University of Virginia Library

若宮出家

平家の人々は宮竝びに三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百餘人が頸、太刀長刀のさきに貫き、高く指上げ、夕に及で六波羅へ歸入る。兵共勇のゝしる事夥し。怖しなども愚也。其中に源三位入道の頸は、長七唱が取て宇治川の深き所に沈てければ、それは見ざりけり。子供の頸はあそこ爰より皆尋出されたり。中に宮の御頸は、年來參り寄る人も無れば、見知り參せたる人もなし。先年典藥頭定成こそ、御療治の爲に召たりしかば、其ぞ見知り參せたるらんとて召れけれども、現所勞とて參らず。宮の常に召されける女房とて、六波羅へ尋ね出されたり。さしも淺からず、思食されて、御子を産參せ最愛ありしかば、爭か見損じ奉るべき。只一目見參せて、袖を顏に推當て、涙を流されけるにこそ、宮の御頸とも知てけれ。

この宮は、腹々に御子の宮達あまた渡らせ給ひけり。八條女院に伊豫守盛教が娘、三位局とて候はれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮御座けり。入道相國、弟池中納言頼盛卿を以て、八條女院へ申されけるは、「高倉宮の御子の宮達のあまた渡らせ給候なる。姫宮の御事は申に及ばず、若宮をば、疾う/\出し參させ給へ。」と申されたりければ、女院御返事に、「かゝる聞えの有し曉、御乳人などが、心少う具し奉て失にけるにや、全く此御所に渡せ給はず。」と仰ければ、頼盛卿力及ばで此由を入道相國に申されけり。「何條其御所ならでは、何くへか渡せ給ふべかんなる。其儀ならば、武士共參て、搜奉れ。」とぞ宣ける。此中納言は、女院の御乳母、宰相殿と申す女房に相具して、常は參り通れければ、日來は懷うこそ思召つるに、此宮の御事申しに參られたれば、今はあらぬ人の樣に疎しうぞ思召されける。若宮、女院に申させ給けるは、「是程の御大事に及び候上は終には遁れ候まじ。とう/\出させ御座ませ。」と申させ給ければ、女院御涙をはら/\と流させ給ひて、「人の七つ八つは、何事をも聞分ぬ程ぞかし。其に我故、大事の出來たる事を、片腹痛く思て、か樣に宣ふいとほしさよ。由無かりける人を、此六七年手馴して、かかる憂目を見よ。」とて、御涙せきあへさせ給はず。頼盛卿、宮出し參らさせ給ふべき由重ねて申されければ、女院力及ばせ給はで、終に宮を出しまゐらさせ給ふ。御母三位局、今を限の別なれば、さこそは御名殘惜うも思はれけめ。泣泣御衣著奉り、御髮掻撫で、出し參せ給ふも、唯夢とのみぞ思はれける。女院を始參せて、局の女房、女童に至るまで、涙を流し袖を絞らぬは無りけり。

頼盛卿、宮請取參せ、御車に乘奉て、六波羅へ渡し奉る。前右大將宗盛卿此宮を見參せて、父の相國禪門の御前に坐て、「何と候やらん、此宮を見奉るが、餘に痛う思ひ參せ候。理を枉て此宮の御命をば、宗盛に賜候へ。」と申されければ、入道「さらばとう/\出家をせさせ奉れ。」とぞ宣ける。宗盛卿、此由を八條女院に申されければ、女院「何の樣もあるべからず、唯疾々。」とて法師になし奉り、釋氏に定らせ給ひて、仁和寺の御室の御弟子になし參させ給ひけり。後には東寺の一の長者、安井宮僧正道尊と申しは、此宮の御事なり。