University of Virginia Library

三草勢揃

正月廿九日、範頼義經院參して、平家追討の爲に西國へ發向すべき由奏聞しけるに、「本朝には神代より傳れる三の御寶あり。内侍所、神璽、寶劍是也。相構て事故なく都へ歸入れ奉れ。」と仰下さる。兩人畏り承て罷出でぬ。

同二月四日、福原には故入道相國の忌日とて、佛事形の如く行はる。朝夕の軍立に過行く月日は知らね共、去年は今年に回り來て、憂かりし春にも成にけり。世の世にて有ましかば、如何なる起立塔婆の企、供佛施僧の營みも有べかりしかども、唯男女の君達指し聚ひて、泣より外の事ぞなき。

此次でに叙位除目行はれて、僧も俗も皆司なされけり。門脇中納言、正二位大納言に成給ふべき由、大臣殿よりの給ひければ、教盛卿、

けふまでも有ばあるかの我身かは、夢の中にも夢をみるかな。

と御返事申させ給ひて、遂に大納言にもなり給はず、大外記中原師直が子、周防介師純大外記になる。兵部少輔正明、五位藏人になされて、藏人少輔とぞ云はれける。昔將門が東八箇國を討從へて、下總相馬郡に都を立て、我身を平親王と稱して百官をなしたりしには、歴博士ぞ無りける。是は其には似るべからず。舊都をこそ落給ふと云へども、主上三種神器を帶して、萬乘の位に備り給へり。叙位除目行れんも僻事にはあらず。

平氏既に福原迄攻上て都へ歸り入べき由聞えしかば、故郷に殘とゞまる人々、勇み悦ぶ事斜ならず。二位僧都專親は、梶井宮の年來の御同宿也ければ、風の便には申されけり。宮よりも又常は音信在けり。「旅の空の在樣、思召遣るこそ心苦しけれ。都も靜まらず。」などもあそばいて、奧には一首の歌ぞありける。

人しれず其方をしのぶ心をば、傾く月にたぐへてぞやる。

僧都是を顏に推當て、悲の涙塞あへず。

さる程に小松三位中將維盛卿は、年隔り日重るに隨ひて、故郷に留め置給ひし北の方少き人々の事をのみ歎き悲み給ひけり。商人の便に、おのづから文などの通ふにも、北方の都の御在樣、心苦う聞給ふに、さらば迎へとて、一所でいかにも成らばやとは思へども、我身こそあらめ、人の爲痛くてなど、思召し忍びて、明し暮し給ふにこそ、責ての志の深さの程も露れけれ。

さる程に源氏は四日寄べかりしが、故入道相國の忌日と聞て、佛事を遂させんが爲に寄ず。五日は西塞り、六日は道虚日、七日の卯刻一谷の東西の木戸口にて、源平矢合とこそ定めけれ。さりながらも四日は吉日なればとて、大手搦手の大將軍、軍兵二手に分て都を立つ。大手の大將軍には、蒲御曹司範頼、相伴ふ人々、武田太郎信義、加賀美次郎遠光、同小次郎長清、山名次郎教義、同三郎義行、侍大將には、梶原平三景時、嫡子源太景季、次男平次景高、同三郎景家、稻毛三郎重成、榛谷四郎重朝、同五郎行重、小山小四郎朝政、同中沼五郎宗政、結城七郎朝光、佐貫四郎大夫廣綱、小野寺前司太郎道綱、曾我太郎資信、中村太郎時經、江戸四郎重春、玉井四郎資景、大河津太郎廣行、庄三郎忠家、同四郎高家、勝大八郎行平、久下次郎重光、河原太郎高直、同次郎盛直、藤田三郎大夫行泰を先として、都合其勢五萬餘騎二月四日の辰の一點に都を立て、其日の申酉の刻に、攝津國昆陽野に陣を取る。搦手の大將軍は、九郎御曹司義經、同く伴ふ人々、安田三郎義貞、大内太郎惟義、村上判官代康國、田代冠者信綱、侍大將には土肥次郎實平、子息彌太郎遠平、三浦介義澄、子息平六義村、畠山庄司次郎重忠、同長野三郎重清、佐原十郎義連、

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[3]和田小太郎義盛同次郎義茂同三郎宗實、
佐々木四郎高綱、同五郎義清、熊谷次郎直實、子息小次郎直家、平山武者所季重、天野次郎直經、小河次郎資能、原三郎清益、金子十郎家忠、同與一親範、渡柳彌五郎清忠、別府小太郎清重、多々羅五郎義春、其子太郎光義、片岡太郎經春、源八廣綱、伊勢三郎義盛、奧州佐藤三郎嗣信、同四郎忠信、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶を先として、都合其勢一萬餘騎、同日の同時に都を立て、丹波路に懸り、二日路を一日に打て、播磨と丹波と境なる三草の山の東の山口、小野原にこそ著にけれ。

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[3] NKBT reads 和田小太郎義盛。同次郎義茂。同三郎宗實、.