University of Virginia Library

落足

小松殿の末の子備中守師盛は、主從七人小船に乘て落給ふ處に、新中納言の侍、清衞門公長と云ふ者、馳來て、「あれは、備中守殿の御船とこそ見參て候へ。參り候はん。」と申ければ、船を汀にさし寄せたり。大の男の鎧著ながら、馬より船へがばと飛乘らうに、なじかは好かるべき。船は小し、くるりと蹈返してけり。備中守浮ぬ沈ぬし給ひけるを、畠山が郎等、本田次郎、十四五騎で馳來り、熊手に懸て引上奉り、 遂に頸をぞ掻てける。生年十四歳とぞ聞えし。

越前三位通盛卿は、山手の大將軍にておはしけるが、其日の裝束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧著て、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍置て乘り給へり。内甲を射させて敵に押隔てられ、弟能登殿には離れ給ひぬ。靜ならん處にて、自害せんとて、東に向て落給ふ程に、近江國の住人佐々木木村三郎成綱、武藏國の住人玉井四郎資景、彼是七騎が中に取籠られて終に討たれ給ひぬ。其時迄は、侍一人附奉たりけれども其も最後の時は落合はず。

凡東西の木戸口時を移す程也ければ、源平數を盡いて討れにけり。櫓の前逆茂木の下には、人馬のしゝむら山の如し。一谷の小篠原、緑の色を引替へて、薄紅にぞ成にける。一谷、生田森、山の傍、海の汀にて射られ斬られて死ぬるはしらず、源氏の方に斬懸らるゝ頸ども、二千餘人也。今度討れ給へるむねとの人々には、越前三位通盛、弟藏人大夫成盛、薩摩守忠度、武藏盛知明、備中守師盛、尾張守清定、淡路守清房、修理大夫經盛の嫡子皇后宮亮經正、弟若狹守經俊、其弟大夫敦盛、以上十人とぞ聞えし。

軍破にければ、主上を始奉て、人々皆御船に召て、出給ふ心の中こそ悲しけれ、汐に引れ風に隨て、紀伊路へ趣く船も有り。葦屋の沖に漕出て、浪にゆらるゝ船も有り。或は須磨より明石の浦傳ひ、泊定めぬ梶枕、片敷袖もしをれつゝ、朧に霞む春の月、心を碎かぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕通り、繪島磯に漂へば、波路幽に鳴渡り、友迷はせる小夜千鳥、是も我身の類哉。行先未何くとも思ひ定ぬかと思しくて、一谷の沖にやすらふ船も有り。か樣に風に任せ、浪に隨ひて、浦々島々に漂よへば、互に死生も知難し。國を從ふる事も十四箇國、勢の附く事も十萬餘騎也。都へ近附く事も僅に一日の道なれば、今度はさりともと憑しう思はれけるに、一谷も攻落され、人々皆心細うぞなられける。