「いや、結構、是非願います。」

 と、うっかりらしく手に持った女の濡手拭を、 引手繰 ひったく るようにぐいと取った。

「まあ。」

「ばけもののする事だと思って下さい。 丑満時 うしみつどき で、刻限が刻限だから。」

 ほぼその人がらも分ったので、遠慮なしに、 なかば 調戯 からか うように、手どころか、するすると おもて を拭いた。湯のぬくもりがまだ残る、木綿も女の 膚馴 はだな れて、 やわら かに なめら かである。

「あれ、お気味が悪うございましょうのに。」

 と釣込まれたように、片袖を頬に当てて、取戻そうと差出す手から、ついと、あとじさりに離れた客は、手拭を人質のごとく、しかと取って、

「気味の悪かったのは只今でしたな――この夜ふけに、しかも、ここから、 唐突 だしぬけ だろう。」

 そのまま洗面所へ肩を入れて、

「思いも寄らない――それに、余り美しい 綺麗 きれい な人なんだから。」

 声が天井へもつき通して、廊下へも響くように思われたので、急に、ひっそりと声の調子を沈めた。

「ほんとうに きも つぶ れたね。今思ってもぞッとする…… 別嬪 べっぴん なのと、不意討で……」

「お 巧言 じょうず ばっかり。」

 と、少し身を寄せたが、さしうつむく。

串戯 じょうだん じゃありません。……(お手水……)の時のごときは、頭から霜を浴びて潟の底へ引込まれるかと思ったのさ。」

  大袈裟 おおげさ に聞えたが。……

「何とも申訳がありません。――時ならない時分に、髪を結ったりなんかしましたものですから。――あの、実は、今しがた、遠方のお客様から電報が入りまして、この三時十分に 動橋 いぶりばし へ着きます汽車で、当方へおいでになるッて事だものですから、あとは みんな 年下の女たちが疲れて寝ていますし……私がお世話を申上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりました処なんでございますよ。」

 いまは 櫛巻 くしまき 艶々 つやつや しく、すなおな髪のふっさりしたのに、顔がやつれてさえ見えるほどである。

女中 おんな 部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂頂きましたあとを、お客様のお使いになります処を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。…… 変化 おばけ でございますわね――ほんとうに。」

 と びん に手を触ったまままた 俯向 うつむ く。

「何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で 出会 でっくわ すのは、そんなお化に限るんだけれど、何てたって驚きましたよ――馬鹿々々しいほど驚いたぜ。」

 言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、

「いまだに、胸がどきどきするね。」

 と、どうした 料簡 りょうけん だか、ありあわせた 籐椅子 とういす に、ぐったりとなって ひじ をもたせる。

「あなた、お寒くはございませんの。」

「今度は 赫々 かっか とほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。」

「まあ……」