アグニの神 (Aguni no kami) | ||
二
その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは 呆気 ( あっけ ) にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。
そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。
「おい。おい。あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」
日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。支那人は 楫棒 ( かじぼう ) を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」と、気味悪そうに返事をすると、 匆々 ( そうそう ) 行きそうにするのです。
「まあ、待ってくれ。そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」
「占い 者 ( しゃ ) です。が、この近所の 噂 ( うわさ ) じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が 好 ( よ ) いようですよ」
支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。すると突然聞えて来たのは、婆さんの 罵 ( ののし ) る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。日本人はその声を聞くが早いか、 一股 ( ひとまた ) に二三段ずつ、薄暗い 梯子 ( はしご ) を 駈 ( か ) け上りました。そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
戸は直ぐに開きました。が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。
「何か御用ですか?」
婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。
「お前さんは占い者だろう?」
日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を 睨 ( にら ) み返しました。
「そうです」
「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか? 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」
「何を見て上げるんですえ?」
婆さんは 益 ( ますます ) 疑わしそうに、日本人の 容子 ( ようす ) を 窺 ( うかが ) っていました。
「私の主人の御嬢さんが、去年の春 行方 ( ゆくえ ) 知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」
日本人は一句一句、力を入れて言うのです。
「私の主人は 香港 ( ホンコン ) の日本領事だ。御嬢さんの名は 妙子 ( たえこ ) さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」
遠藤はこう言いながら、 上衣 ( うわぎ ) の隠しに手を入れると、一 挺 ( ちょう ) のピストルを引き出しました。
「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを 攫 ( さら ) ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると 為 ( ため ) にならんぞ」
しかし印度人の婆さんは、少しも 怖 ( こわ ) がる 気色 ( けしき ) が見えません。見えないどころか 唇 ( くちびる ) には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。
「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」
「 嘘 ( うそ ) をつけ。今その窓から外を見ていたのは、 確 ( たしか ) に御嬢さんの妙子さんだ」
遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。
「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」
「あれは私の貰い子だよ」
婆さんはやはり嘲るように、にやにや 独 ( ひと ) り笑っているのです。
「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」
遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、 咄嗟 ( とっさ ) に印度人の婆さんは、その戸口に立ち 塞 ( ふさ ) がりました。
「ここは私の 家 ( うち ) だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」
「 退 ( ど ) け。退かないと 射殺 ( うちころ ) すぞ」
遠藤はピストルを挙げました。いや、挙げようとしたのです。が、その拍子に婆さんが、 鴉 ( からす ) の 啼 ( な ) くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。これには勇み立った遠藤も、さすがに 胆 ( きも ) をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、
「魔法使め」と 罵 ( ののし ) りながら、 虎 ( とら ) のように婆さんへ飛びかかりました。
が、婆さんもさるものです。ひらりと身を 躱 ( かわ ) すが早いか、そこにあった 箒 ( ほうき ) をとって、又 掴 ( つか ) みかかろうとする遠藤の顔へ、 床 ( ゆか ) の上の 五味 ( ごみ ) を掃きかけました。すると、その五味が皆火花になって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。
遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の 旋風 ( つむじかぜ ) に追われながら、 転 ( ころ ) げるように外へ逃げ出しました。
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