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  かれ 稲田 いなだ 雪次郎と言う――宿帳の上を あらた めて名を言った。画家である。いくたびも 生死 しょうし の境にさまよいながら、今年初めて……東京上野の展覧会――「姐さんは知っているか。」「ええこの辺でも評判でございます。」――その上野の美術展覧会に入選した。

 構図というのが、湖畔の霜の鷭なのである。――

「鷭は一生を通じての私のために恩人なんです。 生命 いのち の親とも思う恩人です。その大恩のある鷭の一類が、夫も妻も娘も せがれ も、貸座敷の亭主と幇間の鉄砲を くら って、 一時 いっとき に、 一百 いっそく 二三十ずつ、袋へ七つも詰込まれるんでは 遣切 やりき れない。―― 深更 よふけ に無理を言ってお酌をしてもらうのさえ、間違っている処へ、こんな馬鹿な、無法な、没常識な、お願いと言っちゃあないけれど、頼むから、後生だから、お澄さん、姐さんの力で、私が居る……この朝だけ、その鷭 うち めさしてはもらえないだろうか。……男だてなら、あの木曾川の、で、 めて見ると言ったって、水の ながれ は留められるものではない。が、女の力だ。あなたの なさけ だ。――この潟の水が一時凍らないとも、火にならないとも限らない。そこが御婦人の力です。勿論まるきり、その人たちに めさせる事の出来ない事は、解って、あきらめなければならないまでも、 手筈 てはず を違えるなり、故障を入れるなり、せめて時間でも遅れさして、鷭が明らかに夢からさめて、水鳥相当に、自衛の守備の整うようにして、一羽でも、獲ものの方が少く、鳥の助かる方が余計にしてもらいたい。――実は小松からここに流れる 桟川 かけはしがわ で以前――雪間の白鷺を、船で射た友だちがあって、……いままですらりと立って遊んでいたのが、 弾丸 たま ひびき と一所に姿が横に消えると、 さっ と血が流れたという……話を聞いた事があって、それ一羽、私には他人の鷺でさえ、お澄さんのような女が殺されでもしたように、 悚然 ぞっ として震え上った。――しかるに鷭は恩人です。――姐さん、これはお酌を 強請 ねだ ったような 料簡 りょうけん ではありません。真人間が、 真面目 まじめ に、師の前、両親の前、神仏の前で頼むのとおなじ心で云うんです。――私は 孤児 みなしご だが、かつて志を得たら、東京へ迎えます。と言ううちに、両親はなくなりました。その親たちの 位牌 いはい を、……上野の展覧会の今最中、故郷の寺の位牌堂から移して来たのが、あの、 おおき 革鞄 かばん の中に据えてあります。その前で、謹んで言うのです。――お位牌も、この姐さんに、どうぞお力をお添え下さい。」

 と言った。 おもて 白蝋 はくろう のように色澄んで、伏目で聞入ったお澄の、長い 睫毛 まつげ のまたたくとともに、 とこ に置いた大革鞄が、揺れて熊の動くように見えたのである。

「あら! 私……」

 この、もの しずか なお澄が、 あわただ しく言葉を投げて立った、と思うと、どかどかどかと 階子段 はしごだん を踏立てて、かかる夜陰を はばか らぬ、音が 静寂間 しじま 湧上 わきあが った。

「奥方は寝床で、お待ちで。それで、お出迎えがないといった寸法でげしょう。」

 と下から上へ投掛けに肩へ浴びせたのは、旦那に続いた くだん の幇間と うなず かれる。白い 呼吸 いき もほッほッと手に取るばかり、寒い声だが、生ぬるいことを言う。

「や、お澄――ここか、座敷は。」

  ドア を開けた 出会頭 であいがしら に、爺やが そば に、供が続いて 突立 つった った 忘八 くつわ の紳士が、我がために髪を結って化粧したお澄の姿に、満悦らしい鼻声を出した。が、 気疾 きばや くび からさきへ 突込 つっこ む目に、何と、 ねや の枕に小ざかもり、 媚薬 びやく 髣髴 ほうふつ とさせた道具が並んで、 生白 なまじろ けた雪次郎が、しまの 広袖 どてら で、 微酔 ほろよい で、夜具に もた れていたろうではないか。

  しょう の肌身はそこで藻抜けて、ここに 空蝉 うつせみ の立つようなお澄は、 呼吸 いき も黒くなる、相撲取ほど肥った紳士の、 臘虎襟 らっこえり 大外套 おおがいとう の厚い煙に包まれた。

「いつもの上段の でございますことよ。」

 と、さすが客商売の、透かさず機嫌を取って、 ドア 隣へ導くと、紳士の 開閉 あけたて の乱暴さは、ドドンドシン、続けさまに扉が鳴った。