University of Virginia Library

    一六

 葉子はほんとうに死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに 泥酔 ( でいすい ) して、事務長の 部屋 ( へや ) から足もとも定まらずに自分の船室に ( もど ) って来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にぶっ倒れた。目のまわりに薄黒い ( かさ ) のできたその顔は鈍い鉛色をして、 瞳孔 ( どうこう ) は光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの口びるからもれる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の付け根までみなぎっていた。 雪解時 ( ゆきげどき ) の泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちん[#「こちん」に傍点]とよどんでいるばかりだった。

 葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわばたえきれぬほどの ( せつ ) なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目をさましそうになったり、意識の 仮睡 ( かすい ) に陥ったりした。猛烈な 胃痙攣 ( いけいれん ) を起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、 間歇的 ( かんけつてき ) に起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、 麻薬 ( まやく ) の恐ろしい力の下に、ただ 昏々 ( こんこん ) と奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞の ( ふち ) 深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色く ( けむ ) っていた。その黄色い煙の中を時々 ( あか ) い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。 息気 ( いき ) づまるようなけさの光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い 木魂 ( こだま ) のようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしい ( へだた ) りを、葉子は恐れげもなく、成るがままに任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままのひとみを ( おお ) って行った。少し開いた口びるの間からは、うめくような軽い ( いびき ) がもれ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。

 どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっ[#「はっ」に傍点]と目を開いて頭をもたげた。ずき/\/\と頭の ( しん ) が痛んで、 部屋 ( へや ) の中は火のように輝いて ( おもて ) も向けられなかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声である事を悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、 ( えり ) もとをかき合わせながら、静かにソファの上に ( ひざ ) を立てて、 眼窓 ( めまど ) から 外面 ( とのも ) をのぞいて見た。けさまでは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっ[#「からっ」に傍点]と晴れ渡って、 紺青 ( こんじょう ) の色の日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されて ( ) え茂った岩がかった岸がすぐ目の先に見えて、海はいかにも入り江らしく 可憐 ( かれん ) なさざ波をつらね、その上を絵島丸は機関の 動悸 ( どうき ) を打ちながら ( しず ) かに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。

 岸の奥まった所に白い壁の小さな家屋が見られた。そのかたわらには英国の国旗が微風にあおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生まれ代わったようにはっきり[#「はっきり」に傍点]となって行った。そして頭がはっきり[#「はっきり」に傍点]して来るとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿を取って、 明瞭 ( めいりょう ) に現在の葉子と結び付いた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで 眼窓 ( めまど ) から顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に 臥倒 ( ねたお ) れた。頭の中は急に ( むら ) がり集まる考えを整理するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上からこめかみの所を押えた。そして少し 上目 ( うわめ ) をつかって鏡のほうを見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。

 葉子はとにかく恐ろしい ( がけ ) のきわまで来てしまった事を、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――ともかく木村と一緒になろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるか ( ため ) してみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心の ( たくら ) みを助ける事のできる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。 日清 ( にっしん ) 戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、 謀叛人 ( むほんにん ) のように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気にくわないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを振る舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんな物からもほんとうに訓練されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強味(弱味ともいわばいえ)になるべき ( すぐ ) れた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから 盲滅法 ( めくらめっぽう ) に動いて行った。ことに時代の不思議な目ざめを経験した葉子に取っては恐ろしい敵は男だった。葉子はそのためになんどつまずいたかしれない。しかし、世の中にはほんとうに葉子を ( たす ) け起こしてくれる人がなかった。「わたしが悪ければ直すだけの事をして見せてごらん」葉子は世の中に向いてこういい放ってやりたかった。女を全く 奴隷 ( どれい ) 境界 ( きょうがい ) に沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっと[#「じっと」に傍点]している間は 慇懃 ( いんぎん ) にして見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかその ( にが ) い杯をなめさせられた。そして十八の時 木部孤※ ( きべこきょう )

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に対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった 仮初 ( かりそ ) めの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくも ( ) えてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくり[#「とっくり」に傍点]と見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れてしまったのだ。

 葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。 砒石 ( ひせき ) の用法を ( あやま ) った患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。

 肉欲の ( きば ) を鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまく ( にお ) いのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら 蜘蛛 ( くも ) のように網を張った。近づくものは 一人 ( ひとり ) 残らずその美しい ( ) 手網 ( であみ ) にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの 妖力 ( ようりょく ) ある 女郎蜘蛛 ( じょろうぐも ) のように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と 尻目 ( しりめ ) にかけた。

 葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。

 葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という 一群 ( ひとむ ) れはただ 貪欲 ( どんよく ) 賤民 ( せんみん ) としか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い 一人 ( ひとり ) の男性に過ぎなかった。母は――母はいちばん葉子の 身近 ( みぢか ) にいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない 仇敵 ( きゅうてき ) のような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱う ( すべ ) は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果 二人 ( ふたり ) の間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。

 母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ 悒鬱 ( ゆううつ ) の沼に 蹴落 ( けお ) とした。自分は 荒磯 ( あらいそ ) に一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっ[#「じっ」に傍点]と見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、 乳母 ( うば ) の家を尋ねたり、突然 大塚 ( おおつか ) の内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ 一入 ( ひとしお ) の心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまた ( みだ ) らな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は 驕慢 ( きょうまん ) な女王のように、その捕虜から ( おもて ) をそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の 獲物 ( えもの ) はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。

 こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその 良人 ( おっと ) に選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそり[#「そり」に傍点]を合わせる努力をしたならば、 一生涯 ( いっしょうがい ) 木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎ[#「つぎはぎ」に傍点]な考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと 躊躇 ( ちゅうちょ ) する少女の心に似たぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]なためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。

 そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の 甲板 ( かんぱん ) の上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもし ( おそ ) れもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない 矯飾 ( きょうしょく ) を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ 表面 ( うわべ ) では事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の 物懶 ( ものう ) げな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事は ( たな ) に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。

 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい ( がけ ) のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっ[#「がらっ」に傍点]と変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは ( ) ( ) みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも ( みつ ) と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!

 葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを 牝鹿 ( めじか ) のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在 刹那 ( せつな ) のくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。

 その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には 頓着 ( とんじゃく ) なく、

 「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と 戯談 ( じょうだん ) らしくいった。

 「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな 蠱惑 ( こわく ) の力がこめられていた。

 事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を 小跳 ( こおど ) りして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。