University of Virginia Library

河原合戰

軍破れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、合戰の次第を記し申されけるに、鎌倉殿先づ御使に、「佐々木は如何に。」と御尋有ければ、「宇治川の眞先候。」と申す。日記を披いて御覽ずれば、「宇治川の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原源太景季。」とこそ書れたれ。

宇治勢田破れぬと聞えしかば、木曾左馬頭最後の暇申さんとて、院の御所六條殿へ馳參る。御所には法皇を始め參せて公卿殿上人「世は只今失せなんず。如何せん。」とて手を握り立てぬ願もましまさず。木曾門前まで參たれども、東國の勢、既に河原迄責入たる由聞えしかば、さいて奏する旨もなくて、取てかへす。六條高倉なる所に始めて見そめたる女房のおはしければ、其へ打いり、最後の名殘惜まんとて、とみに出もやらざりけり。今參したりける越後中太家光と云ふ者有り、「如何にかうは打解て渡せ給候ぞ。御敵既に河原まで攻入て候に、犬死せさせ給なんず。」と申けれども、猶出でもやらざりければ、「さ候はば、先づ先き立參せて、死出の山でこそ待參せ候はめ。」とて、腹掻切てぞ死にける。木曾殿「我をすゝむる自害にこそ。」とて、やがて打立けり。上野國の住人那波太郎廣純を先として、其勢百騎ばかりには過ざりけり。六條河原に打出で見れば、東國の勢と覺くて、先三十騎計出來たり。其中に武者二騎進んだり。一騎は鹽屋五郎惟廣、一騎は勅使河原五三郎有直也。鹽屋が申けるは、「後陣の勢をや待つべき。」勅使河原が申けるは、「一陣破ぬれば殘黨全からず、唯懸よ。」とて、をめいてかく。木曾は今日を限りと戰かへば、東國の勢は、我討取んとぞ進ける。

大將軍九郎義經、軍兵共に軍をばせさせ、院御所の覺束なきに、守護し奉らんとて、先づ我身共に直甲五六騎、六條殿へ馳參る。御所には、大膳大夫成忠、御所の東築垣の上に上て、わなゝくわなゝく見まはせば、白旗さと差上、武士ども五六騎のけ甲に戰成て、射向の袖吹靡させ、黒煙蹴立て馳參る。成忠「又木曾が參り候、あなあさまし。」と申ければ、「今度ぞ世の失はて。」とて君も臣も噪がせ給ふ。成忠重て申けるは、「只今馳參る武士ども、笠驗のかはて候、今日始て都へ入る東國の勢と覺候。」と申も果ねば、九郎義經門前へ馳參て馬より下り、門を扣かせ、大音聲を揚て、「東國より前兵衞佐頼朝が舎弟九郎義經こそ參て候へ。明させ給へ。」と申ければ、成忠餘りの嬉しさに、築垣より急ぎ跳りおるゝとて、腰をつき損じたりけれども、痛さは嬉さに紛て覺えず、這々參て、此由奏聞してければ、法皇大に御感在てやがて門を開かせて入られけり。九郎義經其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裳濃の鎧著て、鍬形打たる甲の緒しめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の鳥打を紙を廣さ一寸許に切て、左卷にぞ卷たりける。今日の大將軍の驗とぞ見えし。法皇は中門の櫺子より叡覽有て、「ゆゝしげなる者どもかな、皆名乘せよ。」と仰ければ、先づ大將軍九郎義經、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景季、佐々木四郎高綱、澁谷右馬允重資とこそ名乘たれ。義經具して武士は六人鎧は色々也けれども、頬魂事柄何れも劣らず。大膳太夫成忠仰せを承て、九郎義經を大床の際へ召て、合戰の次第を委く御尋あれば、義經畏て申けるは、「義仲が謀叛の事、頼朝大に驚き、範頼義經を始めとして、むねとの兵三十餘人其勢六萬餘騎を參せ候。範頼は勢田より參り候が未參り候はず。義經は宇治の手を責め落いて、先づ此御所守護の爲に馳參じて候。義仲は河原を上りに落候つるを、兵共に追せ候つれば、今は定めて討取候ぬらん。」と、いと事もなげにぞ申されたる。法皇大に御感有て、「神妙也。木曾が餘黨など參て、狼藉もぞ仕る。汝等此御所能々守護せよ。」と仰ければ義經畏り承はて、四方の門を固めて待程に、兵共馳集て、程なく一萬騎許に成にけり。

木曾は若しの事あらば、法皇を取參らせて、西國へ落下り、平家と一つに成らんとて、力者廿人汰へて持たりけれども、御所には九郎義經馳參て、守護し奉る由聞えしかば、「さらば」とて、數萬騎の大勢の中へをめいて懸入る。既に討れんとする事度々に及ぶといへども、懸け破り懸け破り通りけり。木曾涙を流て、「かかるべしとだに知たらば、今井を勢田へは遣ざらまし。幼少竹馬の昔より、死ならば一所で死なんとこそ契しに、所々で討れん事こそ悲しけれ。今井が行末を聞かばや。」とて、河原を上りに懸る程に、六條河原と三條河原との間に敵襲て懸れば、取て返し取て返し、僅なる小勢にて、雲霞の如くなる敵の大勢を、五六度までぞ追返す。鴨河さと打渡し粟田口松坂にぞ懸ける。去年信濃を出しには、五萬餘騎と聞えしに今日四宮河原を過るには、主從七騎に成にけり。まして中有の旅の空、思ひやられて哀なり。