University of Virginia Library

       八

 君、君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるという事から許してくれるだろうか。私の想像はあとからあとからと引き続いてわいて来る。それがあたっていようがあたっていまいが、君は私がこうして筆取るそのもくろみに悪意のない事だけは信じてくれるだろう。そして無邪気な微笑をもって、私の唯一の生命である空想が勝手次第に育って行くのを見守っていてくれるだろう。私はそれをたよってさらに書き続けて行く。

  ( にしん ) の漁期――それは北方に住む人の胸にのみしみじみ[#「しみじみ」に傍点]と感ぜられるなつかしい季節の一つだ。この季節になると長く地の上を領していた冬が老いる。――北風も、雪も、囲炉裏も、綿入れも、 雪鞋 ( つまご ) も、等しく老いる。一片の雲のたたずまいにも、自然のもくろみと予言とを人一倍鋭敏に見て取る漁夫たちの目には、朝夕の空の模様が春めいて来た事をまざまざと思わせる。北西の風が東に回るにつれて、単色に堅く凍りついていた雲が、蒸されるようにもやもやとくずれ出して、淡いながら暖かい色の晴れ雲に変わって行く。朝から風もなく晴れ渡った午後なぞに波打ちぎわに出て見ると、やや緑色を帯びた青空のはるか遠くの地平線高く、 幔幕 ( まんまく ) を真一文字に張ったような雪雲の 堆積 ( たいせき ) に日がさして、まんべんなくばら色に輝いている。なんという美妙な美しい色だ。冬はあすこまで遠のいて行ったのだ。そう思うと、不幸を突き抜けて幸福に出あった人のみが感ずる、あの過去に対する寛大な思い出が、ゆるやかに浜に立つ人の胸に流れこむ。五か月の長い厳冬を牛のように忍耐強く辛抱しぬいた北人の心に、もう少しでひねくれた根性にさえなり兼ねた北人の心に、春の約束がほのぼのと恵み深く響き始める。

 朝晩の ( ) み方はたいして冬と変わりはない。ぬれた金物がべたべたと ( のり ) のように指先に粘りつく事は珍しくない。けれども日が高くなると、さすがにどこか寒さにひび[#「ひび」に傍点]がいる。浜べは急に景気づいて、納屋の中からは 大釜 ( おおがま ) 締框 ( しめわく ) がかつぎ出され、ホック船やワク船をつと[#「つと」に傍点]のようにおおうていた ( むしろ ) が取りのけられ、 旅烏 ( たびがらす ) といっしょに集まって来た漁夫たちが、 ( あや ) を織るように雪の解けた砂浜を行き違って目まぐるしい活気を見せ始める。

  ( たら ) の漁獲がひとまず終わって、 ( にしん ) 先駆 ( はしり ) もまだ 群来 ( くけ ) て来ない。海に出て働く人たちはこの間に少しの ( ) 息をつく暇を見いだすのだ。冬の間から一心にねらっていたこの暇に、君はある日朝からふいと家を出る。もちろんふところの中には手慣れたスケッチ帳と一本の鉛筆とを潜まして。

 家を出ると往来には漁夫たちや、女でめん[#「でめん」に傍点](女労働者)や、海産物の仲買いといったような人々がにぎやかに浮き浮きして行ったり来たりしている。根雪が氷のように ( いわ ) になって、その上を雪解けの水が、一冬の 塵埃 ( じんあい ) に染まって、 泥炭地 ( でいたんち ) のわき水のような色でどぶどぶと漂っている。 馬橇 ( ばそり ) に材木のように大きな生々しい ( まき ) をしこたま[#「しこたま」に傍点]積み載せて、その悪路を引っぱって来た一人の年配な 内儀 ( かみ ) さんは、君を認めると、引き綱をゆるめて腰を延ばしながら、戯れた調子で大きな声をかける。

 「はれ ( あん ) さんもう浜さいくだね」

 「うんにゃ」

 「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にする ( ふと ) が暇さえあれば山さ突っぱしるだから 怪体 ( けたい ) だあてばさ。いい人でもいるだんべさ。は、は、は、‥‥。うんすら ( ) いてこすに、一押し手を貸すもんだよ」

 「口はばったい事べ言うと 鰊様 ( にしんさま ) 群来 ( くけ ) てはくんねえぞ。おかしな 婆様 ( ばさま ) よなあお前も」

 「婆様だ!?[#「!?」は第3水準1-8-78]  人聞 ( ふとぎ ) きの悪い事べ言わねえもんだ。 人様 ( ふとさま ) が笑うでねえか」

 実際この内儀さんの ( はしゃ ) いだ 雑言 ( ぞうごん ) には往来の人たちがおもしろがって笑っている。君は当惑して、 ( そり ) の後ろに回って三四間ぐんぐん押してやらなければならなかった。

 「そだ。そだ。 ( あん ) さんいい力だ。浜まで押してくれたらおらお前に ( ) れこすに」

 君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にどっ[#「どっ」に傍点]と笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまただれかに話しかける大声がのびやかに聞こえて来る。

 「春が来るのだ」

 君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。

 やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅうあき屋になっていた西洋風の二階建ての雨戸が繰りあけられて、 札幌 ( さっぽろ ) のある大きなデパートメント・ストアの臨時出店が開かれようとしている。 藁屑 ( わらくず ) や新聞紙のはみ出た大きな木箱が幾個か店先にほうり出されて、広告のけばけばしい色旗が、活動小屋の前のように立てならべてある。そして気のきいた手代が十人近くも ( いそが ) しそうに働いている。君はこの大きな臨時の店が、岩内じゅうの小売り商人にどれほどの打撃であるかを考えながら、自分たちの漁獲が、資本のないために、ほかの土地から投資された海産物製造会社によって捨て値で買い取られる無念さをも思わないではいられなかった。「大きな手にはつかまれる」‥‥そう思いながら君はその店の ( かど ) を曲がって割合にさびれた横町にそれた。

 その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それにつづいて小さな調剤所がしつらえてあった。君はそこのガラス窓から中をのぞいて見る。ずらっとならべた薬種びんの下の調剤卓の前に、もたれのない ( ) ( ) きの 事務椅子 ( じむいす ) に腰かけて、黒い事務マントを羽織った 悒鬱 ( ゆううつ ) そうな小柄な若い男が、一心に小形の書物に読みふけっている。それはKと言って、君が岩内の町に持っているただ一人の心の友だ。君はくすんだガラス板に指先を持って行ってほとほととたたく。Kは機敏に書物から目をあげてこちらを振りかえる。そして驚いたように座を立って来てガラス障子をあける。

 「どこに」

 君は黙ったまま懐中からスケッチ帳を取り出して見せる。そして二人は互いに理解するようにほほえみかわす。

 「君はきょうは出られまい」

 君は東京の遊学時代を記念するために、だいじにとっておいた書生の言葉を使えるのが、この友だちに会う時の一つの楽しみだった。

 「だめだ。このごろは漁夫で岩内の人数が急にふえたせいか ( せわ ) しい。しかし今はまだ寒いだろう。手が自由に動くまい」

 「なに、絵はかけずとも山を見ていればそれでいいだ。久しく出て見ないから」

 「僕は今これを読んでいたが(と言ってKはミケランジェロの書簡集を君の目の前にさし出して見せた)すばらしいもんだ。こうしていてはいけないような気がするよ。だけどもとても及びもつかない。いいかげんな芸術家というものになって納まっているより、この薄暗い薬局で、黙りこくって一生を送るほうがやはり僕には似合わしいようだ」

 そう言って君の友は、 悒鬱 ( ゆううつ ) な小柄な顔をひときわ悒鬱にした。君は励ます言葉も慰める言葉も知らなかった。そして心とがめするもののようにスケッチ帳をふところに納めてしまった。

 「じゃ行って来るよ」

 「そうかい。そんなら帰りには寄って話して行きたまえ」

 この言葉を取りかわして、君はその薄よごれたガラス窓から離れる。

 南へ南へと道を取って行くと、節婦橋という小さな木橋があって、そこから先にはもう家並みは続いていない。 溝泥 ( どぶどろ ) をこね返したような雪道はだんだんきれいになって行って、地面に近い所が水になってしまった積雪の中に、君の古い 兵隊長靴 ( へいたいながぐつ ) はややともするとすぽりすぽり[#「すぽりすぽり」に傍点]と踏み込んだ。

 雪におおわれた野は雷電峠のふもとのほうへ 爪先上 ( つまさきあ ) がりに広がって、おりから晴れ気味になった雲間を漏れる日の光が、地面の陰ひなたを銀と ( あい ) とでくっきり[#「くっきり」に傍点]といろどっている。寒い空気の中に、雪の照り返しがかっかっ[#「かっかっ」に傍点]と顔をほてらせるほど強くさして来る。君の顔は見る見る雪焼けがしてまっかに汗ばんで来た。今までがんじょうにかぶっていた 頭巾 ( ずきん ) をはねのけると、眼界は急にはるばると広がって見える。

 なんという広大なおごそかな景色だ。 胆振 ( いぶり ) の分水嶺から分かれて西南をさす一連の山波が、地平から力強く伸び上がってだんだん高くなりながら、岩内の南方へ走って来ると、そこに図らずも陸の果てがあったので、突然水ぎわに走りよった奔馬が、そろえた 前脚 ( まえあし ) を踏み立てて、思わず 平頸 ( ひらくび ) を高くそびやかしたように、山は急にそそり立って、沸騰せんばかりに天を摩している。今にもすさまじい響きを立ててくずれ落ちそうに見えながら、何百万年か何千万年か、昔のままの姿でそそり立っている。そして今はただ一色の白さに雪でおおわれている。そして雲が空を動くたびごとに、山は居住まいを直したかのように姿を変える。君は久しぶりで近々とその山をながめるともう有頂天になった。そして余の事はきれいに忘れてしまう。

 君はただいちずにがむしゃら[#「がむしゃら」に傍点]に本道から道のない積雪の中に足を踏み入れる。行く手に黒ずんで見える ( にれ ) の切り株の所まで腰から下まで雪にまみれてたどり着くと、君はそれに 兵隊長靴 ( へいたいながぐつ ) を打ちつけて足の雪を払い落としながらたたずむ。そして目を ( ) えてもう一度雪野の果てにそびえ立つ雷電峠を物珍しくながめて魅入られたように 茫然 ( ぼうぜん ) となってしまう。幾度見てもあきる事のない山のたたずまいが、この前見た時と相違のあるはずはないのに、全くちがった表情をもって君の目に映って来る。この前見に来た時は、それは厳冬の一日のことだった。やはりきょうと同じ所に立って、凍える手に鉛筆を運ぶ事もできず、黙ったまま立って見ていたのだったが、その時の山は地面から静々と盛り上がって、雪雲に閉ざされた空を ( ) かとつかんでいるように見えた。その感じは恐ろしく執念深く力強いものだった。君はその前に立って押しひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]られるような威圧を感じた。きょう見る山はもっと素直な大きさと豊かさとをもって静かに君をかきいだくように見えた。ふだん自分の心持ちがだれからも理解されないで、一種の変屈人のように人々から取り扱われていた君には、この自然が君に対して求めて来る親しみはしみじみ[#「しみじみ」に傍点]としたものだった。君はまたさらに目をあげて、なつかしい友に向かうようにしみじみと山の姿をながめやった。

 ちょうど親しい心と心とが出あった時に、互いに感ぜられるような ( あたた ) かい涙ぐましさが、君の雄々しい胸の中にわき上がって来た。自然は生きている。そして人間以上に強く高い感情を持っている。君には同じ人間の語る言葉だが英語はわからない。自然の語る言葉は英語よりもはるかに君にはわかりいい。ある時には君が使っている日本語そのものよりももっと感情の表現の豊かな平明な言葉で自然が君に話しかける。君はこの涙ぐましい心持ちを描いてみようとした。

 そして懐中からいつものスケッチ帳を取り出して切り株の上に置いた。開かれた手帖と山とをかたみがわり[#「かたみがわり」に傍点]に見やりながら、君は丹念に鉛筆を削り上げた。そして粗末な画学紙の上には、たくましく荒くれた君の手に似合わない繊細な線が描かれ始めた。

 ちょうど人の肖像をかこうとする画家が、その人の耳目鼻口をそれぞれ綿密に観察するように、君は山の一つの ( しわ ) 一つの ( ひだ ) にも君だけが理解すると思える意味を見いだそうと努めた。実際君の目には山のすべての面は、そのまますべての表情だった。日光と雲との 明暗 ( キャロスキュロ ) にいろどられた雪の重なりには、熱愛をもって見きわめようと努める人々にのみ説き明かされる ( たっと ) いなぞが潜めてあった。君は一つのなぞを解き得たと思うごとに、小おどりしたいほどの喜びを感じた。君の周囲には今はもう生活の苦情もなかった。世間に対する不安も不幸もなかった。自分自身に対するおくれがちな疑いもなかった。子供のような快活な無邪気な一本気な心‥‥君のくちびるからは知らず知らず軽い口笛が漏れて、君の手はおどるように調子を取って、紙の上を走ったり、山の大きさや角度を計ったりした。

 そうして幾時間が過ぎたろう。君の前には「時」というものさえなかった。やがて一つのスケッチができあがって、軽い満足のため息とともに、働かし続けていた手をとめて、片手にスケッチ帳を取り上げて目の前に ( ) えた時、君は軽い疲労――軽いと言っても、君が船の中で働く時の半日分の労働の結果よりは軽くない――を感じながら、きょうが仕事のよい収穫であれかしと祈った。画学紙の上には、吹き変わる風のために乱れがちな雲の間に、その頂を見せたり隠したりしながら、まっ白にそそり立つ峠の姿と、その手前の広い雪の野のここかしこにむら立つ針葉樹の木立ちや、薄く炊煙を地になびかしてところどころに立つ ( みじ ) めな農家、これらの間を鋭い刃物で断ち割ったような深い 峡間 ( はざま ) 、それらが特種な深い感じをもって特種な筆触で描かれている。君はややしばらくそれを見やってほほえましく思う。久しぶりで自分の隠れた力が、哀れな道具立てによってではあるが、とにかく形を取って生まれ出たと思うとうれしいのだ。

 しかしながら 狐疑 ( こぎ ) は待ちかまえていたように、君が満足の心を充分味わう暇もなく、足もとから押し寄せて来て君を不安にする。君は自分にへつらうものに対して警戒の眼を向ける人のように、自分の満足の心持ちをきびしく調べてかかろうとする。そして今かき上げた絵を容赦なく山の姿とくらべ始める。

 自分が満足だと思ったところはどこにあるのだろう。それはいわば自然の影絵に過ぎないではないか。向こうに見える山はそのまま寛大と希望とを象徴するような一つの生きた 塊的 ( マッス ) であるのに、君のスケッチ帳に縮め込まれた同じものの姿は、なんの表情も持たない線と面との集まりとより君の目には見えない。

 この悲しい事実を発見すると君は躍起となって次のページをまくる。そして自分の心持ちをひときわ 謙遜 ( けんそん ) な、そして執着の強いものにし、粘り強い根気でどうかして山をそのまま君の 画帖 ( がじょう ) の中に生かし込もうとする、新たな努力が始まると、君はまたすべての事を忘れ果てて一心不乱に仕事の中に魂を打ち込んで行く。そして君が昼弁当を食う事も忘れて、四枚も五枚ものスケッチを作った時には、もうだいぶ日は傾いている。

 しかしとてもそこを立ち去る事はできないほど、自然は絶えず美しくよみがえって行く。朝の山には朝の命が、昼の山には昼の命があった。夕方の山にはまたしめやかな夕方の山の命がある。山の姿は、その線と 陰日向 ( かげひなた ) とばかりでなく、色彩にかけても、日が西に回るとすばらしい魔術のような不思議を現わした。峠のある部分は鋼鉄のように寒くかたく、また他の部分は気化した色素のように透明で消えうせそうだ。夕方に近づくにつれて、やや煙り始めた空気の中に、声も立てずに粛然とそびえているその姿には、くんでもくんでも尽きない平明な神秘が宿っている。見ると山の八合目と覚しい空高く、小さな黒い点が静かに動いて輪を描いている。それは一羽の 大鷲 ( おおわし ) に違いない。目を定めてよく見ると、長く伸ばした両の翼を 微塵 ( みじん ) も動かさずに、からだ全体をやや斜めにして、大きな水の ( うず ) に乗った枯れ葉のように、その鷲は静かに伸びやかに輪を造っている。山が物言わんばかりに生きてると見える君の目には、この生物はかえって死物のように思いなされる。ましてや平原のところどころに散在する百姓家などは、山が人に与える生命の感じにくらべれば、 ( みじ ) めな幾個かの無機物に過ぎない。

 昼は真冬からは著しく延びてはいるけれども、もう夕暮れの色はどんどん催して来た。それとともに 肌身 ( はだみ ) に寒さも加わって来た。落日にいろどられて光を呼吸するように見えた雲も、煙のような白と 淡藍 ( うすあい ) との陰日向を見せて、雲とともに大空の半分を領していた山も、見る見る寒い色に堅くあせて行った。そして ( もや ) とも言うべき薄い ( まく ) が君と自然との間を隔てはじめた。

 君は思わずため息をついた。言い解きがたい暗愁――それは若い人が恋人を思う時に、その恋が幸福であるにもかかわらず、胸の奥に感ぜられるような――が不思議に君を涙ぐましくした。君は鼻をすすりながら、ばたん[#「ばたん」に傍点]と音を立ててスケッチ帳を閉じて、鉛筆といっしょにそれをふところに納めた。 ( ) てた手はふところの中の ( ぬく ) みをなつかしく感じた。弁当は食う気がしないで、切り株の上からそのまま取って腰にぶらさげた。半日立ち尽くした足は、動かそうとすると電気をかけられたようにしびれていた。ようようの事で君は雪の中から 爪先 ( つまさき ) をぬいて一歩一歩本道のほうへ帰って行った。はるか向こうを見ると山から木材や 薪炭 ( しんたん ) を積みおろして来た 馬橇 ( ばそり ) がちらほらと動いていて、馬の首につけられた鈴の音がさえた響きをたててかすかに聞こえて来る。それは漂浪の人がはるかに故郷の空を望んだ時のようななつかしい感じを与える。その消え入るような、さびしい、さえた音がことになつかしい。不思議な誘惑の世界から突然現世に帰った人のように、君の心はまだ夢ごこちで、芸術の世界と現実の世界との淡々しい境界線をたどっているのだ。そして君は歩きつづける。

 いつのまにか君は町に帰って例の調剤所の小さな 部屋 ( へや ) で、友だちのKと向き合っている。Kは君のスケッチ帳を興奮した目つきでかしこここ見返している。

 「寒かったろう」

とKが言う。君はまだほんとうに自分に帰り切らないような顔つきで、

 「うむ。‥‥寒くはなかった。‥‥その線の鈍っているのは寒かったからではないんだ」

と答える。

 「鈍っていはしない。君がすっかり何もかも忘れてしまって、駆けまわるように鉛筆をつかった様子がよく見えるよ。きょうのはみんな非常に僕の気に入ったよ。君も少しは満足したろう」

 「実際の山の形にくらべて見たまえ。‥‥僕は 親父 ( おやじ ) にも兄貴にもすまない」

と君は急いで言いわけをする。

 「なんで?」

 Kはけげんそうにスケッチ帳から目を上げて君の顔をしげしげと見守る。

 君の心の中には ( にが ) 灰汁 ( あくじる ) のようなものがわき出て来るのだ。漁にこそ出ないが、ほんとうを言うと、漁夫の家には一日として安閑としていい日とてはないのだ。きょうも、君が一日を絵に暮らしていた間に、君の家では家じゅうで ( いそが ) しく働いていたのに違いないのだ。 建網 ( たてあみ ) に損じの有る無し、網をおろす場所の海底の模様、 大釜 ( おおがま ) ( ) えるべき位置、 桟橋 ( さんばし ) の改造、 薪炭 ( しんたん ) の買い入れ、米塩の運搬、仲買い人との契約、肥料会社との交渉‥‥そのほか 鰊漁 ( にしんりょう ) の始まる前に漁場の持ち主がしておかなければならない事は有り余るほどあるのだ。

 君は自分が絵に親しむ事を道楽だとは思っていない。いないどころか、君にとってはそれは、生活よりもさらに厳粛な仕事であるのだ。しかし自然と抱き合い、自然を絵の上に生かすという事は、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。ほかの人たちは――君の父上でも、 兄妹 ( きょうだい ) でも、隣近所の人でも――ただ不思議な子供じみた戯れとよりそれを見ていないのだ。君の考えどおりをその人たちの頭の中にたんのう[#「たんのう」に傍点]ができるように打ちこむというのは思いも及ばぬ事だ。

 君は理屈ではなんら恥ずべき事がないと思っている。しかし実際では決してそうは行かない。芸術の神聖を信じ、芸術が実生活の上に玉座を占むべきものであるのを疑わない君も、その事がらが君自身に関係して来ると、思わず知らず足もとがぐらついて来るのだ。

 「おれが芸術家でありうる自信さえできれば、おれは一刻の 躊躇 ( ちゅうちょ ) もなく実生活を踏みにじっても、親しいものを犠牲にしても、歩み出す方向に歩み出すのだが‥‥家の者どもの実生活の真剣さを見ると、おれは自分の天才をそうやすやすと信ずる事ができなくなってしまうんだ。おれのようなものをかいていながら彼らに芸術家顔をする事が恐ろしいばかりでなく、 僭越 ( せんえつ ) な事に考えられる。おれはこんな自分が恨めしい、そして恐ろしい。みんなはあれほど心から満足して今日今日を暮らしているのに、おれだけはまるで陰謀でもたくらんでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。どうすればこの苦しさこのさびしさから救われるのだろう」

 平常のこの考えがKと向かい合っても頭から離れないので、君は思わず「 親父 ( おやじ ) にも兄貴にもすまない」と言ってしまったのだ。

 「どうして?」と言ったKも、君もそのまま黙ってしまった。Kには、物を言われないでも、君の心はよくわかっていたし、君はまた君で、自分はきれいにあきらめながらどこまでも君を芸術の 捧誓者 ( ほうせいしゃ ) たらしめたいと熱望する、Kのさびしい、自己を滅した、 ( あたた ) かい心の働きをしっくりと感じていたからだ。

 君ら二人の目は 悒鬱 ( ゆううつ ) な熱に輝きながら、互いに ( ひとみ ) を合わすのをはばかるように、やや燃えかすれたストーブの火をながめ入る。

 そうやって黙っているうちに君はたまらないほどさびしくなって来る。自分を ( あわ ) れむともKを憐れむとも知れない哀情がこみ上げて、Kの手を取り上げてなでてみたい衝動を幾度も感じながら、 女々 ( めめ ) しさを退けるようにむずかゆい手を腕の所で堅く組む。

 ふとすすけた天井からたれ下がった電球が光を放った。驚いて窓から見るともう往来はまっ暗になっている。冬の日の ( うすず ) き隠れる早さを今さらに君はしみじみと思った。 掃除 ( そうじ ) の行き届かない電球はごみと手あかとでことさら暗かった。それが 部屋 ( へや ) の中をなお 悒鬱 ( ゆううつ ) にして見せる。

 「飯だぞ」

 Kの父の荒々しいかん走った声が店のほうからいかにもつっけんどんに聞こえて来る。ふだんから自分の一人むすこの悪友でもあるかのごとく思いなして、君が行くとかつてきげんのいい顔を見せた事のないその父らしい声だった。Kはちょっと反抗するような顔つきをしたが、陰性なその表情をますます陰性にしただけで、きぱきぱ[#「きぱきぱ」に傍点]と ( たて ) をつく様子もなく、父の心と君の心とをうかがうように声のするほうと君のほうとを等分に見る。

 君は長座をしたのがKの父の気にさわったのだと推すると座を立とうとした。しかしKはそういう心持ちに君をしたのを非常に物足らなく思ったらしく、君にもぜひ夕食をいっしょにしろと勧めてやまなかった。

 「じゃ僕は昼の弁当を食わずにここに持ってるからここで食おうよ。遠慮なく済まして来たまえ」

と君は言わなければならなかった。

 Kは夕食を君に勧めながら、ほんとうはそれを両親に打ち出して言う事を非常に苦にしていたらしく、さればとてまずい心持ちで君をかえすのも堪えられないと思いなやんでいたらしかったので、君の言葉を聞くと活路を見いだしたように少し顔を晴れ晴れさせて調剤室を立って行った。それも思えば一家の貧窮がKの心に ( ) ( わた ) ったしるし[#「しるし」に傍点]だった。君はひとりになると、だんだん暗い心になりまさるばかりだった。

 それでも夕飯という声を聞き、戸のすきから漏れる焼きざかなのにおいをかぐと、君は急に空腹を感じだした。そして腰に結び下げた弁当包みを解いてストーブに寄り添いながら、 椅子 ( いす ) に腰かけたままのひざの上でそれを開いた。

 北海道には竹がないので、竹の皮の代わりにへぎ[#「へぎ」に傍点]で包んだ大きな握り飯はすっかり[#「すっかり」に傍点] ( ) ててしまっている。 春立 ( はるだ ) った時節とは言いながら一日寒空に、切り株の上にさらされていたので、飯粒は一粒一粒ぼろぼろに固くなって、持った手の中からこぼれ落ちる。試みに口に持って行ってみると米の持つうまみはすっかり奪われていて、無味な繊維のかたまり[#「かたまり」に傍点]のような触覚だけが冷たく舌に伝わって来る。

 君の目からは突然、君自身にも思いもかけなかった熱い涙がほろほろとあふれ出た。じっ[#「じっ」に傍点]とすわったままではいられないような 寂寥 ( せきりょう ) の念がまっ暗に胸中に広がった。

 君はそっと座を立った。そして弁当を元どおりに包んで腰にさげ、スケッチ帳をふところにねじこむと、こそこそと入り口に行って 長靴 ( ながぐつ ) をはいた。靴の皮は夕方の寒さに ( こお ) って、鉄板のように堅く冷たかった。

 雪は ( りん ) のようなかすかな光を放って、まっ黒に暮れ果てた家々の屋根をおおうていた。さびしいこの横町は人の影も見せなかった。しばらく歩いて例のデパートメント・ストアの出店の ( かど ) 近くに来ると、一人の男の子がスケート 下駄 ( げた ) (下駄の底にスケートの歯をすげたもの)をはいて、でこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]に凍った道の上をがりがり[#「がりがり」に傍点]と音をさせながら走って来た。その子はスケートに夢中になって、君のそばをすりぬけても君には気がついていないらしい。

 「氷の上がすべれだした時はほんとに夢中になるものだ」

 君は自分の遠い過去をのぞき込むようにさびしい心の中にもこう思う。何事を見るにつけても君の心は痛んだ。

 デパートメント・ストアのある本通りに出ると打って変わってにぎやかだった。電灯も急に明るくなったように両側の家を照らして、そこには店の者と購買者との影が ( あや ) を織った。それは君にとっては、その場合の君にとっては、一つ一つ見知らぬものばかりのようだった。そこいらから起こる人声や 荷橇 ( にぞり ) の雑音などがぴんぴん[#「ぴんぴん」に傍点]と君の頭を針のように刺激する。見物の前に引き出された見世物小屋の野獣のようないらだたしさを感じて、君は 眉根 ( まゆね ) の所に電光のように起こる 痙攣 ( けいれん ) を小うるさく思いながら、むずかしい顔をしてさっさ[#「さっさ」に傍点]とにぎやかな往来を突きぬけて 漁師町 ( りょうしまち ) のほうへ急ぐ。

 しかし君の家が見えだすと君の足はひとりで[#「ひとりで」に傍点]にゆるみがちになって、君の頭は知らず知らず、なお低くうなだれてしまった。そして君は疑わしそうな目を時々上げて、見知り越しの顔にでもあいはしないかと気づかった。しかしこの 界隈 ( かいわい ) はもう静まり返っていた。

 「だめだ」

 突然君はこう小さく言って往来のまん中に立ちどまってしまった。そうして立ちすくんだその姿の首から肩、肩から背中に流れる線は、もしそこに見守る人がいたならば、思わずぞっ[#「ぞっ」に傍点]として異常な憂愁と力とを感ずるに違いない不思議に強い表現を持っていた。

 しばらく ( くぎ ) づけにされたように立ちすくんでいた君は、やがて自分自身をもぎ取るように決然と肩をそびやかして歩きだす。

 君は自分でもどこをどう歩いたかしらない。やがて君が自分に気がついて君自身を見いだした所は海産物製造会社の裏の険しい ( がけ ) を登りつめた小山の上の平地だった。

 全く夜になってしまっていた。冬は老いて春は来ない――その ( こわ ) れ果てたような荒涼たる地の上高く、寒さをかすかな光にしたような雲のない空が、息もつかずに、凝然として延び広がっていた。いろいろな光度といろいろな光彩でちりばめられた無数の星々の間に、冬の空の誇りなる 参宿 ( オライオン ) が、微妙な傾斜をもって三つならんで、何かの凶徴のようにひときわぎらぎら[#「ぎらぎら」に傍点]と光っていた。星は語らない。ただはるかな山すそから、干潮になった無月の 潮騒 ( しおざい ) が、 海妖 ( かいよう ) の単調な誘惑の歌のように、なまめかしくなでるように聞こえて来るばかりだ。風が落ちたので、凍りついたように寒く沈み切った空気は、この海のささやきのために鈍く震えている。

 君はその平地の上に立ってぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]あたりを見回していた。君の心の中にはさきほどから恐ろしい 企図 ( たくらみ ) が目ざめていたのだ。それはきょうに始まった事ではない。ともすれば君の油断を見すまして、 泥沼 ( どろぬま ) の中からぬるり[#「ぬるり」に傍点]と頭を出す水の精のように、その企図は心の底から現われ出るのだ。君はそれを極端に恐れもし、憎みもし、卑しみもした。男と生まれながら、そんな誘惑を感ずる事さえやくざ[#「やくざ」に傍点]な事だと思った。しかしいったんその企図が頭をもたげたが最後、君は魅入られた者のように、もがき苦しみながらも、じりじり[#「じりじり」に傍点]とそれを成就するためには、すべてを犠牲にしても悔いないような心になって行くのだ、その恐ろしい 企図 ( たくらみ ) とは自殺する事なのだ。

 君の心は妙にしん[#「しん」に傍点]と底冷えがしたようにとげとげしく澄み切って、君の目に映る外界の姿は突然全く表情を失ってしまって、固い、冷たい、無慈悲な物の積み重なりに過ぎなかった。無際限なただ一つの荒廃――その中に君だけが呼吸を続けている、それがたまらぬほどさびしく恐ろしい事に思いなされる荒廃が君の上下四方に広がっている。波の音も星のまたたきも、夢の中の出来事のように、君の知覚の遠い遠い 末梢 ( まっしょう ) に、感ぜられるともなく感ぜられるばかりだった。すべての現象がてんでんばらばらに互いの連絡なく散らばってしまった。その中で君の心だけが張りつめて死のほうへとじりじり深まって行こうとした。 重錘 ( おもり ) をかけて深い井戸に投げ込まれた灯明のように、深みに行くほど、君の心は光を増しながら、感じを強めながら、最後には死というその冷たい水の表面に消えてしまおうとしているのだ。

 君の頭がしびれて行くのか、世界がしびれて行くのか、ほんとうにわからなかった。恐ろしい境界に臨んでいるのだと幾度も自分を ( いまし ) めながら、君は平気な気持ちでとてつ[#「とてつ」に傍点]もないのんきな事を考えたりしていた。そして君は夜のふけて行くのも、寒さの募るのも忘れてしまって、そろそろと山鼻のほうへ歩いて行った。

 足の下遠く黒い岩浜が見えて波の遠音が響いて来る。

 ただ一飛びだ。それで 煩悶 ( はんもん ) も疑惑もきれいさっぱり帳消しになるのだ。

 「 ( うち ) の者たちはほんとうに気が違ってしまったとでも思うだろう。‥‥頭が先にくだけるかしらん。足が先に折れるかしらん」

 君はまたたきもせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点] ( がけ ) の下をのぞきこみながら、他人の事でも考えるように、そう心の中でつぶやく。

 不思議なしびれはどんどん深まって行く。波の音なども少しずつかすか[#「かすか」に傍点]になって、耳にはいったりはいらなかったりする。君の心はただいちずに、眠り足りない人が思わず ( まぶた ) をふさぐように、 ( がけ ) の底を目がけてまろび落ちようとする。あぶない‥‥あぶない‥‥他人の事のように思いながら、君の心は君の肉体を ( がけ ) のきわからまっさかさまに突き落とそうとする。

 突然君ははね返されたように正気に帰って後ろに飛びすざった。耳をつんざくような鋭い音響が君の神経をわななかしたからだ。

 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]と驚いて今さらのように大きく目を見張った君の前には平地から突然下方に折れ曲がった崖の ( へり ) が、地球の傷口のように底深い口をあけている。そこに知らず知らず近づいて行きつつあった自分を省みて、君は本能的に身の毛をよだてながら正気になった。

 鋭い音響は目の下の海産物製造会社の汽笛だった。十二時の交代時間になっていたのだ。遠い山のほうからその汽笛の音はかすかに 反響 ( こだま ) になって、二重にも三重にも聞こえて来た。

 もう自然はもとの自然だった。いつのまにか元どおりな崩壊したようなさびしい表情に満たされて ( はて ) もなく君の周囲に広がっていた。君はそれを感ずると、ひたと底のない 寂寥 ( せきりょう ) の念に襲われだした。男らしい君の胸をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と引きしめるようにして、熱い涙がとめどなく流れ始めた。君はただひとり真夜中の暗やみの中にすすり上げながら、まっ白に積んだ雪の上にうずくまってしまった、立ち続ける力さえ失ってしまって。