University of Virginia Library

    五

 郵船会社の永田は夕方でなければ会社から 退 ( ) けまいというので、葉子は宿屋に西洋物店のものを呼んで、必要な買い物をする事になった。古藤はそんならそこらをほッつき[#「ほッつき」に傍点]歩いて来るといって、例の 麦稈 ( むぎわら ) 帽子を帽子掛けから取って立ち上がった。葉子は思い出したように肩越しに振り返って、

 「あなたさっきパラソルは骨が五本のがいいとおっしゃってね」

 といった。古藤は冷淡な調子で、

 「そういったようでしたね」

 と答えながら、何か他の事でも考えているらしかった。

 「まあそんなにとぼけて……なぜ五本のがお好き?」

 「僕が好きというんじゃないけれども、あなたはなんでも人と違ったものが好きなんだと思ったんですよ」

 「どこまでも人をおからかいなさる……ひどい事……行っていらっしゃいまし」

 と情を迎えるようにいって向き直ってしまった。古藤が縁側に出るとまた突然呼びとめた。 障子 ( しょうじ ) にはっきり[#「はっきり」に傍点]立ち姿をうつしたまま、

 「なんです」

 といって古藤は立ち ( もど ) る様子がなかった。葉子はいたずら者らしい笑いを口のあたりに浮かべていた。

 「あなたは木村と学校が同じでいらしったのね」

 「そうですよ、級は木村の……木村君のほうが二つも上でしたがね」

 「あなたはあの人をどうお思いになって」

 まるで少女のような無邪気な調子だった。古藤はほほえんだらしい語気で、

 「そんな事はもうあなたのほうがくわしいはずじゃありませんか…… ( しん ) のいい活動家ですよ」

 「あなたは?」

 葉子はぽん[#「ぽん」に傍点]と 高飛車 ( たかびしゃ ) に出た。そしてにやり[#「にやり」に傍点]としながらがっくり[#「がっくり」に傍点]と顔を上向きにはねて、床の間の 一蝶 ( いっちょう ) のひどい ( まが ) ( もの ) を見やっていた。古藤がとっさの返事に窮して、少しむっ[#「むっ」に傍点]とした様子で答え渋っているのを見て取ると、葉子は今度は声の調子を落として、いかにもたよりないというふうに、

 「日盛りは暑いからどこぞでお休みなさいましね。……なるたけ早く帰って来てくださいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんな所で心細うござんすから……よくって」

 古藤は何か平凡な返事をして、縁板を踏みならしながら出て行ってしまった。

 朝のうちだけからっ[#「からっ」に傍点]と破ったように晴れ渡っていた空は、午後から曇り始めて、まっ白な雲が太陽の面をなでて通るたびごとに暑気は薄れて、空いちめんが灰色にかき曇るころには、膚寒く思うほどに初秋の気候は激変していた。 時雨 ( しぐれ ) らしく照ったり降ったりしていた雨の ( あし ) も、やがてじめじめと降り続いて、煮しめたようなきたない 部屋 ( へや ) の中は、ことさら 湿 ( しと ) りが強く来るように思えた。葉子は居留地のほうにある外国人相手の洋服屋や小間物屋などを呼び寄せて、思いきったぜいたくな買い物をした。買い物をして見ると葉子は自分の 財布 ( さいふ ) のすぐ貧しくなって行くのを ( おそ ) れないではいられなかった。葉子の父は日本橋ではひとかどの 門戸 ( もんこ ) を張った医師で、収入も相当にはあったけれども、理財の道に全く暗いのと、妻の 親佐 ( おやさ ) が婦人同盟の事業にばかり奔走していて、その並み並みならぬ才能を、少しも家の事に用いなかったため、その死後には借金こそ残れ、遺産といってはあわれなほどしかなかった。葉子は 二人 ( ふたり ) の妹をかかえながらこの苦しい境遇を切り抜けて来た。それは葉子であればこそし ( おお ) せて来たようなものだった。だれにも貧乏らしいけしきは露ほども見せないでいながら、葉子は始終貨幣一枚一枚の重さを計って支払いするような注意をしていた。それだのに目の前に異国情調の豊かな 贅沢品 ( ぜいたくひん ) を見ると、彼女の 貪欲 ( どんよく ) は甘いものを見た子供のようになって、前後も忘れて懐中にありったけの買い物をしてしまったのだ。使いをやって 正金 ( しょうきん ) 銀行で換えた金貨は今 鋳出 ( いだ ) されたような光を放って懐中の底にころがっていたが、それをどうする事もできなかった。葉子の心は急に暗くなった。戸外の天気もその心持ちに 合槌 ( あいづち ) を打つように見えた。古藤はうまく永田から切符をもらう事ができるだろうか。葉子自身が行き得ないほど葉子に対して反感を持っている永田が、あの単純なタクトのない古藤をどんなふうに扱ったろう。永田の口から古藤はいろいろな葉子の過去を聞かされはしなかったろうか。そんな事を思うと葉子は 悒鬱 ( ゆううつ ) が生み出す反抗的な気分になって、湯をわかさせて入浴し、寝床をしかせ、最上等の 三鞭酒 ( シャンペン ) を取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。

 夜になったら泊まり客があるかもしれないと女中のいった五つの 部屋 ( へや ) はやはり ( から ) のままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく目をさまして、仰向いたまま、すすけた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりとながめていた。

 その時じたッ[#「じたッ」に傍点]じたッとぬれた足で 階子段 ( はしごだん ) をのぼって来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側を伝って来たが、ふと立ち止まると大きな声で 帳場 ( ちょうば ) のほうにどなった。

 「早く雨戸をしめないか……病人がいるんじゃないか。……」

 「この寒いのになんだってあなたも言いつけないんです」

 今度はこう葉子にいいながら、建て付けの悪い障子をあけていきなり[#「いきなり」に傍点]中にはいろうとしたが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]と驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。

 香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にした暖かいいきれ[#「いきれ」に傍点]がいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋のすみずみまでは見えないが、光の照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽根や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、 郡内 ( ぐんない ) のふとんの上に 掻巻 ( かいまき ) をわきの下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、はでな 長襦袢 ( ながじゅばん ) 一つで東ヨーロッパの 嬪宮 ( ひんきゅう ) の人のように、 片臂 ( かたひじ ) をついたまま横になっていた。そして入浴と酒とでほんのり[#「ほんのり」に傍点]ほてった顔を仰向けて、大きな目を夢のように見開いてじっ[#「じっ」に傍点]と古藤を見た。その ( まくら ) もとには 三鞭酒 ( シャンペン ) のびんが本式に氷の中につけてあって、飲みさしのコップや、 華奢 ( きゃしゃ ) な紙入れや、かのオリーヴ色の包み物を、しごき[#「しごき」に傍点]の赤が火の ( くちなわ ) のように取り巻いて、その端が指輪の二つはまった大理石のような葉子の手にもてあそばれていた。

 「お ( おそ ) うござんした事。お待たされなすったんでしょう。……さ、おはいりなさいまし。そんなもの足ででもどけてちょうだい、散らかしちまって」

 この音楽のようなすべすべした調子の声を聞くと、古藤は始めて illusion から目ざめたふうではいって来た。葉子は左手を二の腕がのぞき出るまでずっ[#「ずっ」に傍点]と延ばして、そこにあるものを 一払 ( ひとはら ) いに払いのけると、花壇の土を掘り起こしたようにきたない畳が半畳ばかり現われ出た。古藤は自分の帽子を部屋のすみにぶちなげて置いて、払い残された 細形 ( ほそがた ) の金鎖を片づけると、どっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいて正面から葉子を見すえながら、

 「行って来ました。船の切符もたしかに受け取って来ました」

 といってふところの中を探りにかかった。葉子はちょっと改まって、

 「ほんとにありがとうございました」

 と頭を下げたが、たちまち roughish な目つきをして、

 「まあそんな事はいずれあとで、ね、……何しろお寒かったでしょう、さ」

 といいながら飲み残りの酒を盆の上に無造作に捨てて、二三度左手をふってしずくを切ってから、コップを古藤にさしつけた。古藤の目は何かに 激昂 ( げきこう ) しているように輝いていた。

 「僕は飲みません」

 「おやなぜ」

 「飲みたくないから飲まないんです」

 この ( かど ) ばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子にも意外だった。それでそのあとの言葉をどう継ごうかと、ちょっとためらって古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみかけて口をきった。

 「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思いきって尊大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はないが、とにかくあずかって置いて、いずれ直接あなたに手紙でいってあげるから、早く帰れっていうんです、頭から。失敬なやつだ」

 葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思った。そしてまっしぐらに何かいい出そうとすると、古藤はおっかぶせるように言葉を続けて、

 「あなたはいったいまだ腹が痛むんですか」

 ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって堅くすわり直した。しかしその時に葉子の陣立てはすでにでき上がっていた。初めのほほえみをそのままに、

 「えゝ、少しはよくなりましてよ」

 といった。古藤は 短兵急 ( たんぺいきゅう ) に、

 「それにしてもなかなか元気ですね」

 とたたみかけた。

 「それはお薬にこれを少しいただいたからでしょうよ」

 と 三鞭酒 ( シャンペン ) を指さした。

 正面からはね返された古藤は黙ってしまった。しかし葉子も勢いに乗って追い迫るような事はしなかった。 矢頃 ( やごろ ) を計ってから語気をかえてずっ[#「ずっ」に傍点]と 下手 ( したで ) になって、

 「妙にお思いになったでしょうね。わるうございましてね。こんな所に来ていて、お酒なんか飲むのはほんとうに悪いと思ったんですけれども、気分がふさいで来ると、わたしにはこれよりほかにお薬はないんですもの。さっきのように苦しくなって来ると私はいつでも湯を熱めにして ( はい ) ってから、お酒を飲み過ぎるくらい飲んで寝るんですの。そうすると」

 といって、ちょっといいよどんで見せて、

 「十分か二十分ぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]寝入るんですのよ……痛みも何も忘れてしまっていい心持ちに……。それから急に頭がかっ[#「かっ」に傍点]と痛んで来ますの。そしてそれと一緒に気がめいり出して、もうもうどうしていいかわからなくなって、子供のように泣きつづけると、そのうちにまた眠たくなって一寝入りしますのよ。そうするとそのあとはいくらかさっぱり[#「さっぱり」に傍点]するんです。……父や母が死んでしまってから、頼みもしないのに親類たちからよけいな世話をやかれたり、 他人力 ( ひとぢから ) なんぞをあてにせずに妹 二人 ( ふたり ) を育てて行かなければならないと思ったりすると、わたしのような、 他人様 ( ひとさま ) と違って 風変 ( ふうが ) わりな、……そら、五本の骨でしょう」

 とさびしく笑った。

 「それですものどうぞ 堪忍 ( かんにん ) してちょうだい。思いきり泣きたい時でも知らん顔をして笑って通していると、こんなわたしみたいな気まぐれ者になるんです。気まぐれでもしなければ生きて行けなくなるんです。男のかたにはこの心持ちはおわかりにはならないかもしれないけれども」

 こういってるうちに葉子は、ふと木部との恋がはかなく破れた時の、われにもなく身にしみ渡るさびしみや、死ぬまで日陰者であらねばならぬ私生子の定子の事や、計らずもきょうまのあたり見た木部の、 ( しん ) からやつれた面影などを思い起こした。そしてさらに、母の死んだ夜、日ごろは見向きもしなかった親類たちが寄り集まって来て、 早月家 ( さつきけ ) には毛の末ほども同情のない心で、早月家の善後策について、さも重大らしく勝手気ままな事を親切ごかしにしゃべり[#「しゃべり」に傍点]散らすのを聞かされた時、どうにでもなれという気になって、 ( あば ) れ抜いた事が、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中を矢のように早くひらめき通った。葉子の顔には人に譲ってはいない自信の色が現われ始めた。

 「母の 初七日 ( しょなぬか ) の時もね、わたしはたて続けにビールを何杯飲みましたろう。なんでもびんがそこいらにごろごろころがりました。そしてしまいには何がなんだか夢中になって、宅に出入りするお医者さんの ( ひざ ) ( まくら ) に、泣き寝入りに寝入って、 夜中 ( よなか ) をあなた二時間の ( ) も寝続けてしまいましたわ。親類の人たちはそれを見ると一人帰り二人帰りして、相談も何もめちゃくちゃになったんですって。母の写真を前に置いといて、わたしはそんな事までする人間ですの。おあきれになったでしょうね。いやなやつでしょう。あなたのような方から御覧になったら、さぞいやな気がなさいましょうねえ」

 「えゝ」

 と古藤は目も動かさずにぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に答えた。

 「それでもあなた」

 と葉子は ( せつ ) なさそうに半ば起き上がって、

 「 外面 ( うわつら ) だけで人のする事をなんとかおっしゃるのは少し残酷ですわ。……いゝえね」

 と古藤の何かいい出そうとするのをさえぎって、今度はきっ[#「きっ」に傍点]とすわり直った。

 「わたしは泣き ( ごと ) をいって 他人様 ( ひとさま ) にも泣いていただこうなんて、そんな事はこれんばかりも思やしませんとも……なるならどこかに 大砲 ( おおづつ ) のような大きな力の強い人がいて、その人が真剣に ( おこ ) って、葉子のような 人非人 ( にんぴにん ) はこうしてやるぞといって、わたしを押えつけて心臓でも頭でもくだけて飛んでしまうほど 折檻 ( せっかん ) をしてくれたらと思うんですの。どの人もどの人もちゃん[#「ちゃん」に傍点]と自分を忘れないで、いいかげんに ( おこ ) ったり、いいかげんに泣いたりしているんですからねえ。なんだってこう 生温 ( なまぬる ) いんでしょう。

  義一 ( ぎいち ) さん(葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時が始めてだった)あなたがけさ、 ( しん ) の正直ななんとかだとおっしゃった木村に縁づくようになったのも、その晩の事です。 五十川 ( いそがわ ) が親類じゅうに賛成さして、晴れがましくもわたしをみんなの前に引き出しておいて、罪人にでもいうように宣告してしまったのです。わたしが一口でもいおうとすれば、五十川のいうには母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたがおっしゃったような人間ね。仙台であんな事があったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母のほうはなんとかしようが娘のほうは保証ができないとおっしゃったんですとさ」

 いい知らぬ 侮蔑 ( ぶべつ ) の色が葉子の顔にみなぎった。

 「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめおめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですの。

 母だけがいい人になればだれだってわたしを……そうでしょう。そのあげくに木村はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとわたしを妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物の ( たと ) えがですわ。それとも言葉ではなんといってもむだだから、実行的にわたしの潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」

 そういって 激昂 ( げきこう ) しきった葉子はかみ捨てるようにかん ( だか ) くほゝ[#「ほゝ」に傍点]と笑った。

 「いったいわたしはちょっとした事で好ききらいのできる悪い ( たち ) なんですからね。といってわたしはあなたのような ( ) 一本でもありませんのよ。

 母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて 地道 ( じみち ) に暮らさなければ母の名誉をけがす事になる。妹だって裸でお嫁入りもできまいといわれれば、わたし 立派 ( りっぱ ) に木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。

 こんな事をあなたの前でいってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、 真直 ( まっすぐ ) なあなただと思いますから、わたしもその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。わたしの性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいるわたしがこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なくおっしゃってください。

 あゝいやだった事。義一さん、わたしこんな事はおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たようなさびしい気になってしまって……」

  弓弦 ( ゆづる ) を切って放したように言葉を消して葉子はうつむいてしまった。日はいつのまにかとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に 湿 ( しと ) った夜風が細々と ( かよ ) って来て、湿気でたるんだ障子紙をそっ[#「そっ」に傍点]とあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などをながめ回して、なんと返答をしていいのか、いうべき事は腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。 部屋 ( へや ) 息気 ( いき ) 苦しいほどしん[#「しん」に傍点]となった。

 葉子は自分の言葉から、その時のありさまから、妙にやる瀬ないさびしい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめてほしいようなたよりなさを感じた。そして横腹に深々と手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はややしばらくしてから何か決心したらしくまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見ようとしたが、葉子の ( せつ ) なさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをしてわれ知らず葉子のほうにいざり寄った。葉子はすかさず ( ひょう ) のようになめらかに身を起こしていち早くもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、

 「義一さん」

 と震えを帯びていった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、

 「木村はそんな人間じゃありませんよ」

 とだけいって黙ってしまった。

 だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前のてっせん[#「てっせん」に傍点]の ( つる ) のように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。

 しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目にたまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから立ち上がりざま、

 「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」

 といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっ[#「ちらっ」に傍点]と宿ったのを感じながら、障子を細目にあけて手をならした。

 葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない 没情漢 ( わからずや ) と見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせる事のできない人間にして見たくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の 蠱惑力 ( チャーム ) で掘り起こして見たくってたまらなくなった。

  気取 ( けど ) られない範囲で葉子があらん限りの ( なぞ ) を与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に 宿 ( とま ) ってくれといい出した。しかし古藤は ( がん ) としてきかなかった。そして自分で出かけて行って、 ( しな ) もあろう事かまっ ( ) 毛布 ( もうふ ) を一枚買って帰って来た。葉子はとうとう ( ) を折って最終列車で東京に帰る事にした。

 一等の客車には 二人 ( ふたり ) のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした 目論見 ( もくろみ ) に失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤の ( ひざ ) のそばで毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。

 新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台 ( やと ) って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝にほうり出して、左の ( びん ) をやさしくかき上げながら、

 「きょうのお立て替えをどうぞその中から……あすはきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」

 といって自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを取る気づかいのないのを承知していた。