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 我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、 ことば の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも 果敢 はかな げに、しょんぼり肩を落したが、急に さみ しい笑顔を上げた。

「ほほほほほ、その気で 沢山 たんと 御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は いや 。」

 といううち涙さしぐみぬ。

「謹さん、」

 というも曇り声に、

「も、 貴下 あなた 、どうして、そんなに、 やさし くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」

貴女 あなた でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」

「ええ? 恩人ですって、私が。」

「貴女が、」

「まあ!  誰方 どなた のねえ?」

「私のですとも。」

「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで 児持 こもち になったんですもの。 ろく 小袖 こそで 一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の 大切 だいじ だった、そのお米のなかった時も、 煙草 たばこ も買ってあげないでさ。

 後で聞いて 口惜 くやし くって、今でも うら んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの 御容子 ごようす でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、 やつ れてないで、もっと顔色も かったもの……」

「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく 活々 いきいき していたのだって、貴女、貴女の そば に居る時の ほか に、そうした事を見た事はありますまい。

 私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。

 ねえ。

  先刻 さっき もいう通り、私の死んでしまった方が 阿母 おふくろ のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。

 実際私は、貴女のために きていたんだ。

 そして、お民さん。」

 あるじが落着いて しずか にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその かんばせ に、 湧上 わきのぼ るごとき 血汐 ちしお の色。

切迫詰 せっぱつま って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい 場処 ところ が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、 たしか に信仰していたんだね。

 まあ、お民さん とこ 夜更 よふか しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は 寝衣 ねまき のなりで、寒いのも いと わないで、貴女が自分で送って下さる。

  かど を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、 やみ の中まで見送ってくれたでしょう。 小児 こども が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。

 私はまた、曲り角で、きっと、 そっ 立停 たちど まって、しばらく って、カタリと くるる のおりるのを聞いたんです。

 その、帰り みち に、 濠端 ほりばた を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が がけ をはずれる、 背後 うしろ でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと たしか に思った。

 ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、 いや な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お かげ で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」

 とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る ともしび の前に落涙した。

「お民さん、」

「謹さん、」

 とばかり歯をカチリと、 きあえぬ涙を み留めつつ、

「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、 おんな じなんです、謹さん。 よく にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。

 まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を 歩行 ある きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」

 と 差俯向 さしうつむ いた肩が震えた。

 あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、

「飛んだ事を、 串戯 じょうだん じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、 ゆずる (小児の名)さんをどうします。」

「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの こしら えました。そんな、そんな児を構うものか。」

 とすねたように鋭くいったが、露を たた えた 花片 はなびら を、湯気やなぶると、 えみ を湛え、

「ようござんすよ。私はお濠を たのし みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、 すご い死神なら いけれど、大方 いたち にでも見えるでしょう。」

 と投げたように、片身を畳に、 つま も乱れて 崩折 くずお れた。

 あるじは、ひたと寄せて、 おさ えるように、 てた女の手を取って、

「お民さん。」

「…………」

「国へ、国へ帰しやしないから。」

「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」

「どうした、どうしたよ。」

 という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。

うるさ いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」

 とはらりと立って、 はぎ 白き、敷居際の立姿。やがてトントンと 階下 した へ下りたが、泣き まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の なり で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で すが って泣いじゃくる。

 あるじは、きちんと すわ り直って、

「どうしたの、 ひど おび えたようだっけ。」

「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」

 と ほお に顔をかさぬれば、 を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、

「鼬が、 阿母 おっか さん。」

「ええ、」

 二人は顔を見合わせた。

 あるじは、居寄って顔を のぞ き、ことさらに打笑い、

「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」

  小児 こども はなお含んだまま、いたいけに 捻向 ねじむ いて、

「ううむ、内じゃないの。お ほり とこ で、長い尻尾で、あの、目が光って、 わたい 、私を にら んで、 こわ かったの。」

 と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を うず めた。

 また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。

「おお、そうかい、夢なんですよ。」

「恐かったな、恐かったな、坊や。」

「恐かったね。」

 からからと格子が開いて、

「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。

「さあ、御馳走だよ。」

 と と立ったが、 早急 さっきゅう だったのと、抱いた 重量 おもみ で、 もすそ を前に、よろよろと、お民は、よろけながら 段階子 だんばしご

「謹さん。」

「…………」

翌朝 あした のお米は?」

 と 艶麗 はでやか 莞爾 にっこり して、

「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」

 と下を向いて高く言った。

 その時 ふすま の開く音がして、

「おそなわりました、 御新造様 ごしんぞさま 。」

 お民は答えず、ほと吐息。 円髷 まげ つや やかに二三段、 片頬 かたほ を見せて、 差覗 さしのぞ いて、

「ここは閉めないで きますよ。」

明治三十八(一九〇五)年六月