University of Virginia Library

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 その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。

 板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし 肝腎 かんじん の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えているばかり、 人気 ひとけ のないようにしんとしています。

 遠藤はその光を便りに、 ず怯ずあたりを見廻しました。

 するとすぐに眼にはいったのは、やはりじっと椅子にかけた、死人のような妙子です。それが 何故 なぜ か遠藤には、 かしら 毫光 ごこう でもかかっているように、 おごそ かな感じを起させました。

「御嬢さん、御嬢さん」

 遠藤は椅子へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶったなり、何とも口を開きません。

「御嬢さん。しっかりおしなさい。遠藤です」

 妙子はやっと夢がさめたように、かすかな眼を開きました。

「遠藤さん?」

「そうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げましょう」

 妙子はまだ 夢現 ゆめうつつ のように、弱々しい声を出しました。

「計略は駄目だったわ。つい私が眠ってしまったものだから、―― 堪忍 かんにん して頂戴よ」

「計略が露顕したのは、あなたのせいじゃありませんよ。あなたは私と約束した通り、アグニの神の かか った 真似 まね をやり おお せたじゃありませんか?――そんなことはどうでも いことです。さあ、早く御逃げなさい」

 遠藤はもどかしそうに、椅子から妙子を抱き起しました。

「あら、 うそ 。私は眠ってしまったのですもの。どんなことを言ったか、知りはしないわ」

 妙子は遠藤の胸に もた れながら、 つぶや くようにこう言いました。

「計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ」

「そんなことがあるものですか。私と一しょにいらっしゃい。今度しくじったら大変です」

「だってお婆さんがいるでしょう?」

「お婆さん?」

 遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさっきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ 仰向 あおむ きに倒れているのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。

「お婆さんはどうして?」

「死んでいます」

 妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。

「私、ちっとも知らなかったわ。お婆さんは遠藤さんが――あなたが殺してしまったの?」

 遠藤は婆さんの 屍骸 しがい から、妙子の顔へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、――しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――運命の力の不思議なことが、やっと遠藤にもわかったのは、この瞬間だったのです。

「私が殺したのじゃありません。あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です」

 遠藤は妙子を かか えたまま、おごそかにこう ささや きました。