University of Virginia Library

軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。家はこぼたれて淀 川に浮び、地は目の前に畠となる。人の心皆あらたまりて、たゞ 馬鞍をのみ重くす。牛車を用とする人なし。西南海の所領をのみ 願ひ、東北國の庄園をば好まず。その時、おのづから事のたより ありて、津の國今の京に到れり。所のありさまを見るに、その地 ほどせまくて、條理をわるにたらず。 北は山にそひて高く、南は海に近くてくだれり。なみの音つねに かまびすしくて、潮風殊にはげしく、内裏は山の中なれば、かの 木の丸殿もかくやと、なかなかやうかはりて、いうなるかたも 侍りき。日々にこぼちて川もせきあへずはこびくだす家はいづく につくれるにかあらむ。なほむなしき地は多く、作れる屋はすく なし。ふるさとは既にあれて、新都はいまだならず。 ありとしある人、みな浮雲のおもひをなせり。元より此處に居れ るものは、地を失ひてうれへ、今うつり住む人は、土木のわづら ひあることをなげく。道のほとりを見れば、車に乘るべきはうま に乘り、衣冠布衣なるべきはひたゝれを着たり。都のてふりたち まちにあらたまりて、唯ひなびたる武士にことならず。これは世 の亂るゝ瑞相とか聞きおけるもしるく、日を經つゝ世の中うき立 ちて、人の心も治らず、民のうれへつひにむなしからざりけれ ば、おなじ年の冬、猶この京に歸り給ひにき。されどこぼちわた せりし家どもはいかになりにけるにか、ことごとく元のやうに しも作らず。ほのかに傳へ聞くに、いにしへのかしこき御代 に は、あはれみをもて國ををさめ給ふ。則ち御殿に茅をふきて軒を だにとゝのへず。煙のともしきを見給ふ時は、かぎりあるみつぎ ものをさへゆるされき。これ民をめぐみ、世をたすけ給ふに よ りてなり。今の世の中のありさま、昔になぞらへて知りぬべ し。』