University of Virginia Library

       七

 君は漁夫たちとひざをならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように隔たってこんなことを思い出す。なんという真剣なそして険しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。いわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらい[#「かっぱらい」に傍点]のように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている。人間は奪い取って来た生をたしなみながらしゃぶる[#「しゃぶる」に傍点]けれども、ほどなくその生はまた尽きて行く。そうするとまた死の目の色を見すまして、死のほうにぬすみ足で近寄って行く。ある者は死があまり 無頓着 ( むとんじゃく ) そうに見えるので、つい気を許して少し大胆に高慢にふるまおうとする。と鬼一口だ。もうその人は地の上にはいない。ある者は年とともにいくじがなくなって行って、死の姿がいよいよ恐ろしく目に映り始める。そしてそれに近寄る冒険を 躊躇 ( ちゅうちょ ) する。そうすると死はやおら 物憂 ( ものう ) げな腰を上げて、そろそろとその人に近寄って来る。ガラガラ ( へび ) に見こまれた小鳥のように、その人は逃げも得しないですくんでしまう。次の瞬間にその人はもう地の上にはいない。人の生きて行く姿はそんなふうにも思いなされる。実にはかないともなんとも言いようがない。その中にも漁夫の生活の激しさは格別だ。彼らは死に対してけんかをしかけんばかりの 切羽 ( せっぱ ) つまった心持ちで出かけて行く。陸の上ではなんと言っても偽善も 弥縫 ( びほう ) もある程度までは通用する。ある意味では必要であるとさえも考えられる。海の上ではそんな事は薬の ( ) しにしたくもない。真裸な実力と天運ばかりがすべての漁夫の頼みどころだ。その生活はほんとに悲壮だ。彼らがそれを意識せず、生きるという事はすべてこうしたものだとあきらめをつけて、疑いもせず、不平も言わず、自分のために、自分の養わなければならない親や妻や子のために、毎日毎日板子一枚の下は地獄のような境界に身を ( ) げ出して、せっせ[#「せっせ」に傍点]と骨身を惜しまず働く姿はほんとうに悲壮だ。そして ( みじ ) めだ。なんだって人間というものはこんなしがない[#「しがない」に傍点]苦労をして生きて行かなければならないのだろう。

 世の中には、ことに君が少年時代を過ごした都会という所には、毎日毎日安逸な生を食傷するほどむさぼって一生夢のように送っている人もある。都会とは言うまい。だんだんとさびれて行くこの岩内の小さな町にも、二三百万円の富を祖先から受け ( ) いで、 小樽 ( おたる ) には立派な別宅を構えてそこに ( めかけ ) を住まわせ、自分は東京のある高等な学校をともかくも卒業して、話でもさせればそんなに愚鈍にも見えないくせに、一年じゅうこれと言ってする仕事もなく、退屈をまぎらすための行楽に身を任せて、それでも使い切れない精力の余剰を、富者の 贅沢 ( ぜいたく ) の一つである 癇癪 ( かんしゃく ) に漏らしているのがある。君はその男をよく知っている。小学校時代には教室まで一つだったのだ。それが十年かそこらの年月の間に、二人の生活は恐ろしくかけ隔たってしまったのだ。君はそんな人たちを一度でもうらやましいと思った事はない。その人たちの生活の内容のむなしさを想像する充分の力を君は持っている。そして彼らが彼らの導くような生活をするのは道理があると合点がゆく。金があって才能が平凡だったら勢いああしてわずかに生の 倦怠 ( けんたい ) からのがれるほかはあるまいとひそかに同情さえされぬではない。その人たちが生に飽満して暮らすのはそれでいい。しかし君の周囲にいる人たちがなぜあんな恐ろしい生死の境の中に生きる事を 僥倖 ( ぎょうこう ) しなければならない運命にあるのだろう。なぜ彼らはそんな境遇――死ぬ瞬間まで一分の ( すき ) を見せずに身構えていなければならないような境遇にいながら、なぜ生きようとしなければならないのだろう。これは君に不思議ななぞのようなここちを起こさせる。ほんとうに生は死よりも不思議だ。

 その人たちは 他人眼 ( よそめ ) にはどうしても不幸な人たちと言わなければならない。しかし君自身の不幸に比べてみると、はるかに幸福だと君は思い入るのだ。彼らにはとにかくそういう生活をする事がそのまま生きる事なのだ。彼らはきれいさっぱり[#「さっぱり」に傍点]とあきらめをつけて、そういう生活の中に頭からはまり込んでいる。少しも疑ってはいない。それなのに君は絶えずいらいらして、目前の生活を疑い、それに安住する事ができないでいる。君は喜んで君の両親のために、君の家の苦しい生活のために、君のがんじょうな力強い肉体と精力とを提供している。君の父上のかりそめの 風邪 ( かぜ ) がなおって、しばらくぶりでいっしょに ( りょう ) に出て、夕方になって家に帰って来てから、一家がむつまじくちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台のまわりを囲んで、暗い五 ( しょく ) の電燈の下で ( はし ) を取り上げる時、父上が珍しく木彫のような固い顔に微笑をたたえて、

 「今夜ははあおまんま[#「おまんま」に傍点]がうめえぞ」

と言って、飯茶わんをちょっと押しいただくように目八分に持ち上げるのを見る時なぞは、君はなんと言っても心から幸福を感ぜずにはいられない。君は目前の生活を決して悔やんでいるわけではないのだ。それにも係わらず、君は何かにつけてすぐ暗い心になってしまう。

 「絵がかきたい」

 君は寝ても起きても祈りのようにこの一つの望みを胸の奥深く大事にかきいだいているのだ。その望みをふり捨ててしまえる事なら世の中は簡単なのだ。

 恋――互いに思い合った恋と言ってもこれほどの執着はあり得まいと君自身の心を ( あわ ) れみ悲しみながらつくづくと思う事がある。君の厚い胸の奥からは深いため息が漏れる。

 雨の日などに土間にすわりこんで、兄上や妹さんなぞといっしょに、 配縄 ( はいなわ ) の繕いをしたりしていると、どうかした拍子にみんなが仕事に夢中になって、むつまじくかわしていた世間話すら途絶えさして、黙りこんで手先ばかりを ( せわ ) しく働かすような時がある。こういう瞬間に、君は我れにもなく手を休めて、 茫然 ( ぼうぜん ) と夢でも見るように、君の見ておいた山の景色を思い出している事がある。この山とあの山との ( へだた ) りの感じは、 ( さかい ) の線をこういう曲線で力強くかきさえすれば、きっといいに違いない、そんな事を一心に思い込んでしまう。そして ( はさみ ) を持った手の先で、ひとりでに、想像した曲線をひざの上に幾度もかいては消し、かいては消ししている。

 またある時は沖に出て配縄をたぐり上げるだいじな ( せわ ) しい時に、君は板子の上にすわって、二本ならべて立てられたビールびんの間から縄をたぐり込んで、 ( ) りあげられた 明鯛 ( すけそう ) がびんにせかれるために、針の ( えん ) を離れて胴の間にぴちぴちはねながら落ちて行くのをじっと見やっている。そしてクリムソンレーキを水に薄く溶かしたよりもっと鮮明な光を持った ( うろこ ) の色に吸いつけられて、思わずぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と手の働きをやめてしまう。

 これらの場合はっ[#「はっ」に傍点]と我れに返った瞬間ほど君を ( みじ ) めにするものはない。居眠りしたのを見つけられでもしたように、君はきょとん[#「きょとん」に傍点]と恥ずかしそうにあたりを見回して見る。ある時は兄上や妹さんが、暗まって行く夕方の光に、なお気ぜわしく目を ( なわ ) によせて、せっせ[#「せっせ」に傍点]とほつれを解いたり、切れ目をつないだりしている。ある時は漁夫たちが、寒さに手を 海老 ( えび ) のように赤くへし曲げながら、息せき切って 配縄 ( はいなわ ) をたくし上げている。君は子供のように思わず耳もとまで赤面する。

 「なんというだらし[#「だらし」に傍点]のない二重生活だ。おれはいったいおれに与えられた運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。それだのにまだちっぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねていると見える。おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。もちろんおれに絵のかき方を教えてくれた人もなければ、おれの絵を見てくれる人もない。岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。Kの言葉はいつでもおれを励まし ( むち ) うってくれる。しかしおれはいつでもそのあとに、うぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。どうすればこの二重生活を突き抜ける事ができるのだろう。生まれから言っても、今までの運命から言っても、おれは漁夫で一生を終えるのが相当しているらしい。Kもあの気むずかしい父のもとで調剤師で一生を送る決心を悲しくもしてしまったらしい。おれから見るとKこそは立派な文学者になれそうな男だけれども、Kは誇張なく自分の運命をあきらめている。悲しくもあきらめている。待てよ、悲しいというのはほんとうはKの事ではない。そう思っているおれ自身の事だ。おれはほんとうに悲しい男だ。 親父 ( おやじ ) にも済まない。兄や妹にも済まない。この一生をどんなふうに過ごしたらおれはほんとうにおれらしい生き方ができるのだろう」

 そこに居ならんだ漁夫たちの間に、どっしり[#「どっしり」に傍点]と男らしいがんじょうなあぐらを組みながら、君は彼らとは全く異邦の人のようなさびしい心持ちになって、こんなことを思いつづける。

 やがて漁夫たちはそこらを片付けてやおら立ち上がると、胴の間に降り積んだ雪を摘まんで、手のひらで ( こす ) り合わせて、指に粘りついた飯粒を落とした。そして 配縄 ( はいなわ ) の引き上げにかかった。

 西に ( うすず ) きだすと日あしはどんどん歩みを早める。おまけに上のほうからたるみなく吹き落として来る風に、海面は妙に弾力を持った ( ) ぎ方をして、その上を ( あられ ) まじりの粉雪がさーっと来ては過ぎ、過ぎては来る。君たちは手袋を脱ぎ去った手をまっかにしながら、氷点以下の水でぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]ぬれた配縄をその一端からたぐり上げ始める。三間四間置きぐらいに、目の下二尺もあるような ( たら ) がぴちぴちはねながら引き上げられて来る。

 三十町に余るくらいな配縄をすっかりたくしこんでしまうころには、海の上は少し 墨汁 ( ぼくじゅう ) を加えた牛乳のようにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]暮れ残って、そこらにながめやられる漁船のあるものは、帆を張り上げて港を目ざしていたり、あるものはさびしい掛け声をなお海の上に響かせて、 ( せわ ) しく 配縄 ( はいなわ ) を上げているのもある。夕暮れに海上に点々と浮かんだ小船を見渡すのは悲しいものだ。そこには人間の生活がそのはかない 末梢 ( まっしょう ) をさびしくさらしているのだ。

 君たちの船は、海風が ( ) ぎて陸風に変わらないうちにと帆を立て、 ( ) を押して陸地を目がける。晴れては曇る 雪時雨 ( ゆきしぐれ ) の間に、 岩内 ( いわない ) の後ろにそびえる山々が、高いのから先に、水平線上に現われ出る。船歌をうたいつれながら、漁夫たちは見慣れた山々の頂をつなぎ合わせて、港のありかをそれとおぼろげながら見定める。そこには妻や母や娘らが、寒い浜風に吹きさらされながら、うわさとりどりに ( みぎわ ) に立って君たちの帰りを待ちわびているのだ。

 これも牛乳のような色の寒い 夕靄 ( ゆうもや ) に包まれた雷電峠の突角がいかつく大きく見えだすと、防波堤の 突先 ( とっさき ) にある灯台の ( ) が明滅して船路を照らし始める。毎日の事ではあるけれども、それを見ると、君と言わず人々の胸の中には、きょうもまず命は無事だったという底深い喜びがひとりでにわき出して来て、陸に対する不思議なノスタルジヤが感ぜられる。漁夫たちの船歌は一段と勇ましくなって、君の父上は船の ( とも ) に漁獲を知らせる旗を揚げる。その旗がばたばたと風にあおられて音を立てる――その音がいい。

 だんだん間近になった岩内の町は、黄色い街灯の ( ) のほかには、まだ灯火もともさずに黒くさびしく横たわっている。雪のむら消えた砂浜には、けさと同様に女たちがかしこここにいくつかの固い群れになって、石ころのようにこちん[#「こちん」に傍点]と立っている。白波がかすかな潮の香と音とをたてて、その足もとに行っては消え、行っては消えするのが見え渡る。

 帆がおろされた。船は海岸近くの波に激しく動揺しながら、艫を海岸のほうに向けかえてだんだんと ( みぎわ ) に近寄って行く。海産物会社の 印袢天 ( しるしばんてん ) を着たり、犬の皮か何かを裏につけた 外套 ( がいとう ) を深々と羽織ったりした男たちが、右往左往に走りまわるそのあたりを目がけて、君の兄上が手慣れたさばき[#「さばき」に傍点]でさっ[#「さっ」に傍点]と 艫綱 ( ともづな ) を投げると、それがすぐ幾十人もの男女の手で引っぱられる。船はしきりと上下する ( へさき ) に波のしぶきを食いながら、どんどん砂浜に近寄って、やがて疲れ切った魚のように黒く横たわって動かなくなる。

 漁夫たちは ( ) ( かじ ) や帆の始末を簡単にしてしまうと、 ( ふなべり ) を伝わって陸におどり上がる。海産物製造会社の人夫たちは、漁夫たちと入れ替わって、船の中に ( ましら ) のように飛び込んで行く。そしてまだ死に切らない ( たら ) の尾をつかんで、 ( こいし ) のように砂の上にほうり出す。浜に待ち構えている男たちは、目にもとまらない早わざで数を数えながら、魚を ( もっこ ) の中にたたき込む。漁夫たちは吉例のように会社の 数取 ( かずと ) り人に対して何かと故障を言いたててわめく。一日ひっそりかん[#「ひっそりかん」に傍点]としていた浜も、このしばらくの間だけは、さすがににぎやかな気分になる。景気にまき込まれて、女たちの ( ) る者まで男といっしょになってけんか腰に物を言いつのる。

 しかしこのはなばなしいにぎわいも長い間ではない。命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果は、わずか十数分の間でたわいもなく会社の人たちに処分されてしまうのだ。君が君の妹を女たちの群れの中から見つけ出して、 ( せわ ) しく目を見かわし、言葉をかわす暇もなく、浜の上には乱暴に踏み荒された砂と、 海藻 ( かいそう ) と小魚とが砂まみれになって残っているばかりだ。そして会社の人夫たちはあとをも見ずにまた他の漁船のほうへ走って行く。

 こうして岩内じゅうの漁夫たちが一生懸命に捕獲して来た魚はまたたくうちにさらわれてしまって、墨のように煙突から煙を吐く怪物のような会社の製造所へと運ばれて行く。

 夕焼けもなく日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れて、雪は紫に、 ( ) は光なくただ赤くばかり見える初夜になる。君たちはけさのとおりに幾かたまりの黒い影になって、疲れ切った五体をめいめいの家路に運んで行く。寒気のために五臓まで締めつけられたような君たちは口をきくのさえ 物惰 ( ものう ) くてできない。女たちがはしゃいだ調子で、その日のうちに陸の上で起こったいろいろな出来事――いろいろな出来事と言っても、きわだって珍しい事やおもしろい事は一つもない――を話し立てるのを、ぶっつり[#「ぶっつり」に傍点]押し黙ったままで聞きながら歩く。しかしそれがなんという快さだろう。

 しかし君の家が近くなるにつれて妙に君の心を脅かし始めるものがある。それは近年引き続いて君の家に起こった種々な不幸がさせるわざだ。長わずらいの後に夫に先立った君の母上に始まって、君の家族の周囲には妙に死というものが 執念 ( しゅうね ) くつきまつわっているように見えた。君の兄上の初生児も取られていた。汗水が凝り固まってできたような銀行の貯金は、その銀行が不景気のあおりを食って破産したために、水の ( あわ ) になってしまった。命とかけがえの漁場が、間違った防波堤の設計のために、全然役に立たなくなったのは前にも言ったとおりだ。こらえ ( しょう ) のない人々の寄り集まりなら、身代が朽ち木のようにがっくりと折れ倒れるのはありがちと言わなければならない。ただ君の家では父上といい、兄上といい、 根性 ( こんじょう ) ( ぽね ) の強い正直な人たちだったので、すべての激しい運命を真正面から受け取って、骨身を惜しまず働いていたから、曲がったなりにも今日今日を事欠かずに過ごしているのだ。しかし君の家を襲ったような運命の圧迫はそこいらじゅうに起こっていた。軒を並べて住みなしていると、どこの家にもそれ相当な生計が立てられているようだけれども、一軒一軒に立ち入ってみると、このごろの岩内の町には鼻を ( ) くしなければならないような事がそこいらじゅうにまくしあがっていた。ある家は目に立って零落していた。あらしに吹きちぎられた屋根板が、いつまでもそのままで雨の漏れるに任せた所も少なくない。目鼻立ちのそろった年ごろの娘が、嫁入ったといううわさもなく姿を消してしまう家もあった。立派に 家框 ( いえがまち ) が立ち直ったと思うとその家は代が替わったりしていた。そろそろと地の中に引きこまれて行くような薄気味の悪い零落の兆候が町全体にどことなく漂っているのだ。

 人々は暗々裏にそれに脅かされている。いつどんな事がまくし上がるかもしれない――そういう不安は絶えず君たちの心を重苦しく押しつけた。家から火事を出すとか、家から出さないまでも類焼の災難にあうとか、持ち船が沈んでしまうとか、働き盛りの兄上が死病に取りつかれるとか、 ( にしん ) 群来 ( くき ) がすっかり[#「すっかり」に傍点]はずれるとか、ワク船が流されるとか、いろいろに想像されるこれらの不幸の一つだけに出くわしても、君の家にとっては、足腰の立たない打撃となるのだ。疲れた五体を家路に運びながら、そしてばかに建物の大きな割合に、それにふさわない暗い ( ) でそこと知られる 柾葺 ( まさぶ ) きの君の生まれた家屋を目の前に見やりながら、君の心は運命に対する疑いのために妙におくれがちになる。

 それでも 敷居 ( しきい ) をまたぐと土間のすみの ( かまど ) には火が暖かい光を放って 水飴 ( みずあめ ) のようにやわらかく ( しな ) いながら燃えている。どこからどこまでまっ黒にすすけながら、だだっ広い囲炉裏の ( ) はきちん[#「きちん」に傍点]と片付けてあって、居心よさそうにしつらえてある。 ( あによめ ) や妹の心づくしを君はすぐ感じてうれしく思いながら、持って帰った漁具――寒さのために凍り果てて、触れ合えば石のように音を立てる――をそれぞれの所に始末すると、これもからからと音を立てるほど凍り果てた仕事着を一枚一枚脱いで、 ( かまど ) のあたりに掛けつらねて、ふだん着に着かえる。一日の寒気に凍え切った肉体はすぐ熱を吹き出して、顔などはのぼせ上がるほどぽかぽかして来る。ふだん着の軽い暖かさ、一 ( わん ) の熱湯の味のよさ。

 小気味のよいほどしたたか 夕餉 ( ゆうげ ) を食った漁夫たちが、

 「親方さんお休み」

挨拶 ( あいさつ ) してぞろぞろ出て行ったあとには、水入らずの家族五人が、囲炉裏の火にまっかに顔を照らし合いながらさし向かいになる。戸外ではさらさらと音を立てて ( あられ ) まじりの雪が降りつづけている。七時というのにもうその 界隈 ( かいわい ) は夜ふけ同様だ。どこの家もしん[#「しん」に傍点]として赤子の泣く声が時おり聞こえるばかりだ。ただ遠くの遊郭のほうから、朝寝のできる人たちが寄り集まっているらしい酔狂のさざめきだけがとぎれとぎれに風に送られて伝わって来る。

 「おらはあ寝まるぞ」

 わずかな 晩酌 ( ばんしゃく ) に昼間の疲労を存分に発して、目をとろんこ[#「とろんこ」に傍点]にした君の父上が、まず囲炉裏のそばに床をとらして横になる。やがて兄上と ( あによめ ) とが次の 部屋 ( へや ) に退くと、囲炉裏のそばには、君と君の妹だけが残るのだ。

 時が静かにさびしく、しかしむつまじくじりじりと過ぎて行く。

 「寝ずに」

 針の手をやめて、君の妹はおとなしく顔を上げながら君に言う。

 「先に寝れ、いいから」

 あぐらのひざの上にスケッチ帳を広げて、と見こう見している君は、振り向きもせずに、ぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にそう答える。

 「朝げにまた眠いとってこづき起こされべえに」にっ[#「にっ」に傍点]と 片頬 ( かたほお ) ( ) みをたたえて妹は君にいたずららしい目を向ける。

 「なんの」

 「なんのでねえよ、そんだもの見こくってなんのたしになるべえさ。みんなよって笑っとるでねえか、 ( やまさ )

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[6]
( あん ) さんこと暇さえあれば見ったくもない絵べえかいて、なんするだべって」

 君は思わず顔をあげる。

 「だれが言った」

 「だれって‥‥みんな言ってるだよ」

 「お前もか」

 「私は言わねえ」

 「そうだべさ。それならそれでいいでねえか。わけのわかんねえやつさなんとでも言わせておけばいいだ。これを見たか」

 「見たよ。‥‥ 荘園 ( しょうえん ) の裏から見た所だなあそれは。山はわし気に入ったども、雲が黒すぎるでねえか」

 「さし出口はおけやい」

 そして君たち二人は顔を見合って溶けるように ( ) みかわす。寒さはしんしんと背骨まで ( とお ) って、戸外には風の落ちた空を黙って雪が降り積んでいるらしい。

 今度は君が発意する。

 「おい寝べえ」

 「 ( あん ) さん先に寝なよ」

 「お前寝べし‥‥あしたまた一番に起きるだから‥‥戸締まりはおらがするに」

 二人はわざと 意趣 ( いしゅ ) に争ってから、妹はとうとう先に寝る事にする。君はなお半時間ほどスケッチに見入っていたが、寒さにこらえ切れなくなってやがて身を起こすと、 藁草履 ( わらぞうり ) を引っかけて土間に降り立ち、 ( かまど ) の火もとを充分に見届け、漁具の 整頓 ( せいとん ) を一わたり注意し、入り口の戸に錠前をおろし、雪の吹きこまぬよう窓のすきまをしっかり[#「しっかり」に傍点]と閉じ、そしてまた囲炉裏座に帰って見ると、ちょろちょろと燃えかすれた 根粗朶 ( ねそだ ) の火におぼろに照らされて、君の父上と妹とが 炉縁 ( ろぶち ) の二方に寝くるまっているのが物さびしくながめられる。一日一日生命の力から遠ざかって行く老人と、若々しい生命の力に悩まされているとさえ見える妹の寝顔は、明滅する炎の前に幻のような不思議な姿を描き出す。この老人の老い先をどんな運命が待っているのだろう。この 処女 ( おとめ ) の行く末をどんな運命が待っているのだろう。未来はすべて暗い。そこではどんな事でも起こりうる。君は二人の寝顔を見つめながらつくづくとそう思った。そう思うにつけて、その人たちの行く末については、素直な心で ( さち ) あれかしと祈るほかはなかった。人の力というものがこんな厳粛な瞬間にはいちばんたよりなく思われる。

 君はスケッチ帳を ( まくら ) もとに引きよせて、 ( あか ) じみた床の中にそのままもぐり込みながら、氷のような 布団 ( ふとん ) の冷たさがからだの ( ぬく ) みで暖まるまで、まじまじと目を見開いて、君の妹の寝顔を、 ( あわ ) れみとも愛ともつかぬ涙ぐましい心持ちでながめつづける。それは君が妹に対して幼少の時から何かのおりに必ずいだくなつかしい感情だった。

 それもやがて疲労の夢が押し包む。

 今岩内の町に目ざめているものは、おそらく朝寝坊のできる富んだ ( なま ) け者と、 灯台守 ( とうだいも ) りと犬ぐらいのものだろう。夜は寒くさびしくふけて行く。