University of Virginia Library

    八

 日の光がとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と隠れてしまって、往来の ( ) ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに ( まゆ ) を痛々しくしかめながら、 釘店 ( くぎだな ) に帰って来た。

 玄関にはいろいろの 足駄 ( あしだ ) ( くつ ) がならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい 履物 ( はきもの ) といっては一つも見当たらなかった。自分の 草履 ( ぞうり ) を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために 親戚 ( しんせき ) や知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきに ( もど ) そうとしたその途端に、

 「ねえさんもういや……いや」

 といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔を ( うず ) めながら、 成人 ( おとな ) のするような泣きじゃくり[#「じゃくり」に傍点]をして、

 「もう行っちゃいやですというのに」

 とからく[#「からく」に傍点]言葉を続けたのは 貞世 ( さだよ ) だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて 階子段 ( はしごだん ) をのぼって行った。

 階子段をのぼりきって見ると客間はしん[#「しん」に傍点]としていて、 五十川 ( いそがわ ) 女史の 祈祷 ( きとう ) の声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待って ( へや ) にはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた 古藤 ( ことう ) だけは 昂然 ( こうぜん ) と目を見開いて、 ( ふすま ) をあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。

 葉子は古藤にちょっと目で 挨拶 ( あいさつ ) をして置いて、貞世を抱いたまま末座に ( ひざ ) をついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる 叔父 ( おじ ) が、わが子でもたしなめるように威儀を作って、

 「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに 祈祷 ( きとう ) をお頼み申して、 ( はし ) を取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」

 面と向かっては、葉子に 口小言 ( くちこごと ) 一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっち[#「そっち」に傍点]に見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、

 「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」

 とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、 釘店 ( くぎだな ) の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れた ( びん ) のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。

 「しばらくでしたのね……とうとう 明朝 ( あした ) になりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」

 と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度は ( とう ) の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、

 「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」

 といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、

 「車で駆け通ったんですから前も ( あと ) もよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を 広小路 ( ひろこうじ ) に出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって…… 山脇 ( やまわき ) さんですの」

 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした 叔父 ( おじ ) はもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。

 「それがまたね、いつものとおりに 金時 ( きんとき ) のように首筋までまっ ( ) ですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、 肝心 ( かんじん ) の禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわい[#「わい」に傍点]わいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、 ( はし ) をおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」

 叔父があわてて口の締まりをして 仏頂面 ( ぶっちょうづら ) に立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには 頓着 ( とんじゃく ) なく 五十川 ( いそがわ ) 女史のほうに向いて、

 「あの肩の ( ) りはすっかり[#「すっかり」に傍点]おなおりになりまして」

 といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも 鉢合 ( はちあ ) わせになって、 二人 ( ふたり ) は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしく ( まゆ ) をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃく[#「ぎくしゃく」に傍点]した調子で口をきった。

 「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」

 葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。

 「何しろわたしども 早月家 ( さつきけ ) の親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはき[#「はき」に傍点]はきできるし、若いに似合わぬ物のわかった ( じん ) だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい[#「じたい」に傍点]段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は 一人 ( ひとり ) だが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。 擲身 ( てきしん ) 報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま[#「しこたま」に傍点]金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに 余裕 ( ゆとり ) をつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっ[#「ぐっ」に傍点]と ( しゃく ) にさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さん ( がた ) のしめし[#「しめし」に傍点]にもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、 五十川 ( いそがわ ) さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」

 葉子は 乞食 ( こじき ) の嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような 頑丈 ( がんじょう ) な骨組みで、がっしり[#「がっしり」に傍点]と正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は ( はや ) り熱した。

 「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、 人様 ( ひとさま ) 同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」

 といって葉子は指の間になぶっていた 楊枝 ( ようじ ) を老女史の前にふい[#「ふい」に傍点]と投げた。

 「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいと ( おぼ ) ( ) すかもしれませんが、この 二人 ( ふたり ) だけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは 赤坂 ( あかさか ) 学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」

 こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は 祈祷 ( きとう ) と、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの 角帯 ( かくおび ) のようなものを絹糸で編みはじめた。 ( あい ) ( ) に白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかた[#「あらかた」に傍点]でき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな 笹縁 ( ささべり ) のようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が 歪形 ( いびつ ) にならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は 片時 ( かたとき ) も編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっ[#「そっ」に傍点]と机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい 乙女心 ( おとめごころ ) にどうしてこの夢よりもはかない 目論見 ( もくろみ ) を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから ( ) して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い 容貌 ( ようぼう ) の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。

 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま 翻弄 ( ほんろう ) した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた ( とら ) の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。

 「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう 田島 ( たじま ) さんの ( じゅく ) に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で 二人 ( ふたり ) を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」

 「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」

 といきなり[#「いきなり」に傍点]恨めしそうに、貞世は姉の ( ひざ ) をゆすりながらその言葉をさえぎった。

 「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」

 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも 頓着 ( とんじゃく ) なく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い ( そで ) の下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらで ( ) き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、

 「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」

 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、

 「まあ聞きわけのない子だこと、しかたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」

 とたしなめ ( さと ) すようにいうと、

 「しかたがあるわ」

 と貞世は大きな目で姉を見上げながら、

 「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」

 といって、くるり[#「くるり」に傍点]と首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。 叔父 ( おじ ) はことに大きなとんきょ[#「とんきょ」に傍点]な声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっ[#「じっ」に傍点]と叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその 部屋 ( へや ) をかけ出した。 階子段 ( はしごだん ) の所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、 二人 ( ふたり ) が何かいい争うらしい声が聞こえて来た。

 一座はまた ( しら ) け渡った。

 「叔父さんにも申し上げておきます」

 と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。

 「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおり ( じゅく ) に入れてしまいますし、この後はこれといって大して 御厄介 ( ごやっかい ) はかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってはほんとうにすみませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏 ( くじ ) を背負い込んだと ( おぼ ) ( ) して、どうか 二人 ( ふたり ) を見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり[#「はっきり」に傍点]申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたらわたしまたきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」

 古藤は少し 躊躇 ( ちゅうちょ ) するふうで 五十川 ( いそがわ ) 女史を見やりながら、

 「あなたはさっきから赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれるとおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」

 と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく 激昂 ( げきこう ) した様子で、

 「わたしは ( ) くなった 親佐 ( おやさ ) さんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持った ( かた ) ですから、田島さんの塾は前からきらいでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」

 といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は貞世を抱いたまましゃん[#「しゃん」に傍点]と胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、たとえばばら[#「ばら」に傍点]ばらと投げられるつぶて[#「つぶて」に傍点]を避けようともせずに突っ立つ人のように。

 古藤は何か自分 一人 ( ひとり ) で合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の目八 ( ) の所をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめた。

 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間でいちばん早くきげんを直して 相好 ( そうごう ) を変えたのは 五十川 ( いそがわ ) 女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさく[#「きさく」に傍点]に立ちじたくをしながら、

 「皆さんいかが、もうお ( いとま ) にいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」

 「お祈りをわたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」

 葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに 頓着 ( とんじゃく ) なく、壁に向けていた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の 艶々 ( つやつや ) しい顔をなでさすりながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい放った。

 人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつのまにか ( ひざ ) の上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。

 最後の客が帰って行ったあとでも、 叔父叔母 ( おじおば ) は二階を片づけには上がってこなかった。 挨拶 ( あいさつ ) 一つしようともしなかった。葉子は窓のほうに頭を向けて、 煉瓦 ( れんが ) の通りの上にぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と立つ ( ) の照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。 間遠 ( まどお ) に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、 釘店 ( くぎだな ) の人通りは寂しいほどまばらになっていた。

 姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。

 「愛さん…… ( さあ ) ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」

 われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。 ( しょう ) が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけても ( ねこ ) のように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように 素直 ( すなお ) に立ち上がって、 ( はな ) をすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の 書棚 ( しょだな ) のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。

 「ねえさま敷けました」

 しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、

 「そう御苦労さまよ」

 とまたしとやかに ( こた ) えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。