University of Virginia Library

六箇度軍

平家福原へ渡給ひて後は、四國の兵ども隨ひ奉らず。中にも阿波讃岐の在廳ども、平家を背いて、源氏に付むとしけるが、「抑我等は昨日今日まで、平家に隨うたるものの、今日始めて源氏の方へ参りたりとも、よも用ゐられじ。いざや平家に矢一つ射懸て、其を面にして參らん。」とて、門脇中納言、子息越前三位、能登守父子三人、備前國下津井にましますと聞えしかば討たてまつらんとて、兵船十餘艘で寄せたりける。能登守是を聞き、「惡い奴原かな。昨日今日迄、我等が馬の草切たる奴原が、既に契りを變ずるにこそ有なれ。其儀ならば、一人も洩さず討てや。」とて、小船共に取乘て、「餘すな、漏すな。」とて攻め給へば、四國の兵共、人目ばかりに矢一つ射て、退んとこそ思ひけるに、手痛う攻られ奉て、叶はじとや思ひけん、遠負にして引退き、都の方へ逃上るが、淡路國福良の泊に著にけり。其國に源氏二人有り、故六條判官爲義が末子、賀茂冠者義嗣、淡路冠者義久と聞えしを、西國の兵共大將に憑んで、城廓を構へて待處に、能登殿やがて押寄攻給へば、一日戰ひ賀茂冠者討死す。淡路冠者は痛手負て、自害してけり。能登殿、防ぎ矢射ける兵ども、百三十餘人が頸切て、討手の交名記いて、福原へ參らせらる。

門脇中納言其より福原へ上り給ふ。子息達は伊豫の河野四郎召せども參らぬを責んとて、四國へぞ渡られける。先づ兄の越前三位通盛卿、阿波國花園城に著給ふ。弟能登守、讃岐の八島へ渡り給ふと聞えしかば、河野四郎通信は、安藝國の住人沼田次郎は母方の伯父

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[2]なりけりば
、一つに成んとて、安藝國へ推渡る。能登守是を聞き、やがて讃岐の八島を出でて追はれけるが、既に備後國蓑島に懸て、次の日沼田城へ寄せ給ふ。沼田次郎、河野四郎一つに成て、防ぎ戰ふ。能登殿やがて押寄て攻給へば、一日一夜ふせぎ戰ひ沼田次郎叶はじとや思ひけん、甲を脱いで、降人に參る。河野四郎は猶從ひ奉らず、其勢五百餘騎有けるが、僅に五十騎許に討成れ、城を出て行く程に、能登殿の侍、平八兵衞爲員二百騎許が中に取籠られて主從七騎に討成れ、助け船に乘んと、細道に懸て渚の方へ落行程に、平八兵衞が子息、讃岐七郎義範、究竟の弓の上手ではあり、追懸て七騎を矢庭に五騎射落す。河野四郎只主從二騎になりにけり。河野が身に替へて思ひける郎等を讃岐七郎押竝べて組で落ち、取て押て頸を掻んとする所に、河野四郎取て返し、郎等が上なる讃岐七郎が頸掻切て深田へ投入、大音聲を揚て、「河野四郎越智通信、生年廿一、かうこそ軍をばすれ。我と思はん人々は留よや。」とて、郎等を肩に引懸け、そこをつと迯て小舟に乘り、伊豫國へぞ渡りける。能登殿河野をも打漏されたれども、沼田次郎が降人たるを召具して、福原へぞ參られける。

又淡路國の住人安摩六郎忠景、平家を背いて、源氏に心を通しけるが、大船二艘に兵粮米物具、積で都の方へ上る程に、能登殿福原にて、これをきゝ、小舟十艘計おし浮べて追はれけり。安摩六郎、西宮の沖にて返し合せて防戰ふ。手痛う責められ奉て、叶はじとや思ひけん、引退て和泉國吹飯浦に著にけり。紀伊國の住人園邊兵衞忠康、これも平家を背いて源氏につかんとしけるが、安摩六郎が能登殿に攻られ奉て、吹飯に有と聞えしかば、其勢百騎計で馳來て一つになる。能登殿やがて續いて攻給へば、一日一夜防ぎ戰ひ、安摩六郎、園邊兵衞、叶はじとや思ひけん、家子郎等に防矢射させ、身がらは迯て京へ上る。能登殿防矢射ける兵ども、二百餘人が頸切りかけて、福原へこそ參られけれ。又伊豫國の住人河野四郎通信、豐後國の住人臼杵次郎惟高、緒方三郎惟義、同心して都合其勢二千餘人、備前國へ押渡り、今木城にぞ籠ける。能登守是を聞き、福原より三千餘騎で馳下り、今木城を攻め給ふ。能登殿「彼奴原はこはい御敵で候。重て勢を給はらん。」と申されければ、福原より數萬騎の大勢を向らるゝ由聞えし程に、城の内の兵ども、手のきは戰ひ、分捕高名し究て、「平家は大勢でまします也。我等は無勢也。如何にも叶まじ。こゝをば落て、暫く息を續がん。」とて、臼杵次郎、緒方三郎舟に取り乘り、鎭西へ押し渡る。河野は伊豫へぞ渡りける。能登殿「今は討つべき敵なし。」とて、福原へこそ參られけれ。大臣殿を始め奉て平家一門の公卿殿上人寄合ひて、能登殿毎度の高名をぞ一同に感じ合れける。

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[2] NKBT reads なりければ.