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「お澄さん……私は見事に 強請 ねだ ったね。――強請ったより 強請 ゆすり だよ。いや、この時刻だから強盗の 所業 わざ です。しかし 難有 ありがた い。」

 と、枕だけ ねた寝床の前で、盆の上ながらその女中――お澄――に酌をしてもらって、 しからず恐悦している。

 客は、手を いてくれないでは、腰が抜けて二階へは あが れないと、 串戯 じょうだん を真顔で強いると、ちょっと 微笑 ほほえ みながら、それでも しん から気の毒そうに、 いや とも言わず、肩を並べて、 階子段 はしごだん を―― あが ると うね りしなの寂しい白い に、顔がまた白く、 つま が青かった。客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、 幾度 いくたび もあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は、宵の、膳の三本めの 銚子 ちょうし が、給仕は げたし、一人では つま らないから、寝しなに あお ろうと思って、それにも及ばず、ぐっすり 寐込 ねこ んだのが、そのまま袋戸棚の上に忍ばしてある事を思い出したし、……またそうも言った。――お澄が念のため時間を いた時、懐中時計は二時半に少し があった。

「では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。」と軽く やわらか にすり抜けて、 ひらき の口から引返す。……客に接しては、草履を 穿 かない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵に はぜ を釣落した苦き経験のある男が、今度は すずき を水際で にが した。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて 硝子戸 がらすど ごし うみ のぞ いた。

  つらな わた る山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中に へり めぐ らす、 うみ は、一面の おおい なる銀盤である。その 白銀 しろがね を磨いた布目ばかりの浪もない。目の下の みぎわ なる 枯蘆 かれあし に、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い 珊瑚珠 さんごじゅ のように見えて、その中から、 瑪瑙 めのう さん に似て、長く水面を はるか に渡るのは別館の長廊下で、棟に欄干を めぐら した月の色と、露の光をうけるための うてな のような建ものが、中空にも立てば、水にも映る。そこに とざ した雨戸々々が透通って、淡く黄を帯びたのは人なき ともしび のもれるのであろう。

 鐘の も聞えない。

 潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か かり か、

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※※ かいつぶり か、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の 黒子 ほくろ に似ていた。

 冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、 あり 冬籠 ふゆごもり に貯えたような くだん のその 一銚子 ひとちょうし 。――誰に習っていつ覚えた 遣繰 やりくり だか、小皿の小鳥に紙を おお うて、 あお って散らないように 杉箸 すぎばし をおもしに置いたのを取出して、 自棄 やけ に茶碗で呷った処へ――あの、 跫音 あしおと は――お澄が来た。「何もございませんけれど、」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。「 山家 やまが ですわね。」と 胡桃 くるみ の砂糖煮。 台十能 だいじゅう に火を持って来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上り口の わき に、水屋のような三畳があって、 瓶掛 びんかけ 、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏が、その隣座敷。――「旦那様の前ですけど、この 二室 ふたま が取って置きの上等」で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。――

「まあお 一杯 ひとつ 。……お銚子が冷めますから、ここでお かん を。ぶしつけですけれど、途中が遠うございますから、おかわりの分も、」と銚子を二本。行届いた小取まわしで、大びけすぎの 小酒 こざか もり。北の海なる 海鳴 うみなり の鐘に似て凍る時、音に聞く…… 安宅 あたか の関は、この あたり から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県 能美郡 のみごおり 片山津の、 直侍 なおざむらい とは、こんなものかと、客は 広袖 どてら の襟を でて、 胡坐 あぐら で納まったものであった。

「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で 隣座敷 となり へ行ってしまわれるんだと思うと、 なさけ ない気がするね。」

「いいえ。――まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。」

「何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。」

「まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。」

「ああ、銃猟に―― しぎ かい、 かも かい。」

「はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに ばん をお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、 一百 いっそく 二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽が あが りません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分お つき になります。」

「どこから来るんだね、遠方ッて。」

「名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる うち に、 れました船頭が参りますと、小船二 そう でお出かけなさるんでございますわ。」

「それは…… 対手 あいて は大紳士だ。」と客は歎息して おび えたように言った。

「ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。」

「貸座敷―― 女郎屋 じょろや の亭主かい。おともはざっと 幇間 たいこもち だな。」

「あ、当りました、旦那。」

 と言ったが、軽く膝で手を って、

「ほんに、 辻占 つじうら がよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。」

「お喜びかね。ふう成程――ああ大した勢いだね。おお、この 静寂 しずか な霜の湖を船で乱して、 こだま 白山 はくさん へドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に ちりば めようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。」

 お澄は白い指を しご きつつ、うっかり聞いて顔を見た。

「――お澄さん、私は折入って ねえ さんにお願いが一つある。」

 客は膝をきめて居直ったのである。