University of Virginia Library

       五

 長い冬の夜はまだ明けない。雷電峠と反対の湾の一角から長く突き出た造りぞこねの防波堤は 大蛇 ( だいじゃ ) 亡骸 ( むくろ ) のようなまっ黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える 波濤 ( はとう ) ( きば ) が、 小休 ( おや ) みもなくその胴腹に ( ) いかかっている。砂浜に ( もや ) われた百 ( そう ) 近い大和船は、 ( へさき ) を沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。そのそばに、さまざまの漁具と弁当のお ( ひつ ) とを持って集まって来た漁夫たちは、言葉少なに物を言いかわしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号灯を見やっている。暗い ( やみ ) の中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにぎらり[#「ぎらり」に傍点]と光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。船を出すには 一番鳥 ( いちばんどり ) が鳴きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町のほうは寝しずまって ( ) 一つ見えない。それらのすべてをおおいくるめて凍った雲は幕のように空低くかかっている。音を立てないばかりに雲は山のほうから沖のほうへと絶え間なく走り続ける。 ( みぎわ ) まで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波がざぶんざぶん[#「ざぶんざぶん」に傍点]砕けて、風が――空気そのものをかっさらってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目をめがけて突きぬけて行く。

 漁夫たちの群れから少し離れて、一団になったお 内儀 ( かみ ) さんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こる。しばらくしてそれがしずまると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。

 やや二時間もたったと思うころ、あや目も知れない ( やみ ) の中から、 硫黄 ( いおう ) ( たけ ) の山頂――右肩をそびやかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼子のように、空中に現われ出る。鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空はいち早くも暁の光を吸い初めたのだ。

 模範船(港内に四五 ( そう ) あるのだが、船も大きいし、それに老練な漁夫が乗り込んでいて、他の船にかけ引き進退の合図をする)の船頭が頭をあつめて相談をし始める。どことも知れず、あの昼にはけうとい羽色を持った ( からす ) の声が勇ましく聞こえだす。漁夫たちの群れもお 内儀 ( かみ ) さんたちのかたまりも、石のような不動の沈黙から急に生き返って来る。

 「出すべ」

 そのさざめきの間に、潮で ( )

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[2]
び切った老船頭の幅の広い 塩辛声 ( しおからごえ ) が高くこう響く。

 漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れてめいめいの持ち場につく。お内儀さんたちは右に左に ( おっと ) や兄や情人やを介抱して駆け歩く。今まで陶酔したようにたわいもなく波に揺られていた船の ( とも ) には漁夫たちが 膝頭 ( ひざがしら ) まで水に浸って、わめき始める。ののしり騒ぐ声がひとしきり聞こえたと思うと、船はよんどころなさそうに、右に左に揺らぎながら、船首を高くもたげて波頭を切り開き切り開き、狂いあばれる波打ちぎわから離れて行く。最後の高いののしりの声とともに、今までの鈍さに似ず、あらゆる漁夫は、 ( ましら ) のように船の上に飛び乗っている。ややともすると、 ( へさき ) を岸に向けようとする船の中からは、長い 竿 ( さお ) が水の中に幾本も突き込まれる。船はやむを得ずまた立ち直って沖を目ざす。

 この出船の時の人々の気組み働きは、だれにでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろう。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の 擾乱 ( じょうらん ) の中から、漁夫たちの鈍いLargo pianissimoとも言うべき運動が起こって、それが始めのうちは周囲の騒音の中に消されているけれども、だんだんとその運動は熱情的となり力づいて行って、霊を得たように、漁夫の乗り込んだ舟が波を切り波を切り、だんだんと早くなる一定のテンポを取って沖に乗り出して行くさまは、力強い楽手の手で思い存分大胆にかなでられるAllegro Moltoを思い出させずにはおかぬだろう。すべてのものの緊張したそこには、いつでも音楽が生まれるものと見える。

 船はもう一個の敏活な生き物だ。船べりからは 百足虫 ( むかで ) のように ( ) の足を出し、 ( とも ) からは鯨のように ( かじ ) の尾を出して、あの物悲しい北国特有な漁夫のかけ声に励まされながら、まっ暗に襲いかかる波のしぶき[#「しぶき」に傍点]をしのぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く。海岸にひとかたまりになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪をこぎながら、帆綱を整えながら、 浸水 ( あか ) をくみ出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて 怪火 ( かいか ) のように流れる炭火の火の子とをながめやる。長い鉄の 火箸 ( ひばし ) に火の起こった炭をはさんで高くあげると、それが風を食って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つあげられた時には、天候の悪くなる ( しるし ) と見て船を ( ) め、二つあげられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。 暁闇 ( ぎょうあん ) を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い炎を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だ。その光が運命の物すごさをもって海上に長く尾を引きながら消えて行く。

 どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る。 ( ねこ ) のような声で小さく呼びかわすこの海の 砂漠 ( さばく ) の漂浪者は、さっと落として来て波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思い直したように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ。夜の ( やみ ) は暗く濃く沖のほうに追いつめられて、東の空には 黎明 ( れいめい ) の新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだ。あやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷電峠の 絶巓 ( ぜってん ) をなでたりたたいたりして 叢立 ( むらだ ) ち急ぐ 嵐雲 ( あらしぐも ) は、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な 藤色 ( ふじいろ ) に染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ。長い夜のために冷え切った地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。

 私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は 配縄 ( はいなわ ) の用意をしながら、恐ろしいまでに 荘厳 ( そうごん ) なこの日の序幕をながめているのだ。君の父上は 舵座 ( かじざ ) にあぐらをかいて、時々晴雨計を見やりながら、変化のはげしいそのころの天気模様を考えている。海の中から生まれて来たような老漁夫の、 ( しわ ) にたたまれた鋭い眼は、雲一片の ( しるし ) をさえ見落とすまいと注意しながら、顔には木彫のような深い落ち付きを見せている。君の兄上は、凍って自由にならない手のひらを腰のあたりの荒布にこすりつけて熱を呼び起こしながら、帆綱を握って、風の向きと早さに応じて帆を立て直している。雇われた二人の漁夫は二人の漁夫で、 二尋 ( ふたひろ ) 置きに 本縄 ( ほんなわ ) から下がった針に ( ) をつけるのに ( せわ ) しい。海の上を見渡すと、港を出てからてんでんばらばら[#「てんでんばらばら」に傍点]に散らばって、朝の光に白い帆をかがやかした船という船は、等しく沖を目がけて波を切り開いて走りながら、君の船と同様な仕事にいそしんでいるのだ。

 夜が明け離れると海風と陸風との変わり目が来て、さすがに荒れがちな北国の冬の海の上もしばらくは穏やかになる。やがて瀬は達せられる。君らは水の色を一目見たばかりで、海中に突き入った陸地と海そのものの ( さかい ) とも言うべき瀬がどう走っているかをすぐ見て取る事ができる。

 帆がおろされる。勢いで走りつづける船足は、 ( かじ ) のために右なり左なりに向け直される。同時に 浮標 ( うき ) の付いた 配縄 ( はいなわ ) の一端が氷のような波の中にざぶんざぶんと投げこまれる。二十五町から三十町に余る長さをもった縄全体が、海上に長々と横たえられるまでには、朝早くから始めても、日が子午線近く来るまでかからねばならないのだ。君らの船は ( ) にあやつられて、横波を食いながらしぶしぶ[#「しぶしぶ」に傍点]進んで行く。ざぶり‥‥ざぶり‥‥寒気のために比重の高くなった海の水は、凍りかかった油のような重さで、物すごいインド ( あい ) の底のほうに、雲間を漏れる日光で鈍く光る配縄の ( ) をのみ込んで行く。

 今まで花のような模様を描いて、海面のところどころに日光を恵んでいた空が、急にさっ[#「さっ」に傍点]と薄曇ると、どこからともなく 時雨 ( しぐれ ) のような ( あられ ) が降って来て海面を 泡立 ( あわだ ) たす。船と船とは、見る見る薄い ( のり ) のような青白い ( まく ) に隔てられる。君の周囲には小さな白い粒がかわき切った音を立てて、あわただしく船板を打つ。君は小ざかしい邪魔者から毛糸の 襟巻 ( えりまき ) で包んだ顔をそむけながら、配縄を丹念におろし続ける。

 すっと空が明るくなる。 ( あられ ) はどこかへ行ってしまった。そしてまっさおな海面に、漁船は陰になりひなたになり、堅い輪郭を描いて、波にもまれながらさびしく漂っている。

 きげん買いな天気は、一日のうちに幾度となくこうした顔のしかめ方をする。そして日が西に回るに従ってこのふきげんは募って行くばかりだ。

 寒暑をかまっていられない漁夫たちも吹きざらしの寒さにはひるまずにはいられない。 配縄 ( はいなわ ) を投げ終わると、身ぶるいしながら五人の男は、 舵座 ( かじざ ) におこされた 焜炉 ( こんろ ) の火のまわりに慕い寄って、大きなお ( ひつ ) から握り飯をわしづかみにつかみ出して食いむさぼる。港を出る時には一かたまりになっていた友船も、今は木の葉のように小さく互い互いからかけ隔たって、心細い弱々しそうな姿を、 ( はて ) もなく露領に続く 海原 ( うなばら ) のここかしこに漂わせている。三里の余も離れた陸地は高い山々の半腹から上だけを水の上に見せて、降り積んだ雪が、日を受けた所は銀のように、雲の陰になった所は鉛のように、妙に険しい輪郭を描いている。

 漁夫たちは口を食物で 頬張 ( ほおば ) らせながら、きのうの ( りょう ) のありさまや、きょうの予想やらをいかにも地味な口調で語り合っている。そういう時に君だけは自分が彼らの間に不思議な異邦人である事に気づく。同じ ( ) をあやつり、同じ帆綱をあつかいながら、なんという悲しい心の ( へだた ) りだろう。押しつぶしてしまおうと幾度試みても、すぐあとからまくしかかって来る芸術に対する執着をどうすることもできなかった。

 とはいえ、飛行機の将校にすらなろうという人の少ない世の中に、生きては人の冒険心をそそっていかにも雄々しい頼みがいある男と見え、死んでは万人にその英雄的な最後を惜しみ仰がれ、遺族まで生活の保障を与えられる飛行将校にすらなろうという人の少ない世の中に、荒れても晴れても毎日毎日、一命を投げてかかって、緊張し切った終日の労働に、玉の緒で ( ) き上げたような飯を食って一生を過ごして行かねばならぬ漁夫の生活、それにはいささかも遊戯的な余裕がないだけに、命とかけがえの真実な仕事であるだけに、言葉には現わし得ないほど尊さと厳粛さとを持っている。ましてや彼らがこの目ざましいけなげな生活を、やむを得ぬ、苦しい、しかし当然な正しい生活として、誇りもなく、 矯飾 ( きょうしょく ) もなく、不平もなく、素直に受け取り、 ( くびき ) にかかった 輓牛 ( ひきうし ) のような柔順な忍耐と覚悟とをもって、勇ましく迎え入れている、その姿を見ると、君は人間の運命のはかなさと美しさとに同時に胸をしめ上げられる。

 こんな事を思うにつけて、君の心の目にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る。君はやはり 舵座 ( かじざ ) にすわって他の漁夫と同様に握り飯を食ってはいるが、いつのまにか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く。