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 その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは 呆気 あっけ にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。

 そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。

「おい。おい。あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」

 日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。支那人は 楫棒 かじぼう を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」と、気味悪そうに返事をすると、 匆々 そうそう 行きそうにするのです。

「まあ、待ってくれ。そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」

「占い しゃ です。が、この近所の うわさ じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が いようですよ」

 支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。すると突然聞えて来たのは、婆さんの ののし る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。日本人はその声を聞くが早いか、 一股 ひとまた に二三段ずつ、薄暗い 梯子 はしご け上りました。そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。

 戸は直ぐに開きました。が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。

「何か御用ですか?」

 婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。

「お前さんは占い者だろう?」

 日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を にら み返しました。

「そうです」

「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか? 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」

「何を見て上げるんですえ?」

 婆さんは ますます 疑わしそうに、日本人の 容子 ようす うかが っていました。

「私の主人の御嬢さんが、去年の春 行方 ゆくえ 知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」

 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。

「私の主人は 香港 ホンコン の日本領事だ。御嬢さんの名は 妙子 たえこ さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」

 遠藤はこう言いながら、 上衣 うわぎ の隠しに手を入れると、一 ちょう のピストルを引き出しました。

「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを さら ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると ため にならんぞ」

 しかし印度人の婆さんは、少しも こわ がる 気色 けしき が見えません。見えないどころか くちびる には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。

「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」

うそ をつけ。今その窓から外を見ていたのは、 たしか に御嬢さんの妙子さんだ」

 遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。

「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」

「あれは私の貰い子だよ」

 婆さんはやはり嘲るように、にやにや ひと り笑っているのです。

「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」

 遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、 咄嗟 とっさ に印度人の婆さんは、その戸口に立ち ふさ がりました。

「ここは私の うち だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」

退 け。退かないと 射殺 うちころ すぞ」

 遠藤はピストルを挙げました。いや、挙げようとしたのです。が、その拍子に婆さんが、 からす くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。これには勇み立った遠藤も、さすがに きも をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、

「魔法使め」と ののし りながら、 とら のように婆さんへ飛びかかりました。

 が、婆さんもさるものです。ひらりと身を かわ すが早いか、そこにあった ほうき をとって、又 つか みかかろうとする遠藤の顔へ、 ゆか の上の 五味 ごみ を掃きかけました。すると、その五味が皆火花になって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。

 遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の 旋風 つむじかぜ に追われながら、 ころ げるように外へ逃げ出しました。