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貴方 あなた 、ちょっと……お話がございます。」

 ――弁当は帳場に出来ているそうだが、船頭の来ようが、また遅かった。――

「へい、旦那御機嫌よう。」と三人ばかり座敷へ出ると、……「遅いじゃねえか。」とその御機嫌が大不機嫌。「 先刻 さっき お勝手へ参りましただが、お澄さんが、まだ旦那方、御飯中で、失礼だと言わっしゃるものだで。」――「 つぞ。出ろ。ここから一発はなしたろか。」と銃猟家が、怒りだちに立った時は、もう横雲がたなびいて、湖の おもて がほんのりと青ずんだ。月は水線に玉を沈めて、雪の晴れた白山に、薄紫の霧がかかったのである。

 早いもので、湖に、小さい黒い点が二つばかり、霧を いて動いた。船である。

  睡眠 ねむり は覚めたろう。翼を鳴らせ、朝霜に、光あれ、力あれ、 寿 いのちなが かれ、鷭よ。

 雪次郎は、しかし、青い顔して、露台に湖に面して、肩をしめて立っていた。

 お澄が入って来た――が、すぐに顔が見られなかった。首筋の骨が こわ ばったのである。

「貴方、ちょっと……お話がございます。」

 お澄が しずか にそう言うと、からからと つり を手繰って、露台の 硝子戸 がらすど に、青い幕を深く おお うた。

  ねや の障子はまだ暗い。

「何とも申しようがない。」

 雪は

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どう となって手を いた。

「私は 懺悔 ざんげ をする、皆嘘だ。―― 画工 えかき は画工で、上野の美術展覧会に出しは出したが、まったくの処は落第したんだ。 自棄 やけ まぎれに飛出したんで、両親には勘当はされても、 位牌 いはい に面目のあるような男じゃない。――その 大革鞄 おおかばん かり ものです。

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樊※ はんかい の盾だと言って、貸した友だちは笑ったが、しかし、破りも裂きも出来ないので、そのなかにたたき込んである、鷭を いたのは事実です。 女郎屋 じょろや の亭主が名古屋くんだりから、電報で、片山津の戸を真夜中にあけさせた上に、お澄さんほどの女に、髪を わせ、化粧をさせて、給仕につかせて、供をつれて船を がせて、湖の鷭を 狙撃 ねらいうち に撃って廻る。犬が三頭――三疋とも言わないで、姐さんが 奴等 やつら の口うつしに言うらしい、その三頭も しゃく に障った。なにしろ、私の 突刎 つっぱ ねられたように 口惜 くやし かった。 嫉妬 ねたみ だ、そねみだ、自棄なんです。――私は鷭になったんだ。――鷭が命乞いに来た、と思って こら えてくれ、お澄さん、堪忍してくれたまえ。いまは、勘定があるばかりだ、ここの勘定に心配はないが、そのほかは何にもない。――無論、私が志を得たら……」

「貴方。」

 とお澄がきっぱり言った。

「身を切られるより、貴方の前で、お恥かしい事ですが、親兄弟を養いますために、私はとうから、あの旦那のお世話になっておりますんです。それも棄て、身も棄てて、死ぬほどの思いをして、あなたのお言葉を貫きました。……あなたはここをお立ちになると、もうその時から、私なぞは、山の鳥です、野の あざみ です。 路傍 みちばた ちり なんです。見返りもなさいますまい。――いいえ、いいえ……それを承知で、……覚悟の上でしました事です。私は女が一生に一度と思う事をしました。貴方、私に御褒美を下さいまし。」

「その、その、その事だよ……実は。」

「いいえ、ほかのものは要りません。ただ 一品 ひとしな 。」

「ただ一品。」

「貴方の小指を切って下さい。」

「…………」

「澄に、小指を下さいまし。」

 少からず不良性を帯びたらしいまでの若者が、わなわなと震えながら、

「親が、 両親 ふたおや があるんだよ。」

「私にもございますわ。」

 と りん と言った。

  こぶし を握って、 きっ と見て、

「お澄さん、 剃刀 かみそり を持っているか。」

「はい。」

「いや、―― 食切 くいき ってくれ、その 皓歯 しらは で。……潔くあなたに上げます。」

 やがて、唇にふくまれた時は、かえって 稚児 おさなご が乳を吸うような思いがしたが、あとの 疼痛 いたみ は鋭かった。

  かれ は大夜具を頭から 引被 ひっかぶ った。

「看病をいたしますよ。」

 お澄は、胸白く、下じめの ほか に血が にじ む。…… 繻子 しゅす の帯がするすると鳴った。

大正十二(一九二三)年一月