アグニの神 (Aguni no kami) | ||
五
妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼にも触れないと、思っていたのに違いありません。しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の 鍵穴 ( かぎあな ) から、 覗 ( のぞ ) いている男があったのです。それは一体誰でしょうか?――言うまでもなく、書生の遠藤です。
遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身の上を思うと、どうしてもじっとしてはいられません。そこでとうとう 盗人 ( ぬすびと ) のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっきから透き見をしていたのです。
しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その 外 ( ほか ) は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。しかし 嗄 ( しわが ) れた婆さんの声は、手にとるようにはっきり聞えました。
「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」
婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を 利 ( き ) き始めました。しかもその声がどうしても、妙子のような少女とは思われない、荒々しい男の声なのです。
「いや、おれはお前の願いなぞは聞かない。お前はおれの言いつけに 背 ( そむ ) いて、いつも悪事ばかり働いて来た。おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思っている。いや、その上に悪事の罰を下してやろうと思っている」
婆さんは 呆気 ( あっけ ) にとられたのでしょう。暫くは何とも答えずに、 喘 ( あえ ) ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに 頓着 ( とんじゃく ) せず、おごそかに話し続けるのです。
「お前は 憐 ( あわ ) れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかったら、 明日 ( あす ) とも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すが 好 ( よ ) い」
遠藤は鍵穴に眼を当てたまま、婆さんの答を待っていました。すると婆さんは驚きでもするかと思いの 外 ( ほか ) 、憎々しい笑い声を 洩 ( も ) らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。
「人を 莫迦 ( ばか ) にするのも、 好 ( い ) い加減におし。お前は私を何だと思っているのだえ。私はまだお前に欺される程、 耄碌 ( もうろく ) はしていない 心算 ( つもり ) だよ。早速お前を父親へ返せ――警察の御役人じゃあるまいし、アグニの神がそんなことを御言いつけになってたまるものか」
婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。
「さあ、正直に白状おし。お前は 勿体 ( もったい ) なくもアグニの神の、 声色 ( こわいろ ) を使っているのだろう」
さっきから容子を窺っていても、妙子が実際睡っていることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕したかと思わず胸を 躍 ( おど ) らせました。が、妙子は相変らず 目蓋 ( まぶた ) 一つ動かさず、 嘲笑 ( あざわら ) うように答えるのです。
「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが 好 ( い ) い。おれは 唯 ( ただ ) お前に尋ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言いつけに背くか――」
婆さんはちょいとためらったようです。が、忽ち勇気をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の 襟髪 ( えりがみ ) を 掴 ( つか ) んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。
「この 阿魔 ( あま ) め。まだ剛情を張る気だな。よし、よし、それなら約束通り、一思いに命をとってやるぞ」
婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は 咄嗟 ( とっさ ) に身を起すと、錠のかかった入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が 摺 ( す ) り 剥 ( む ) けるばかりです。
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