University of Virginia Library

    一〇

 始めての旅客も物慣れた旅客も、 抜錨 ( ばつびょう ) したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために ( せわ ) しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられないような顔つきをして、乗客は 一人 ( ひとり ) 残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように 手欄 ( てすり ) によりかかって、静かな 春雨 ( はるさめ ) のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、 波止場 ( はとば ) のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間と ( おぼ ) しいあたりを、親しい人や ( うと ) い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。

 若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの 因縁 ( いんねん ) もないのに 執念 ( しゅうね ) く付きまつわるのだろうと葉子は 他人事 ( ひとごと ) のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽた[#「ぽた」に傍点]ぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、 虹色 ( にじいろ ) にきらきらと ( ともえ ) を描いて飛び ( おど ) った。

 「……わたしを見捨てるん……」

 葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっ[#「ふっ」に傍点]とあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた 赤児 ( あかご ) が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば 悠々 ( ゆうゆう ) 閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙 一重 ( ひとえ ) ( さかい ) も置かず、たぎり返って ( うず ) 巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを 他人事 ( ひとごと ) のようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、 手欄 ( てすり ) によりかかってじっ[#「じっ」に傍点]と立っていた。

 「田川法学 博士 ( はかせ )

 葉子はまたふといたずら者らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の ( げん ) 籐椅子 ( とういす ) に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か 戯談口 ( じょうだんぐち ) でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が ( ) み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員の事がはっ[#「はっ」に傍点]と思い出されて、今まで ( めし ) いていたような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような目を見開いたまま、船員の濃い ( まゆ ) から黒い 口髭 ( くちひげ ) のあたりを見守っていた。

 船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。 舷側 ( げんそく ) から吐き出される捨て水の音がざあ[#「ざあ」に傍点]ざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一 ( そく ) 飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とほんとうに驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの 一人 ( ひとり ) の男を見やった。

 「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」

 といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。

 「お 一人 ( ひとり ) ですな」

 塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。

 船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分のそばに一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には 無頓着 ( むとんじゃく ) にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと ( けぶ ) った 霧雨 ( きりさめ ) のかなたさえ見とおせそうに目がはっきり[#「はっきり」に傍点]して、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は 傍若無人 ( ぼうじゃくぶじん ) 衣嚢 ( かくし ) の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて ( まゆ ) をしかめながら、 ( えり ) の折り返しについたしみを、親指の ( つめ ) でごしごしと削ってははじいていた。

 葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく 大股 ( おおまた ) ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと 手欄 ( てすり ) から離れて自分の船室のほうに 階子段 ( はしごだん ) を降りて行こうとした。

 「どこにおいでです」

 後ろから、葉子の頭から 爪先 ( つまさき ) までを小さなものででもあるように、一目に ( ) めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、

 「船室まで参りますの」

 と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の 目論見 ( もくろみ ) に反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は 大股 ( おおまた ) で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、

 「 船室 ( カビン ) ならば 永田 ( ながた ) さんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の 部屋 ( へや ) より少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」

 といいながら葉子をすり抜けて先に立った。何か 芳醇 ( ほうじゅん ) な酒のしみ[#「しみ」に傍点]と 葉巻煙草 ( シガー ) とのにおいが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしん[#「どしん」に傍点]どしんと狭い 階子段 ( はしごだん ) を踏みしめながら降りて行くその男の太い首から広い肩のあたりをじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらそのあとに続いた。

 二十四五脚の 椅子 ( いす ) が食卓に背を向けてずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならべてある食堂の中ほどから、 横丁 ( よこちょう ) のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた 頑丈 ( がんじょう ) 真鍮 ( しんちゅう ) の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた 漆塗 ( うるしぬ ) りの札が下がっていた。船員はつか[#「つか」に傍点]つかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、

 「おい十二番はすっかり[#「すっかり」に傍点] 掃除 ( そうじ ) ができたろうね」

 というと、医務室の中からは女のような声で、

 「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」

 と船医は姿を見せずに答えた。

 「こりゃいったい船医の 私室 ( プライベート ) なんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」

 船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。

 「むゝ、いいようです」

 そして道を開いて、 衣嚢 ( かくし ) から「日本郵船会社 絵島丸 ( えじままる ) 事務長勲六等 倉地三吉 ( くらちさんきち ) 」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、

 「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」

 葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の 部屋 ( へや ) ときめられたその部屋の高い ( しきい ) を越えようとすると、

 「事務長さんはそこでしたか」

 と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って 挨拶 ( あいさつ ) しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつか[#「つか」に傍点]つかと寄って来て 眼鏡 ( めがね ) の奥から小さく光る目でじろり[#「じろり」に傍点]と見やりながら、

 「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」

 といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で 二十日鼠 ( はつかねずみ ) のようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく 下手 ( したで ) に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、

 「こんな所まで……恐れ入ります。わたし 早月葉 ( さつきよう ) と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」

 といってひとみを稲妻のように田川に移して、

 「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」

 とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、

 「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。 何しろこの船の中には女は 二人 ( ふたり ) ぎりだからお互いです」

 とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、

 「チャイニース・ステアレージには 何人 ( なんにん ) ほどいますか日本の女は」

 と問いかけた。事務長は例の塩から声で

 「さあ、まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかり[#「しっかり」に傍点]とはわかり兼ねますが、何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは ( ) ける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」

 「まあそんなに荒れますか」

 と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、

 「 ( ) けますんだずいぶん」

 と今度は葉子のほうをまともに見やってほほえみながら、おりから 部屋 ( へや ) を出て来た 興録 ( こうろく ) という船医を三人に引き合わせた。

 田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような 船室 ( カビン ) には、きょうの雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むし[#「むし」に傍点]むしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい 寝台 ( バース ) を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた 箪笥 ( たんす ) の上には、 果物 ( くだもの ) のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は 襟前 ( えりまえ ) をくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を 束髪 ( そくはつ ) にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる 千代 ( ちよ ) より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い 嫉妬 ( しっと ) なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくり[#「からくり」に傍点]だと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽい[#「ぽい」に傍点]とそれを床の上にほうりなげた。 一人 ( ひとり ) の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り ( がお ) だった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。

 寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から 浴衣 ( ゆかた ) を取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず 羞恥 ( しゅうち ) から顔を赤らめて、引き出した 派手 ( はで ) な浴衣を ( たて ) に、しだらなく脱ぎかけた 長襦袢 ( ながじゅばん ) の姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を ( しゃ ) にして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して、はいろうにも出ようにも所在に窮して、 ( しきい ) に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。

 「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」

 と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、

 「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお ( まくら ) の下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」

 といいながら 衣嚢 ( かくし ) から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、

 「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」

 といいながらそれをつき出した。

 興録は何かいいわけのような事をいって 部屋 ( へや ) を出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっ[#「はっ」に傍点]となって、思わず着かえかけた着物の 衣紋 ( えもん ) に左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっ[#「さっ」に傍点]とあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、

 「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて 葉巻 ( はまき ) をくわえたままの口ごもりのする言葉で、

 「もうじき 検疫 ( けんえき ) 船だ。準備はいいだろうな」

 といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にも ( かよ ) って来た。

 葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてあたりを見回したが、われに返って自分 一人 ( ひとり ) きりなのに 安堵 ( あんど ) して、いそいそと着物を着かえ始めた。