鷭狩
泉鏡花 (Bangari) | ||
三
「お澄さん……私は見事に 強請 ( ねだ ) ったね。――強請ったより 強請 ( ゆすり ) だよ。いや、この時刻だから強盗の 所業 ( わざ ) です。しかし 難有 ( ありがた ) い。」
と、枕だけ 刎 ( は ) ねた寝床の前で、盆の上ながらその女中――お澄――に酌をしてもらって、 怪 ( け ) しからず恐悦している。
客は、手を 曳 ( ひ ) いてくれないでは、腰が抜けて二階へは 上 ( あが ) れないと、 串戯 ( じょうだん ) を真顔で強いると、ちょっと 微笑 ( ほほえ ) みながら、それでも 心 ( しん ) から気の毒そうに、 否 ( いや ) とも言わず、肩を並べて、 階子段 ( はしごだん ) を―― 上 ( あが ) ると 蜿 ( うね ) りしなの寂しい白い 燈 ( ひ ) に、顔がまた白く、 褄 ( つま ) が青かった。客は、機会のこんな事は人間一生の旅行のうちに、 幾度 ( いくたび ) もあるものではない。辻堂の中で三々九度の杯をするように一杯飲もう、と言った。――酒は、宵の、膳の三本めの 銚子 ( ちょうし ) が、給仕は 遁 ( に ) げたし、一人では 詰 ( つま ) らないから、寝しなに 呷 ( あお ) ろうと思って、それにも及ばず、ぐっすり 寐込 ( ねこ ) んだのが、そのまま袋戸棚の上に忍ばしてある事を思い出したし、……またそうも言った。――お澄が念のため時間を 訊 ( き ) いた時、懐中時計は二時半に少し 間 ( ま ) があった。
「では、――ちょっと、……掃除番の目ざとい爺やが一人起きましたから、それに言って、心得さす事がありますから。」と軽く 柔 ( やわらか ) にすり抜けて、 扉 ( ひらき ) の口から引返す。……客に接しては、草履を 穿 ( は ) かない素足は、水のように、段の中途でもう消える。……宵に 鯊 ( はぜ ) を釣落した苦き経験のある男が、今度は 鱸 ( すずき ) を水際で 遁 ( にが ) した。あたかもその影を追うごとく、障子を開けて 硝子戸 ( がらすど ) 越 ( ごし ) に 湖 ( うみ ) を 覗 ( のぞ ) いた。
連 ( つらな ) り 亘 ( わた ) る山々の薄墨の影の消えそうなのが、霧の中に 縁 ( へり ) を 繞 ( めぐ ) らす、 湖 ( うみ ) は、一面の 大 ( おおい ) なる銀盤である。その 白銀 ( しろがね ) を磨いた布目ばかりの浪もない。目の下の 汀 ( みぎわ ) なる 枯蘆 ( かれあし ) に、縦横に霜を置いたのが、天心の月に咲いた青い 珊瑚珠 ( さんごじゅ ) のように見えて、その中から、 瑪瑙 ( めのう ) の 桟 ( さん ) に似て、長く水面を 遥 ( はるか ) に渡るのは別館の長廊下で、棟に欄干を 繞 ( めぐら ) した月の色と、露の光をうけるための 台 ( うてな ) のような建ものが、中空にも立てば、水にも映る。そこに 鎖 ( とざ ) した雨戸々々が透通って、淡く黄を帯びたのは人なき 燈 ( ともしび ) のもれるのであろう。
鐘の 音 ( ね ) も聞えない。
潟、この湖の幅の最も広く、山の形の最も遠いあたりに、ただ一つ黒い点が浮いて見える。船か 雁 ( かり ) か、
※※ ( かいつぶり ) か、ふとそれが月影に浮ぶお澄の、眉の下の 黒子 ( ほくろ ) に似ていた。冷える、冷い……女に遁げられた男はすぐに一すくみに寒くなった。一人で、 蟻 ( あり ) が 冬籠 ( ふゆごもり ) に貯えたような 件 ( くだん ) のその 一銚子 ( ひとちょうし ) 。――誰に習っていつ覚えた 遣繰 ( やりくり ) だか、小皿の小鳥に紙を 蔽 ( おお ) うて、 煽 ( あお ) って散らないように 杉箸 ( すぎばし ) をおもしに置いたのを取出して、 自棄 ( やけ ) に茶碗で呷った処へ――あの、 跫音 ( あしおと ) は――お澄が来た。「何もございませんけれど、」と、いや、それどころか、瓜の奈良漬。「 山家 ( やまが ) ですわね。」と 胡桃 ( くるみ ) の砂糖煮。 台十能 ( だいじゅう ) に火を持って来たのを、ここの火鉢と、もう一つ。……段の上り口の 傍 ( わき ) に、水屋のような三畳があって、 瓶掛 ( びんかけ ) 、茶道具の類が置いてある。そこの火鉢とへ、取分けた。それから隣座敷へ運ぶのだそうで、床の間の壁裏が、その隣座敷。――「旦那様の前ですけど、この 二室 ( ふたま ) が取って置きの上等」で、電報の客というのが、追ってそこへ通るのだそうである。――
「まあお 一杯 ( ひとつ ) 。……お銚子が冷めますから、ここでお 燗 ( かん ) を。ぶしつけですけれど、途中が遠うございますから、おかわりの分も、」と銚子を二本。行届いた小取まわしで、大びけすぎの 小酒 ( こざか ) もり。北の海なる 海鳴 ( うみなり ) の鐘に似て凍る時、音に聞く…… 安宅 ( あたか ) の関は、この 辺 ( あたり ) から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県 能美郡 ( のみごおり ) 片山津の、 直侍 ( なおざむらい ) とは、こんなものかと、客は 広袖 ( どてら ) の襟を 撫 ( な ) でて、 胡坐 ( あぐら ) で納まったものであった。
「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十分で 隣座敷 ( となり ) へ行ってしまわれるんだと思うと、 情 ( なさけ ) ない気がするね。」
「いいえ。――まあ、お重ねなさいまし、すぐにまたまいります。」
「何、あっちで放すものかね。――電報一本で、遠くから魔術のように、旅館の大戸をがらがらと開けさせて、お澄さんに、夜中に湯をつかわせて、髪を結わせて、薄化粧で待たせるほどの大したお客なんだもの。」
「まあ、……だって貴方、さばき髪でお迎えは出来ないではございませんか。――それに、手順で私が承りましたばかりですもの。何も私に用があっていらっしゃるのではありません。唯今は、ちょうど季節だものでございますから、この潟へ水鳥を撃ちに。」
「ああ、銃猟に―― 鴫 ( しぎ ) かい、 鴨 ( かも ) かい。」
「はあ、鴫も鴨も居ますんですが、おもに 鷭 ( ばん ) をお撃ちになります。――この間おいでになりました時などは、お二人で鷭が、 一百 ( いっそく ) 二三十も取れましてね、猟袋に一杯、七つも持ってお帰りになりましたんですよ。このまだ陽が 上 ( あが ) りません、霜のしらしらあけが一番よく取れますって、それで、いま時分お 着 ( つき ) になります。」
「どこから来るんだね、遠方ッて。」
「名古屋の方でございますの。おともの人と、犬が三頭、今夜も大方そうなんでございましょうよ。ここでお支度をなさる 中 ( うち ) に、 馴 ( な ) れました船頭が参りますと、小船二 艘 ( そう ) でお出かけなさるんでございますわ。」
「それは…… 対手 ( あいて ) は大紳士だ。」と客は歎息して 怯 ( おび ) えたように言った。
「ええ、何ですか、貸座敷の御主人なんでございます。」
「貸座敷―― 女郎屋 ( じょろや ) の亭主かい。おともはざっと 幇間 ( たいこもち ) だな。」
「あ、当りました、旦那。」
と言ったが、軽く膝で手を 拍 ( う ) って、
「ほんに、 辻占 ( つじうら ) がよくって、猟のお客様はお喜びでございましょう。」
「お喜びかね。ふう成程――ああ大した勢いだね。おお、この 静寂 ( しずか ) な霜の湖を船で乱して、 谺 ( こだま ) が 白山 ( はくさん ) へドーンと響くと、寝ぬくまった目を覚して、蘆の間から美しい紅玉の陽の影を、黒水晶のような羽に 鏤 ( ちりば ) めようとする鷭が、一羽ばたりと落ちるんだ。血が、ぽたぽたと流れよう。犬の口へぐたりとはまって、水しぶきの中を、船へ倒れると、ニタニタと笑う貸座敷の亭主の袋へ納まるんだな。」
お澄は白い指を 扱 ( しご ) きつつ、うっかり聞いて顔を見た。
「――お澄さん、私は折入って 姐 ( ねえ ) さんにお願いが一つある。」
客は膝をきめて居直ったのである。
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