University of Virginia Library

    一八

 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に"Car to the Town.Fare 15¢"と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の 眼窓 ( めまど ) から見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの 苦力 ( クリー ) がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に 騒々 ( そうぞう ) しくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の 部屋 ( へや ) に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽き ( ) った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝って ( かぶと ) を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。

 けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく 良人 ( おっと ) を持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と 容貌 ( ようぼう ) とを持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、 二人 ( ふたり ) に近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心ともいえないほどの野心――もう一ついい ( ) ゆれば、葉子の記憶に親切な男として、 勇悍 ( ゆうかん ) な男として、 美貌 ( びぼう ) な男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事のできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して 疎々 ( よそよそ ) しい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれなのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目をさまして 甲板 ( かんぱん ) に出て見ると、いつものように 手欄 ( てすり ) によりかかって、もう内海になった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場をはずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたびだった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。

 結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう 無頓着 ( むとんじゃく ) だった。もう船はきょうシヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の ( もと ) 苦々 ( にがにが ) しい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。

 しかし船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは 同棲 ( どうせい ) していなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。

 葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今 瀬戸内 ( せとうち ) のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアで ( やと ) い入れた 水先 ( みずさき ) 案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔をまっ ( ) にしながら帽子を取って 挨拶 ( あいさつ ) した。ビスマークのような顔をして、船長より ( ひと ) がけも ( ふた ) がけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見たが、そのまま向き直って、

 「Charmin' little lassie ! wha' is that ?」

 とスコットランド ( ふう ) な強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりでいったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。

 その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は 小動 ( こゆる ) ぎもせずにアメリカ松の ( ) え茂った大島小島の間を縫って、 舷側 ( げんそく ) に来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとした ( みさき ) をくるり[#「くるり」に傍点]と船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずした ( がけ ) の土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、 生々 ( なまなま ) しい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての 家並 ( やな ) みが、けわしい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとん[#「かったんこっとん」に傍点]とのんきらしく音を立てて回っていた。 ( かもめ ) が群れをなして ( ねこ ) に似た声でなきながら、船のまわりを水に近くのどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。 飴屋 ( あめや ) の呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。 放埒 ( ほうらつ ) な、移り ( ) な、想像も及ばぬパッションにのたうち回ってうめき悩むあの 大海原 ( おおうなばら ) ――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水の ( しわ ) を見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。

 「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」

 すぐ下で事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、うれしさに心をときめかせながら、船橋の 手欄 ( てすり ) から下を見おろした。そこに事務長が立っていた。

 「One more over there,look!」

 こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。

 船はまもなくこの漁村を出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。

 「Here we are! Seatle is as good as reached now.」

 船長にともなく葉子にともなくいって置いて、水先案内と握手しながら、

 「Thanks to you.」

 と付け足した。そして三人でしばらく快活に 四方山 ( よもやま ) の話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、

 「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」

 といった。葉子は船長にちょっと 挨拶 ( あいさつ ) を残して、すぐ事務長のあとに続いた。 階子段 ( はしごだん ) を降りる時でも、目の先に見える 頑丈 ( がんじょう ) な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に ( せま ) る事はもうなかった。自分の 部屋 ( へや ) の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸をあけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた 煙草 ( たばこ ) の煙の中に所狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。

 それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な 椅子 ( いす ) に腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに 一人 ( ひとり ) 腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には 一目 ( いちもく ) 置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「 姉御 ( あねご ) 」扱いにしていた。

 「向こうに着いたらこれで 悶着 ( もんちゃく ) ものだぜ。田川の ( かかあ ) め、あいつ、 一味噌 ( ひとみそ ) すらずにおくまいて」

 「 因業 ( いんごう ) な生まれだなあ」

 「なんでも正面からぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」

 などと彼らは 戯談 ( じょうだん ) ぶった口調で 親身 ( しんみ ) な心持ちをいい現わした。事務長は ( まゆ ) も動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は 甲斐絹 ( かいき ) のどてら[#「どてら」に傍点]を着ていた。

 「このままこの船でお帰りなさるがいいね」

 とそのどてら[#「どてら」に傍点]を着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔を ( うかが ) い窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして 物懶 ( ものう ) げに葉子を見やりながら、

 「わたしもそう思うんだがどうだ」

 とたずねた。葉子は、

 「さあ……」

 と 生返事 ( なまへんじ ) をするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかは[#「とっかは」に傍点]物をいうのがさすがに 億劫 ( おっくう ) だった。興録は事務長の意向を読んで取ると、 分別 ( ふんべつ ) ぶった顔をさし出して、

 「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういうからだでは 検疫 ( けんえき ) がとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」

 「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、 味噌 ( みそ ) さえしこたますってくれればいちばんええのだが」

 と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいってのけた。

 木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better half を持ちうると信じている」といった事を聞いている。東北人のねんじりむっつり[#「ねんじりむっつり」に傍点]したその気象が、葉子には第一我慢のしきれない 嫌悪 ( けんお ) の種だったのだ。

 葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、

 「興録さん、そうおっしゃればわたし 仮病 ( けびょう ) じゃないんですの。この間じゅうから ( ) ていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……お ( なか ) のここが妙に時々痛むんですのよ」

 というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。

 「まあ ( しお ) の悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後ほど ( ) ていただけて?」

 事務長の相談というのはこんなたわいもない事で済んでしまった。

  二人 ( ふたり ) きりになってから、

 「ではわたしこれからほんとうの病人になりますからね」

 葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに触れた。そしてシヤトルの市街から起こる 煤煙 ( ばいえん ) が遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い 寝衣 ( ねまき ) に着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。 戯談 ( じょうだん ) のようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が 激昂 ( げきこう ) したりしたあとでは、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶりかで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が 痲痺 ( まひ ) したり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽い ( いた ) みのある所をそっ[#「そっ」に傍点]と平手でさすりながら、船がシヤトルの 波止場 ( はとば ) に着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいいせっせ[#「せっせ」に傍点]と手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて置かなければ、 目論見 ( もくろみ ) どおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。

 まずきのう着た 派手 ( はで ) な衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまいこんだ。 ( ) る時まで着ていた着物は、わざとはなやかな 長襦袢 ( ながじゅばん ) や裏地が見えるように 衣紋竹 ( えもんだけ ) に通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧に ( ) ( ) しに隠した。 古藤 ( ことう ) が木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、 ( まくら ) の下に差しこんだ。鏡の前には 二人 ( ふたり ) の妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を 調 ( ととの ) えるように頼んだ。興録の持って来た薬びんから薬を半分がた 痰壺 ( たんつぼ ) に捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。 ( にお ) いまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。

 葉子は ( せわ ) しく働かしていた手を休めて、 部屋 ( へや ) のまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。 ( ふる ) い記憶が ( こう ) のようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。

 フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりとよどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく 物懶 ( ものう ) かった。

 食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうに ( ) ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを 埠頭 ( ふとう ) に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、 ( ひざ ) に抱き上げて 愛撫 ( あいぶ ) してやる母親にもはぐれたあの子は今あの ( いけ ) ( はた ) のさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、 ( まくら ) もとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んで ( かな ) しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこう ( かな ) しく 一人 ( ひとり ) ぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかり[#「しっかり」に傍点]すがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い 際涯 ( はてし ) のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、どんよりと広がっていた。生を ( のろ ) うよりも死が願われるような思いが、 ( せま ) るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果ては ( まくら ) に顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。

 こうして 小半時 ( こはんとき ) もたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は 物懶 ( ものう ) げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らが ( つな ) ( づな ) を受けたりやったりする音と、 鋲釘 ( びょうくぎ ) を打ちつけた ( くつ ) 甲板 ( かんぱん ) を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。

 と突然戸外で事務長の、

 「ここがお 部屋 ( へや ) です」

 という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]となった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがば[#「がば」に傍点]と伏さってしまった。

 戸があいた。

 「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして 息気 ( いき ) もとまるほど身内がしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]ばってしまっていた。

 「 早月 ( さつき ) さん、木村さんが見えましたよ」

 事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。

 「葉子さん」

 木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく 二人 ( ふたり ) の顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人に ( うし ) ろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。

 「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を…… 後生 ( ごしょう ) ですから今この部屋を……出てくださいまし……」

 木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と 嫌悪 ( けんお ) とのために身をちぢめて壁にしがみついた。

 「痛い……いけません……お ( なか ) が……早く出て……早く……」

 事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも 息気 ( いき ) ( ) ( ) えに、

 「どうぞ出て……あっちに行って……」

 といいながら、いつまでも泣き続けた。