University of Virginia Library

    三

 その木部の目は 執念 ( しゅうね ) くもつきまつわった。しかし葉子はそっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に乗らなかったのだろう。こういう事がきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそういおうとしたのだのに、気がきかないっちゃないと思うと、近ごろになく起きぬけからさえざえしていた気分が、沈みかけた秋の日のように陰ったりめいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳のすきまというすきまをかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードがおろしてあって、例の四十三四の男が厚い口びるをゆるくあけたままで、ばかな顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっ[#「むっ」に傍点]としてその男の ( ひたい ) から鼻にかけたあたりを、遠慮もなく 発矢 ( はっし ) と目でむちうった。商人は、ほんとうにむちうたれた人が泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめかたをして、さすがに顔をそむけてしまった。その 意気地 ( いくじ ) のない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に目を移せば三四人先に木部がいた。その鋭い小さな目は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに 激昂 ( げきこう ) した神経を両手に集めて、その両手を握り合わせて ( ひざ ) の上のハンケチの包みを押えながら、 下駄 ( げた ) の先をじっ[#「じっ」に傍点]と見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が 隣座 ( となりざ ) にいるのさえ、一種の苦痛だった。その 瞑想的 ( めいそうてき ) な無邪気な態度が、葉子の内部的経験や 苦悶 ( くもん ) と少しも縁が続いていないで、 二人 ( ふたり ) の間には 金輸際 ( こんりんざい ) 理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の 境界 ( きょうがい ) に、そっとうかがい寄ろうとする 探偵 ( たんてい ) をこの青年に見いだすように思って、その五 分刈 ( ぶが ) りにした 地蔵頭 ( じぞうあたま ) までが顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。

 やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。

 なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない 臆病 ( おくびょう ) な男に自分はさっき ( ) びを見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を ( まなじり ) ( かえ ) して退けたのだ。

 やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。

 この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた 二人 ( ふたり ) の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を 深々 ( ふかぶか ) と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、

 「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」

 と捨てるように古藤にいい残して、いきなり[#「いきなり」に傍点]繰り戸をあけてデッキに出た。

 だいぶ高くなった日の光がぱっと 大森田圃 ( おおもりたんぼ ) に照り渡って、海が笑いながら光るのが、並み木の向こうに広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い 瞑眩 ( めまい ) をさえ覚えるほどだった。鉄の 手欄 ( てすり ) にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が ( あか ) らさまに現われていた。

 「ひどく痛むんですか」

 「ええかなりひどく」

 と答えたがめんどうだと思って、

 「いいからはいっていてください。おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」

 といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。そして、

 「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」

 とだけいって 素直 ( すなお ) にはいって行った。

 「Simpleton!」

 葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞは忘れてしまって、 手欄 ( てすり ) ( ひじ ) をついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑や ( あい ) や黄色のほか、これといって輪郭のはっきり[#「はっきり」に傍点]した自然の姿も目に映らない。ただ涼しい風がそよそよと ( びん ) の毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ 渾沌 ( こんとん ) と暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を立てて、汽車は 六郷川 ( ろくごうがわ ) の鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として夢からさめたように前を見ると、 ( ) ( ばし ) の鉄材が 蛛手 ( くもで ) になって上を下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を 退 ( ) いて、 両袖 ( りょうそで ) で顔を ( おさ ) えて物を念じるようにした。

 そうやって気を静めようと目をつぶっているうちに、まつ毛を通し袖を通して木部の顔とことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の神経は 磁石 ( じしゃく ) に吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。 田圃 ( たんぼ ) のここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子は ( そで ) を顔から放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。 所々 ( ところどころ ) に火が燃えるようにその看板は目に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が 経巻 ( きょうかん ) を持っているのがあった。その胸に書かれた「 中将湯 ( ちゅうじょうとう ) 」という文字を、 ( なに ) げなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。

 その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から ( ひげ ) が消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的な ( あたた ) かみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の 光沢 ( つや ) は、神経的な青年の 蒼白 ( あおじろ ) い膚の色となって、黒く光った ( やわ ) らかい ( つむり ) の毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり[#「はっきり」に傍点]見え始めた。列車はすでに 川崎 ( かわさき ) 停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし ( おお ) さねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように 恍惚 ( うっとり ) とした顔つきで、思わず知らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて―― ( やわ ) らかい ( びん ) ( おく ) ( ) をかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする 姿態 ( しな ) である。

 この時、繰り戸がけたたましくあいたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。

 しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを 羽織 ( はお ) った木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっ[#「はっ」に傍点]と処女の血を ( ) ったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、 二人 ( ふたり ) の目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間 燕返 ( つばめがえ ) しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な 驕慢 ( きょうまん ) な光をそのひとみから 射出 ( いだ ) したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく ( むく ) い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に 濶歩 ( かっぽ ) して改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を ( まゆ ) の間にみなぎらしながら、振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより 侮蔑 ( ぶべつ ) 一瞥 ( いちべつ ) をも与えなかった。

 木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっ[#「じっ」に傍点]とその後ろ姿を ( ) いかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。

 「また会う事があるだろうか」

 葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。