鷭狩
泉鏡花 (Bangari) | ||
五
「 旦那 ( だんな ) は――ははあ、奥方様と成程。……それから御入浴という、まずもっての御寸法。――そこでげす。……いえ、馬鹿でもそのくらいな事は心得ておりますんで。……しかし 御口中 ( ごこうちゅう ) ぐらいになさいませんと、これから飛道具を扱います。いえ、第一遠く離れていらっしゃるで、奥方の方で御承知をなさいますまい。はははは、御遠慮なくお先へ。……しかしてその上にゆっくりと。」
階子段 ( はしごだん ) に 足踏 ( あしぶみ ) して、
「鷭だよ、鷭だよ、お次の鷭だよ、晩の鷭だよ、月の鷭だよ、 深夜 ( よなか ) の鷭だよ、トンと 打 ( ぶ ) つけてトントントンとサ、おっとそいつは 水鶏 ( くいな ) だ、水鶏だ、トントントトン。」と下りて 行 ( ゆ ) く。
あとは、しばらく、隣座敷に、火鉢があるまいと思うほど 寂寞 ( ひっそり ) した。が、お澄のしめやかな声が、何となく雪次郎の胸に響いた。
「黙れ!」
と 梁 ( はり ) から天井へ、つつぬけにドス声で、
「分った! そうか。三晩つづけて、俺が鷭撃に行って怪我をした夢を見たか。そうか、分った。夢がどうした、そんな事は 木片 ( こっぱ ) でもない。――俺が 汝等 ( うぬら ) の手で 面 ( つら ) へ 溝泥 ( どぶどろ ) を塗られたのは夢じゃないぞ。この 赫 ( かッ ) と開けた大きな目を見ろい。――よくも 汝 ( うぬ ) 、溝泥を塗りおったな。――聞えるか、聞えるか。となりの野郎には聞えまいが、このくらいな大声だ。われが耳は 打 ( ぶち ) ぬいたろう。どてッ腹へ響いたろう。」
「響いたがどうしたい。」と、雪次郎は 鸚鵡 ( おうむ ) がえしで、夜具に 凭 ( もた ) れて、両の肩を 聳 ( そび ) やかした。そして身構えた。
が、そのまま何もなくバッタリ 留 ( や ) んだ。――聞け、時に、ピシリ、ピシリ、ピシャリと肉を 鞭打 ( むちう ) つ音が響く。チンチンチンチンと、 微 ( かすか ) に鉄瓶の湯が 沸 ( たぎ ) るような音が 交 ( まじ ) る。が、それでないと、湯気のけはいも、 血汐 ( ちしお ) が噴くようで、 凄 ( すさま ) じい。
雪次郎はハッと立って、座敷の中を四五 度 ( たび ) 廻った。―― 衝 ( つ ) と露台へ出る、この片隅に二枚つづきの 硝子 ( がらす ) を 嵌 ( は ) めた板戸があって、青い幕が垂れている。晩方の心覚えには、すぐその向うが、おなじ、ここよりは広い露台で、座敷の障子が二三枚 覗 ( のぞ ) かれた――と思う。……そのまま忍寄って、 密 ( そっ ) とその幕を 引 ( ひき ) なぐりに絞ると、隣室の障子には硝子が嵌め 込 ( こみ ) になっていたので、一面に映るように透いて見えた。ああ、顔は見えないが、お澄の色は、あの、姿見に映った時とおなじであろう。真うつむけに背ののめった手が腕のつけもとまで、 露呈 ( あらわ ) に白く 捻上 ( ねじあ ) げられて、半身の 光沢 ( つや ) のある真綿をただ、ふっくりと 踵 ( かかと ) まで畳に裂いて、 二条 ( ふたすじ ) 引伸ばしたようにされている。――ずり落ちた帯の 結目 ( むすびめ ) を、みしと踏んで、片膝を胴腹へむずと 乗掛 ( のりかか ) って、 忘八 ( くつわ ) の紳士が、外套も脱がず、革帯を陰気に重く光らしたのが、鉄の 火箸 ( ひばし ) で、ため打ちにピシャリ打ちピシリと当てる。八寸釘を、横に打つようなこの 拷掠 ( ごうりゃく ) に、ひッつる肌に青い筋の 蜿 ( うね ) るのさえ、紫色にのたうちつつも、お澄は声も立てず、 呼吸 ( いき ) さえせぬのである。
「ええ! ずぶてえ 阿魔 ( あま ) だ。」
と、その 鉄火箸 ( かなひばし ) を、今は突刺しそうに逆に取った。
この時、階段の下から 跫音 ( あしおと ) が来なかったら、雪次郎は、硝子を破って、血だらけになって飛込んだろう。
さまでの苦痛を 堪 ( こら ) えたな。――あとでお澄の片頬に、畳の目が 鑢 ( やすり ) のようについた。横顔で 突 ( つっ ) ぷして歯をくいしばったのである。そして、そのくい込んだ畳の目に、あぶら汗にへばりついて、 鬢 ( びん ) のおくれ毛が彫込んだようになっていた。その髪の 一条 ( ひとすじ ) を、雪次郎が引いてとった時、「あ痛、」と声を上げたくらいであるから。……
かくまでの苦痛を知らぬ顔で堪えた。―― 幇間 ( ほうかん ) が帰ってからは、いまの拷掠については、何の気色もしなかったのである。
銃猟家のいいつけでお澄は茶漬の膳を調えに立った。
扉 ( ドア ) から雪次郎が 密 ( そっ ) と覗くと、中段の処で、 肱 ( ひじ ) を硬直に、帯の下の腰を 圧 ( おさ ) えて、片手をぐったりと壁に立って、倒れそうにうつむいた姿を見た。が、 気勢 ( けはい ) がしたか、ふいに 真青 ( まっさお ) な顔して見ると、寂しい微笑を投げて、すっと下りたのである。
隣室には、しばらく 賤 ( いやし ) げに、浅ましい、売女商売の話が続いた。
「何をしてうせおる。――遅いなあ。」
二度まで爺やが出て来て、催促をされたあとで、お澄が膳を運んだらしい。
「何にもございません。――料理番がちょと休みましたものですから。」
「奈良漬、結構。……お弁当もこれが関でげすぜ、旦那。」
と、幇間が茶づけをすする音、さらさらさら。スウーと歯ぜせりをしながら、
「天気は極上、大猟でげすぜ、旦那。」
「 首途 ( かどで ) に、くそ 忌々 ( いまいま ) しい事があるんだ。どうだかなあ。さらけ 留 ( や ) めて、一番新地で飲んだろうかと思うんだ。」
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