University of Virginia Library

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旦那 だんな は――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし 御口中 ごこうちゅう ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」

  階子段 はしごだん 足踏 あしぶみ して、

「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、 深夜 よなか の鷭だよ、トンと つけてトントントンとサ、おっとそいつは 水鶏 くいな だ、水鶏だ、トントントトン。」と下りて く。

 あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど 寂寞 ひっそり した。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。

「黙れ!」

 と はり から天井へ、つつぬけにドス声で、

「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は 木片 こっぱ でもない。――俺が 汝等 うぬら の手で つら 溝泥 どぶどろ を塗られたのは夢じゃないぞ。この かッ と開けた大きな目を見ろい。――よくも うぬ 、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は ぶち ぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」

「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は 鸚鵡 おうむ がえしで、夜具に もた れて、両の肩を そび やかした。そして身構えた。

 が、そのまま何もなくバッタリ んだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を 鞭打 むちう つ音が響く。チンチンチンチンと、 かすか に鉄瓶の湯が たぎ るような音が まじ る。が、それでないと、湯気のけはいも、 血汐 ちしお が噴くようで、 すさま じい。

 雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五 たび 廻った。―― と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの 硝子 がらす めた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚 のぞ かれた――と思う。……そのまま忍寄って、 そっ とその幕を ひき なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め こみ になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、 露呈 あらわ に白く 捻上 ねじあ げられて、半身の 光沢 つや のある真綿をただ、ふっくりと かかと まで畳に裂いて、 二条 ふたすじ 引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の 結目 むすびめ を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと 乗掛 のりかか って、 忘八 くつわ の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の 火箸 ひばし で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの 拷掠 ごうりゃく に、ひッつる肌に青い筋の うね るのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、 呼吸 いき さえせぬのである。

「ええ! ずぶてえ 阿魔 あま だ。」

 と、その 鉄火箸 かなひばし を、今は突刺しそうに逆に取った。

 この時、階段の下から 跫音 あしおと が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。

 さまでの苦痛を こら えたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が やすり のようについた。横顔で つっ ぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、 びん のおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の 一条 ひとすじ を、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……

 かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。―― 幇間 ほうかん が帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。

 銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。

  ドア から雪次郎が そっ と覗くと、中段の処で、 ひじ を硬直に、帯の下の腰を おさ えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、 気勢 けはい がしたか、ふいに 真青 まっさお な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。

 隣室には、しばらく いやし げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。

「何をしてうせおる。――遅いなあ。」

 二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。

「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」

「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」

 と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、

「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」

首途 かどで に、くそ 忌々 いまいま しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」