University of Virginia Library

    一四

 なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた 倦怠 ( けんたい ) の視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり[#「すっかり」に傍点] 遮断 ( しゃだん ) された船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、 妖艶 ( ようえん ) な、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっ[#「じっ」に傍点]と見守るように見えた。

 かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも 破綻 ( はたん ) を示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉をかわしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈に ( うん ) じ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎み深い 深窓 ( しんそう ) の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように 高尚 ( こうしょう ) に、またある時は習俗から解放された adventuress とも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日の中に起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって 息気 ( いき ) をふき返した人魚のような葉子のかたわらにおいて見ると、身分、閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のような ( そら ) いかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川 博士 ( はかせ ) までが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせる事があるらしかった。食堂の卓をはさんで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。といって今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れたという女らしいひねくれ[#「ひねくれ」に傍点]た ( ねた ) みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。しかし実際の処置としては、くやしくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板をかえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつのまにか田川夫人と対等で物をいい合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年がいもなくしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]になっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしくばか丁寧に物をいいかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけた ( へび ) ののたうち回るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷ややかにあざ笑いながら、夫人の心の 葛藤 ( かっとう ) を見やっていた。

 単調な船旅にあき果てて、したたか刺激に飢えた男の群れは、この 二人 ( ふたり ) の女性を中心にして知らず知らず 渦巻 ( うずま ) きのようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面には少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男たちに自然に刺激を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起こす小さな波紋ほどの変化でも、船の中では ( ひと ) かどの事件だった。男たちはなぜともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。

 田川夫人は微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心のすみずみを探り回しているようだったが、ついにここぞという急所をつかんだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような丁寧さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、席が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取りかわすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長の ( へや ) ( しげ ) く出入りするばかりか、事務長はたいていの夜は田川夫妻の 部屋 ( へや ) に呼び迎えられた。田川博士はもとより船の正客である。それをそらすような事務長ではない。倉地は船医の 興録 ( こうろく ) までを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振る舞った。田川博士の船室には夜おそくまで ( ) がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍しくなかった。

 葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で 冷笑 ( あざわら ) っているのみだった。すでに自分が勝ち味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長を ( とりこ )

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にしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母の ( はら ) を出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上がったようなぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのかわからないようなたかが事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分はとうに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。

 ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと 甲板 ( かんぱん ) に出て見ると、はるか遠い 手欄 ( てすり ) の所に岡がたった 一人 ( ひとり ) しょんぼりとよりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっ[#「そっ」に傍点]と足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は 否応 ( いやおう ) なしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、 小柄 ( こがら ) な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな 可憐 ( かれん ) なものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の 淡々 ( あわあわ ) しい愛を覚えた。

 「何を泣いてらしったの」

 小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。

 「僕……泣いていやしません」

 岡は両方の ( ほお ) ( あか ) ( いろど ) って、こういいながらくるり[#「くるり」に傍点]とからだをそっぽう[#「そっぽう」に傍点]に向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさらにすり寄った。

 「いゝえいゝえ泣いてらっしゃいましたわ」

 岡は途方に暮れたように目の下の海をながめていたが、のがれる ( すべ ) のないのを ( さと ) って、大っぴらにハンケチをズボンのポケットから出して目をぬぐった。そして少し恨むような目つきをして、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見た。口びるまでが ( いちご ) のように ( あか ) くなっていた。青白い皮膚に ( ) め込まれたその ( あか ) さを、色彩に敏感な葉子は見のがす事ができなかった。岡は何かしら非常に興奮していた。その興奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は 手欄 ( てすり ) ごとじっ[#「じっ」に傍点]と押えた。

 「さ、これでおふき遊ばせ」

 葉子の ( たもと ) からは美しい ( かお ) りのこもった小さなリンネルのハンケチが取り出された。

 「持ってるんですから」

 岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。

 「何をお泣きになって……まあわたしったらよけいな事まで伺って」

 「何いいんです……ただ海を見たらなんとなく涙ぐんでしまったんです。からだが弱いもんですからくだらない事にまで感傷的になって困ります。……なんでもない……」

 葉子はいかにも同情するように合点合点した。岡が葉子とこうして一緒にいるのをひどくうれしがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを 手欄 ( てすり ) の上においたまま、

 「わたしの 部屋 ( へや ) へもよろしかったらいらっしゃいまし。またゆっくりお話ししましょうね」

 となつこくいってそこを去った。

 岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事のあって後は、 二人 ( ふたり ) はよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話の ( たね ) のない、ごく 初心 ( うぶ ) な世慣れない青年だったけれども、葉子はわずかなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。そして打ち解けて見ると彼は上品な、どこまでも純粋な、そして ( ) かしい青年だった。若い女性にはそのはにかみや[#「はにかみや」に傍点]な所から今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがり付くように親しんで来た。葉子も同性の恋をするような気持ちで岡をかわいがった。

 そのころからだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。しかし事務長の親友とも思われる二三の船客に対しては口もきこうとはしなかった。岡は時々葉子に事務長のうわさをして聞かした。そして表面はあれほど粗暴のように見えながら、考えの変わった、年齢や位置などに隔てをおかない、親切な人だといったりした。もっと交際してみるといいともいった。そのたびごとに葉子は激しく反対した。あんな人間を岡が話し相手にするのは実際不思議なくらいだ。あの人のどこに岡と共通するような ( すぐ ) れた所があろうなどとからかった。

 葉子に引き付けられたのは岡ばかりではなかった。 午餐 ( ごさん ) が済んで人々がサルンに集まる時などは 団欒 ( だんらん ) がたいてい三つくらいに分かれてできた。田川夫妻の周囲にはいちばん多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川のほうに来る人もあり、日本の政治家実業家連はもちろんわれ先にそこに ( ) せ参じた。そこからだんだん細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それからまただんだん太くつながれて、葉子と少年少女らの群れがいた。食堂で不意の質問に 辟易 ( へきえき ) した外交官補などは第一の連絡の綱となった。衆人の前では岡は遠慮するようにあまり葉子に親しむ様子は見せずに不即不離の態度を保っていた。遠慮会釈なくそんな所で葉子になれ親しむのは子供たちだった。まっ白なモスリンの着物を着て赤い大きなリボンを装った少女たちや、水兵服で身軽に装った少年たちは葉子の周囲に花輪のように集まった。葉子がそういう人たちをかたみがわり[#「かたみがわり」に傍点]に抱いたりかかえたりして、お 伽話 ( とぎばなし ) などして聞かせている様子は、船中の見ものだった。どうかするとサルンの人たちは自分らの間の話題などは捨てておいてこの 可憐 ( かれん ) な光景をうっとり[#「うっとり」に傍点]見やっているような事もあった。

 ただ一つこれらの群れからは全く没交渉な一団があった。それは事務長を中心にした三四人の群れだった。いつでも部屋の一 ( ぐう ) の小さな卓を囲んで、その卓の上にはウイスキー用の小さなコップと水とが備えられていた。いちばんいい ( にお ) いの 煙草 ( たばこ ) の煙もそこから漂って来た。彼らは何かひそひそと語り合っては、時々 傍若無人 ( ぼうじゃくぶじん ) な高い笑い声を立てた。そうかと思うとじっと田川の群れの会話に耳を傾けていて、遠くのほうから突然皮肉の茶々を入れる事もあった。だれいうとなく人々はその一団を 犬儒派 ( けんじゅは ) と呼びなした。彼らがどんな種類の人でどんな職業に従事しているかを知る者はなかった。岡などは本能的にその人たちを ( ) みきらっていた。葉子も何かしら気のおける連中だと思った。そして表面はいっこう 無頓着 ( むとんじゃく ) に見えながら、自分に対して充分の観察と注意とを怠っていないのを感じていた。

 どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気になった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんのかいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のして見せる 蠱惑的 ( こわくてき ) 姿態 ( しな ) がいつでも 暗々裡 ( あんあんり ) に事務長のためにされているのを意識しないわけには行かなかった。事務長がその場にいない時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたりあくびをしたりした。葉子はそうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の 部屋 ( へや ) に帰ってしまうような事をした。それにも係わらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。夜など 甲板 ( かんぱん ) の上をそぞろ歩きしている葉子が、田川 博士 ( はかせ ) の部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声をもれ聞いたりなぞすると、思わずかっ[#「かっ」に傍点]となって、鉄の壁すら射通しそうな鋭いひとみを声のするほうに送らずにはいられなかった。

 ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の動揺に 辟易 ( へきえき ) して自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋のかどになった所に折れ曲がって ( ) えてあるモロッコ皮のディワンに ( ひざ ) と膝を触れ合わさんばかり寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と 二人 ( ふたり ) きりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]に札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろいものに見やりながら、断続的に言葉を取りかわした。

 「あなたもシカゴにいらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」

 「えゝいいました。……これで切ってもいいでしょう」

 「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」

 「これでいいでしょうか……よくわからないんです」

 「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに 米国 ( あっち ) にいらっしゃるって」

 「僕は……」

 「これでいただきますよ……僕は……何」

 「僕はねえ」

 「えゝ」

 葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は 懺悔 ( ざんげ ) でもする人のように、 ( おもて ) を伏せて ( あか ) くなりながら札をいじくっていた。

 「僕のほんとうに行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」

 葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。岡はますますいい憎そうに、

 「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」

 とだんだん語尾を消してしまった。なんという 可憐 ( かれん ) さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。

 「お気にさわったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃる所にいたいんです、どういうわけだか……」

 もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。

 その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は 唯々 ( いい ) としてそのあとにしたがった。

 葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」

 突っ立ったままの葉子の顔に、 乳房 ( ちぶさ ) を見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。