平家物語卷第十 平家物語卷第一 (Heike monogatari) | ||
請文
大臣殿、平大納言の許へは院宣の趣を申給ふ。二位殿へは御文細々と書いて進らせられたり。「今一度御覽ぜんと思めし候はゞ内侍所の御事を大臣殿によく/\申させおはしませ。さ候はでは此世にて見參に入べしとも覺え候はず。」などぞ書れたる。二位殿は是を見給ひてとかうの事も宣はず、文を懷に引入てうつぶしにぞなられける。 誠に心の中さこそおはしけめと推量られて哀也。さる程に平大納言時忠卿をはじめと して平家一門の公卿殿上人寄合ひ給ひて御請文の趣僉議せらる。二位殿は中將の文を 顏に推當てゝ、人々の並居給へる後の障子を引明て、大臣殿の御前に倒臥し、泣々宣 ひけるは「あの中將が京より言おこしたる事の無慚さよ。げにも心の中にいかばかり の事をか思ひ居たるらん。唯我に思ひ許して内侍所を、都へ入奉れ。」と宣へば、大 臣殿、「誠に宗盛もさこそは存候へども、さすが世の聞えもいふがひなう候。且は頼朝が思はん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所を返し入奉る事は叶ひ候まじ。其上帝王の世を保せ給ふ御事は、偏に内侍所の御故也。子の悲いも樣にこそ依候へ。且は中將一人に餘の子共親しい人々をば思食替させ給ふべきか。」と申されければ、二位殿、重て宣ひけるは、「故入道におくれて後は、かた時も命生て、在べしとも思はざりしかども、主上かやうにいつとなく、旅だゝせ給たる御事の御心苦しさ、又、君をも御代にあらせ參せばやと思ふ故にこそ今迄もながらへて在つれ。中將一谷で生捕にせられぬと聞し後は肝魂も身に副はず、如何にもして此世にて今一度あひ見るべきと思へども、夢にだに見えねば、いとどむねせきて、湯水も喉へ入れられず。今この文を見て後は、彌思ひ遣たる方もなし。中將世になき者と聞かば、我も同じ道に赴むかんと思ふ也。再び物を思はせぬ先に、唯我を失ひ給へ。」とて、喚き叫び給へば、誠にさこそは思ひ給らめとあはれに覺えて、人々泪を流しつゝ皆伏目にぞなられける。新中納言知盛の意見に申されけるは、「三種の神器を都へ返入奉たりとも、重衡を返し給らん事有がたし。唯憚なく其樣を、御請文に申さるべうや候らん。」と申されければ、大臣殿「此儀尤も然るべし。」とて、御請文申されけり。二位殿は泣々中將の御返事かき給ひけるが、涙にくれて、筆の立所も覺ねども、志をしるべにて御文細々と書て重國にたびにけり。北方大納言佐殿は、唯泣より外の事なくて、つや/\御返事もし給はず。誠に御心の中さこそは思ひ給らめと推量られてあはれ也。重國も狩衣の袖を絞りつゝ泣泣御前を罷り立つ。平大納言時忠は御坪召次花方を召て、「汝は花方か。」「さん候。」「法皇の御使に、多くの浪路を凌いで、是迄參りたるに一期が間の思出一つあるべし。」とて花方が面に、浪方と云ふ燒驗をぞせられける。都へ上りければ、法皇是を御覽じて、「好々力およばず、浪方とも召せかし。」とてわらはせおはします。
とこそ書かれたれ。
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