鷭狩
泉鏡花 (Bangari) | ||
二
客は、なまじ自分の 他 ( ほか ) に、 離室 ( はなれ ) に老人夫婦ばかりと聞いただけに、廊下でいきなり、女の顔の 白鷺 ( しらさぎ ) に擦違ったように 吃驚 ( びっくり ) した。
が、雪のようなのは、白い 頸 ( くび ) だ。…… 背後 ( うしろ ) むきで、姿見に向ったのに相違ない。 燈 ( ひ ) の消えたその洗面所の 囲 ( まわり ) が暗いから、肩も腰も見えなかったのであろう、と、 疑 ( うたがい ) の幽霊を消しながら、やっぱり 悚然 ( ぞっ ) として 立淀 ( たちよど ) んだ。
洗面所の壁のその柱へ、袖の陰が 薄 ( うっす ) りと、 立縞 ( たてじま ) の縞目が映ると、 片頬 ( かたほ ) で白くさし覗いて、
「お 手水 ( ちょうず ) ……」
と、ものを忍んだように言った。優しい柔かな声が、思いなしか、ちらちらと雪の降りかかるようで、再び 悚然 ( ぞっ ) として息を引く。……
「どうぞ、こちらへ。」
と言った時は――もう怪しいものではなかった――紅鼻緒の草履に、白い爪さきも見えつつ、廊下を導いてくれるのであろう。 小褄 ( こづま ) を取った手に、 黒繻子 ( くろじゅす ) の襟が緩い。胸が少しはだかって、褄を引揚げたなりに乱れて、こぼれた 浅葱 ( あさぎ ) が長く 絡 ( からま ) った、ぼっとりものの中肉が、帯もないのに、 嬌娜 ( しなやか ) である。
「いや知っています。」
これで安心して、 衝 ( つ ) と寄りざまに、 斜 ( ななめ ) に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も 艶 ( えん ) に 判然 ( はっきり ) して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも 可懐 ( なつかし ) いまで、ほんのり人肌が、 空 ( くう ) に来て 絡 ( まつわ ) った。
階段を 這 ( は ) った薄い霧も、この女の気を分けた 幽 ( かすか ) な湯の煙であったろうと、踏んだのは 惜 ( おし ) い気がする。
「何だろう、ここの女中とは思うが、すばらしい 中年増 ( ちゅうどしま ) だ。」
手を洗って、ガタン、トンと、 土間穿 ( どまばき ) の庭下駄を引摺る時、閉めて出た障子が廊下からすッと 開 ( あ ) いたので、客はもう一度ハッとした。
と小がくれて、その中年増がそこに立つ。
「これは 憚 ( はばか ) り……」
「いいえ。」
と、もう縞の小袖をしゃんと 端折 ( はしょ ) って、昼夜帯を 引掛 ( ひっかけ ) に結んだが、 紅 ( あか ) い 扱帯 ( しごき ) のどこかが漆の葉のように、 紅 ( くれない ) にちらめくばかり。もの 静 ( しずか ) な、ひとがらな、おっとりした、顔も下ぶくれで、 一重瞼 ( ひとえまぶた ) の、すっと涼しいのが、ぽっと湯に染まって、眉の優しい、 容子 ( ようす ) のいい女で、色はただ雪をあざむく。
「しかし、驚きましたよ、まったくの処驚きましたよ。」
と、 懐中 ( ふところ ) に 突込 ( つっこ ) んで来た、 手巾 ( ハンケチ ) で手を 拭 ( ふ ) くのを見て、
「あれ、 貴方 ( あなた ) ……お 手拭 ( てぬぐい ) をと思いましたけれど、 唯今 ( ただいま ) お湯へ入りました、私のだものですから。――それに濡れてはおりますし……」
「それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。」
「でも、貴方。」
「いや、結構、是非願います。」
と、うっかりらしく手に持った女の濡手拭を、 引手繰 ( ひったく ) るようにぐいと取った。
「まあ。」
「ばけもののする事だと思って下さい。 丑満時 ( うしみつどき ) で、刻限が刻限だから。」
ほぼその人がらも分ったので、遠慮なしに、 半 ( なかば ) 調戯 ( からか ) うように、手どころか、するすると 面 ( おもて ) を拭いた。湯のぬくもりがまだ残る、木綿も女の 膚馴 ( はだな ) れて、 柔 ( やわら ) かに 滑 ( なめら ) かである。
「あれ、お気味が悪うございましょうのに。」
と釣込まれたように、片袖を頬に当てて、取戻そうと差出す手から、ついと、あとじさりに離れた客は、手拭を人質のごとく、しかと取って、
「気味の悪かったのは只今でしたな――この夜ふけに、しかも、ここから、 唐突 ( だしぬけ ) だろう。」
そのまま洗面所へ肩を入れて、
「思いも寄らない――それに、余り美しい 綺麗 ( きれい ) な人なんだから。」
声が天井へもつき通して、廊下へも響くように思われたので、急に、ひっそりと声の調子を沈めた。
「ほんとうに 胆 ( きも ) が 潰 ( つぶ ) れたね。今思ってもぞッとする…… 別嬪 ( べっぴん ) なのと、不意討で……」
「お 巧言 ( じょうず ) ばっかり。」
と、少し身を寄せたが、さしうつむく。
「 串戯 ( じょうだん ) じゃありません。……(お手水……)の時のごときは、頭から霜を浴びて潟の底へ引込まれるかと思ったのさ。」
大袈裟 ( おおげさ ) に聞えたが。……
「何とも申訳がありません。――時ならない時分に、髪を結ったりなんかしましたものですから。――あの、実は、今しがた、遠方のお客様から電報が入りまして、この三時十分に 動橋 ( いぶりばし ) へ着きます汽車で、当方へおいでになるッて事だものですから、あとは 皆 ( みんな ) 年下の女たちが疲れて寝ていますし……私がお世話を申上げますので。あの、久しぶりで宵に髪を洗いましたものですから、ちょっと束ねておりました処なんでございますよ。」
いまは 櫛巻 ( くしまき ) が 艶々 ( つやつや ) しく、すなおな髪のふっさりしたのに、顔がやつれてさえ見えるほどである。
「 女中 ( おんな ) 部屋でいたせばようございますのに、床も枕も一杯になって寝ているものでございますから、つい、一風呂頂きましたあとを、お客様のお使いになります処を拝借をいたしまして、よる夜中だと申すのに。…… 変化 ( おばけ ) でございますわね――ほんとうに。」
と 鬢 ( びん ) に手を触ったまままた 俯向 ( うつむ ) く。
「何、温泉宿の夜中に、寂しい廊下で 出会 ( でっくわ ) すのは、そんなお化に限るんだけれど、何てたって驚きましたよ――馬鹿々々しいほど驚いたぜ。」
言うまでもなく、女中と分って、ものいいぶりも遠慮なしに、
「いまだに、胸がどきどきするね。」
と、どうした 料簡 ( りょうけん ) だか、ありあわせた 籐椅子 ( とういす ) に、ぐったりとなって 肱 ( ひじ ) をもたせる。
「あなた、お寒くはございませんの。」
「今度は 赫々 ( かっか ) とほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。」
「まあ……」
鷭狩
泉鏡花 (Bangari) | ||