University of Virginia Library

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 妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼にも触れないと、思っていたのに違いありません。しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の 鍵穴 かぎあな から、 のぞ いている男があったのです。それは一体誰でしょうか?――言うまでもなく、書生の遠藤です。

 遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身の上を思うと、どうしてもじっとしてはいられません。そこでとうとう 盗人 ぬすびと のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっきから透き見をしていたのです。

 しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その ほか は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。しかし しわが れた婆さんの声は、手にとるようにはっきり聞えました。

「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」

 婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を き始めました。しかもその声がどうしても、妙子のような少女とは思われない、荒々しい男の声なのです。

「いや、おれはお前の願いなぞは聞かない。お前はおれの言いつけに そむ いて、いつも悪事ばかり働いて来た。おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思っている。いや、その上に悪事の罰を下してやろうと思っている」

 婆さんは 呆気 あっけ にとられたのでしょう。暫くは何とも答えずに、 あえ ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに 頓着 とんじゃく せず、おごそかに話し続けるのです。

「お前は あわ れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかったら、 明日 あす とも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すが い」

 遠藤は鍵穴に眼を当てたまま、婆さんの答を待っていました。すると婆さんは驚きでもするかと思いの ほか 、憎々しい笑い声を らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。

「人を 莫迦 ばか にするのも、 い加減におし。お前は私を何だと思っているのだえ。私はまだお前に欺される程、 耄碌 もうろく はしていない 心算 つもり だよ。早速お前を父親へ返せ――警察の御役人じゃあるまいし、アグニの神がそんなことを御言いつけになってたまるものか」

 婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。

「さあ、正直に白状おし。お前は 勿体 もったい なくもアグニの神の、 声色 こわいろ を使っているのだろう」

 さっきから容子を窺っていても、妙子が実際睡っていることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕したかと思わず胸を おど らせました。が、妙子は相変らず 目蓋 まぶた 一つ動かさず、 嘲笑 あざわら うように答えるのです。

「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが い。おれは ただ お前に尋ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言いつけに背くか――」

 婆さんはちょいとためらったようです。が、忽ち勇気をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の 襟髪 えりがみ つか んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。

「この 阿魔 あま め。まだ剛情を張る気だな。よし、よし、それなら約束通り、一思いに命をとってやるぞ」

 婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は 咄嗟 とっさ に身を起すと、錠のかかった入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が けるばかりです。