University of Virginia Library

敦盛最期

軍破れにければ、熊谷次郎直實、「平家の君達助け船に乘らんと、汀の方へぞ落ち給ふらん。哀れ好らう大將軍に組ばや。」とて、磯の方へ歩まする處に、練貫に鶴縫たる直垂に、萠黄匂の鎧著て、鍬形打たる甲の緒をしめ、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓持て、連錢蘆毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乘たる武者一騎、沖なる船に目を懸て、海へさと打入れ、五六段計泳がせたるを熊谷、「あれは、大將軍とこそ見參せ候へ。正なうも敵に後を見せさせ給ふ者哉。返させ給へ。」と。扇を揚て招きければ、招かれて取て返す。汀に打上らんとする所に、押竝て、むずと組で、どうと落ち、取て押へて頸を掻んとて、甲を押仰けて見ければ、年十六七ばかりなるが、薄假粧して鐵醤黒也。我子の小次郎が齡程にて、容顏誠に美麗なりければ、何くに刀を立べしとも覺えず。「抑如何なる人にてましまし候ぞ。名乘せ給へ。扶け參せん。」 と申せば、「汝は誰そ。」と問給ふ。「物其者では候はねども、武藏國の住人熊谷次 郎直實。」と名乘申す。「さては汝に逢うては名乘まじいぞ。汝が爲には好い敵ぞ。 名乘らずとも頸を取て人にとへ、見知うずるぞ。」とぞ宣ひける「あはれ大將軍や、此人一人討奉たりとも、負くべき軍に勝べき樣もなし。又討たてまつらずとも、勝べき軍に負る事もよも有じ。小次郎が薄手負たるをだに直實は心苦しう思ふに、此殿の父、討れぬと聞いて、如何計か歎き給はんずらん。あはれ扶け奉らばや。」と思ひて、後をきと見ければ、土肥、梶原五十騎計で續いたり。熊谷涙を押て申けるは、「助け參せんとは存候へども、御方の軍兵雲霞の如く候。よも逃させ給はじ。人手にかけ參せんより、同くは、直實が手に懸參せて、後の御孝養をこそ仕候はめ。」と申ければ、「唯とう/\頸を取れ。」とぞ宣ひける。熊谷餘にいとほしくて、何に刀を立べしとも覺えず、目もくれ心も消果てゝ、前後不覺に思えけれども、さてしも有るべき事ならねば、泣々頸をぞ掻いてける。「あはれ弓矢取る身程口惜かりける者はなし。武藝の家に生れずば、何とてかゝる憂目をば見るべき。情なうも討奉る者哉」と掻口説き袖を顏に押當てゝ、さめ%\とぞ泣居たる。やゝ久うあて、さても在るべきならねば、鎧直垂を取て、頸を裹まんとしけるに、錦の袋に入たる笛をぞ腰に差されたる。「あないとほし、此曉城の内にて、管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。當時御方に東國の勢何萬騎か有らめども、軍の陣へ笛持つ人はよも有じ。上臈は猶も優しかりけり。」とて、九郎御曹司の見參に入たりければ、是を見る人涙を流さずといふ事なし。後に聞けば、修理大夫經盛の子息に太夫敦盛とて、生年十七にぞ成れける。其よりしてこそ、熊谷が發心の思ひはすゝみけれ。件の笛は、祖父忠盛、笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞ聞えし。經盛相傳せられたりしを、敦盛器量たるに依て、持たれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申ける。狂言綺語の理と云ながら、遂に讃佛乘の因となるこそ哀なれ。