University of Virginia Library

    一二

 その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって 地味 ( じみ ) なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。 二十 ( はたち ) を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の 藍鼠 ( あいねずみ ) は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた ( ひげ ) の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっ ( ) にして座に返った。葉子はしとやかに人々の 物数奇 ( ものずき ) らしい視線を受け流しながら、ぐるっ[#「ぐるっ」に傍点]と食卓を回って自分の席まで行くと、田川 博士 ( はかせ ) はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、 ( ふと ) ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。

 すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを 心地 ( ここち ) 悪いほどに感じた。やがてきちん[#「きちん」に傍点]とつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと 挨拶 ( あいさつ ) すると、今までの 角々 ( かどかど ) しい目にもさすがに申しわけほどの ( ) みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、

 「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」

 といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。 二人 ( ふたり ) の間の 挨拶 ( あいさつ ) はそれなりで途切れてしまったので、田川 博士 ( はかせ ) はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。

 「それから……その……」

 しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが 手器用 ( てぎよう ) に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。

 葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、 臆面 ( おくめん ) もなくじっ[#「じっ」に傍点]と目を定めてその顔を見やった後に、 無頓着 ( むとんじゃく ) にスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返して ( ひげ ) の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、

 「それからモンロー主義の本体は」

 と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し 面伏 ( おもぶ ) せな様子で、

 「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も 融通 ( ゆうずう ) がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう 一人 ( ひとり ) 有力な黒幕があるはずだ。どうです 斎藤 ( さいとう ) 君」

 と二三人おいた 斜向 ( はすか ) いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっ ( ) になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の 素性 ( すじょう ) がそのあわてかたに充分に見えすいていた。博士は見下したような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長のほうを向こうとした時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔をまっ ( ) にして、

 「You mean Teddy the roughrider?」

 といいながら子供のような 笑顔 ( えがお ) を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそく[#「さそく」に傍点]にそれを引き取って、

 「Good hit for you,Mr. Captain !」

 と癖のない発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、 椅子 ( いす ) から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時 ( ひと ) の目にはつきかねるほどの 敏捷 ( すばしこ ) さで葉子のほうをうかがった。葉子は ( まゆ ) 一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。

 慎み深く大さじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物をいう時、彼らは知らず知らず 激昂 ( げきこう ) したような高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える 一人 ( ひとり ) の上品な青年――船長の隣座にいるので葉子は 家柄 ( いえがら ) の高い生まれに違いないと思った――などは、葉子と一目顔を見合わしたが最後、震えんばかりに興奮して、顔を ( ) 上げないでいた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした 拍子 ( ひょうし ) に顔を合わせた時でも、その 臆面 ( おくめん ) のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような 気倦 ( けだ ) るげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。

 こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、 椅子 ( いす ) を引いてくれた田川 博士 ( はかせ ) にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を 仔細 ( しさい ) に見る事に半ば気を奪われていた。

 「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。わたしもちょと 部屋 ( へや ) に帰ってショールを取って出て見ます」

 こう葉子にいって田川夫人は 良人 ( おっと ) と共に自分の部屋のほうに去って行った。

 葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、 息気 ( いき ) づまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク――その上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い 駝鳥 ( だちょう ) の羽のボアを取り出して、西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て行って見た。窮屈な 階子段 ( はしごだん ) をややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっ[#「きりっ」に傍点]と ( しぼ ) り上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。

 甲板には外国人が五六人厚い 外套 ( がいとう ) にくるまって、堅いティークの ( ゆか ) をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、 ( ほお ) には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの 手欄 ( てすり ) によりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の 堆積 ( たいせき ) をはるばるとながめやった。折り重なった 鈍色 ( にぶいろ ) の雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消えうせて、 ( やみ ) は重い不思議な 瓦斯 ( がす ) のように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、 ( りん ) のような、さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い 波濤 ( はとう ) のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた 檣燈 ( しょうとう ) が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足からからだに伝わって感ぜられた。

 葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさが 盗風 ( とうふう ) のように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のように ( ) え出した元気はぽっきり[#「ぽっきり」に傍点]と ( しん ) を留められてしまった。こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれのあとに似た不愉快な 睡気 ( ねむけ ) の中に、胸をついて ( ) ( ) さえ催して来た。葉子はあわててあたりを見回したが、もうそこいらには散歩の 人足 ( ひとあし ) も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかり[#「しっかり」に傍点]と額を押えて、 手欄 ( てすり ) に顔を伏せながら念じるように目をつぶって見たが、いいようのないさびしさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時のはげしい 悪阻 ( つわり ) の苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうその ( しもと ) には堪えないというように頭を振って、気を紛らすために目を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一目見るやぐらぐらと 眩暈 ( めまい ) を感じて一たまりもなくまた突っ ( ) してしまった。深い悲しいため息が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もうからだじゅうは不快な 嘔感 ( おうかん ) のためにわなわなと震えていた。

 「 ( ) けばいい」

 そう思って 手欄 ( てすり ) から身を乗り出す瞬間、からだじゅうの力は腹から胸もとに集まって、背は思わずも激しく波打った。そのあとはもう夢のようだった。

 しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンカチで口もとをぬぐいながら、たよりなくあたりを見回した。 甲板 ( かんぱん ) の上も波の上のように荒涼として 人気 ( ひとけ ) がなかった。明るく ( ) の光のもれていた 眼窓 ( めまど ) は残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度 手欄 ( てすり ) に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の 今日 ( こんにち ) まで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しい ( こころよ ) さ。葉子はそのむなしい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて 手欄 ( てすり ) によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっ[#「ふっ」に傍点]と引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そうしてははっ[#「はっ」に傍点]と何かに驚かされたように目を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に ( かよ ) っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をくいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。 乞食 ( こじき ) が哀れみを求めたり、老人が愚痴をいうのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子はだれの前でも 素直 ( すなお ) な心で泣けるような気がした。だれかの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のようにたわいもなく泣きつづけていた。

 その時 甲板 ( かんぱん ) のかなたから ( くつ ) の音が聞こえて来た。 二人 ( ふたり ) らしい足音だった。その瞬間まではだれの胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっ[#「はっ」に傍点]というまもなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押しぬぐいながら、 ( くびす ) を返して自分の 部屋 ( へや ) ( もど ) ろうとした。が、その時はもうおそかった。洋服姿の田川夫妻がはっきり[#「はっきり」に傍点]と見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事は ( ) しなかった。涙をぬぐいきると、左手をあげて髪のほつれ[#「ほつれ」に傍点]をしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。

 「あらあなたでしたの。わたしどもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで 室外 ( そと ) にいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」

 田川夫人は例の 目下 ( めした ) の者にいい慣れた言葉を器用に使いながら、はっきり[#「はっきり」に傍点]とこういってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。

 「急に寒い所に出ましたせいですかしら、なんだか ( つむり ) がぐらぐらいたしまして」

 「お ( もど ) しなさった……それはいけない」

 田川 博士 ( はかせ ) は夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二三度こっくり[#「こっくり」に傍点]とうなずいた。 厚外套 ( あつがいとう ) にくるまった ( ふと ) った博士と、暖かそうなスコッチの 裾長 ( すそなが ) の服に、ロシア帽を ( まゆ ) ぎわまでかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背たけこそ高いが、 二人 ( ふたり ) の娘ほどにながめられた。

 「どうだ一緒に少し歩いてみちゃ」

 と田川博士がいうと、夫人は、

 「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人の ( くつ ) の音と、自分の 上草履 ( うわぞうり ) の音とをさびしく聞きながら、夫人のそばにひき添って 甲板 ( かんぱん ) の上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振る舞おうとした。

 博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物をいうので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし 結句 ( けっく ) それをいい事にして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだん ( ) ( ) は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で 四方山 ( よもやま ) のうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の 瞑想 ( めいそう ) を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。

 「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」

 そう夫人のいう声がした。

 「そうらしいね」

  博士 ( はかせ ) の声には笑いがまじっていた。

 「 賭博 ( ばくち ) が大の 上手 ( じょうず ) ですって」

 「そうかねえ」

 事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何かいい出すだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。

 しばらくすると夫人がまた事務長のうわさをし始めた。

 「事務長のそばにすわって食事をするのはどうもいやでなりませんの」

 「そんなら 早月 ( さつき ) さんに席を代わってもらったらいいでしょう」

 葉子は ( やみ ) の中で鋭く目をかがやかしながら夫人の様子をうかがった。

 「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」

 こう 戯談 ( じょうだん ) らしく夫人はいって、ちょっと葉子のほうを振り向いて笑ったが、べつにその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはあり ( うち ) の質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっ[#「むっ」に傍点]とせずにはいられなかった。知った所がなんにもならない話を、木村の事まで根はり葉はり問いただしていったいどうしようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むという事もあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつ[#「がさつ」に傍点]な人だ。自分ですらそっと手もつけないで済ませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が 意地 ( いじ ) にかかってこんな 悪戯 ( わるさ ) をするのだと思うと激しい敵意から口びるをかんだ。

 しかしその時田川博士が、サルンからもれて来る ( ) の光で時計を見て、八時十分前だから 部屋 ( へや ) に帰ろうといい出したので、葉子はべつに何もいわずにしまった。三人が 階子段 ( はしごだん ) を降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう気づかぬらしく、――もしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく振る舞って、

 「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」

 と 突拍子 ( とっぴょうし ) もなくいきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心は何という事なしに理不尽な怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすりおろしてわざと落ち付いた調子で、

 「いゝえちっとも[#「ちっとも」に傍点]お見えになりませんが……」

 と 空々 ( そらぞら ) しく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持ちには少しも気づかぬふうで、

 「おやそう。わたしのほうへはたびたびいらして困りますのよ」

 と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は 前後 ( あとさき ) なしにこう心のうちに叫んだが 一言 ( ひとこと ) も口には出さなかった。敵意―― 嫉妬 ( しっと ) ともいい代えられそうな――敵意がその瞬間からすっかり[#「すっかり」に傍点]根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず 博士 ( はかせ ) ( たて ) に取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、――そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意のない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言もいわずに黙礼したまま 二人 ( ふたり ) に別れて 部屋 ( へや ) に帰った。

 室内はむっ[#「むっ」に傍点]とするほど暑かった。葉子は ( ) ( ) はもう感じてはいなかったが、胸もとが妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやって ( ゆか ) の上に捨てたまま、投げるように 長椅子 ( ながいす ) に倒れかかった。

 それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が 腑抜 ( ふぬ ) けな 木偶 ( でく ) のように 甲斐 ( かい ) なく思われたり、静かに空を渡って行く雲の ( あし ) 瞑眩 ( めまい ) がするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の 末梢 ( まっしょう ) が、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は足と足とをぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本そろえてその 爪先 ( つまさき ) を、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくかんで見たりした。 悪寒 ( おかん ) のような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうん[#「うん」に傍点]と手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきん[#「どきん」に傍点]としていきなり立ち上がろうとした 拍子 ( ひょうし ) に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……

 葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふた[#「あたふた」に傍点]と部屋を出た。

 船のゆらぐごとに木と木とのすれあう不快な音は、おおかた船客の寝しずまった夜の 寂寞 ( せきばく ) の中にきわ立って響いた。自動平衡器の中にともされた 蝋燭 ( ろうそく ) は壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と光っていた。

 戸をあけて 甲板 ( かんばん ) に出ると、甲板のあなたはさっきのままの波また波の 堆積 ( たいせき ) だった。大煙筒から吐き出される 煤煙 ( ばいえん ) はまっ黒い天の川のように 無月 ( むげつ ) の空を立ち割って水に近く斜めに流れていた。