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「確か六七人もあったでしょう。」

 お民は聞いて、火鉢のふちに、 算盤 そろばん はじ くように、指を反らして、

「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」

 と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。

「じゃ、九人になる処だった。 貴女 あなた の内へ遊びに くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの 濠端 ほりばた を通ったんですがね、石垣が あお く光って、 真黒 まっくろ な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに いかかって来るように見えるじゃありませんか。

 引込まれては大変だと、早足に 歩行 ある き出すと、何だかうしろから追い けるようだから、一心に げ出してさ、坂の上で振返ると、 すご いような月で。

 ああ、春の末でした。

 あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。

 自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」

「心細いじゃありませんか、ねえ。」

 と さみ しそうに打傾く、 おもて に映って、 うなじ をかけ、 黒繻子 くろじゅす の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、 戸外 おもて は月の えたる 気勢 けはい 。カラカラと 小刻 こきざみ に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。

「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。

 じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、 いや な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを 歩行 ある いて、 行過 ゆきす ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で たしか めて見たくてならんのでしたよ。

  危険千万 けんのんせんばん

 だって、今だから話すんだけれど、その 蚊帳 かや なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは 活計 たつき しろ という訳で。

 内で じっ としていたんじゃ、たとい くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、 戸外 おもて へ出て、足駄 穿 きで駈け 歩行 ある くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、 あが がまち へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、 おっか さん、お米は? ッて聞くんです。」

「お米は? ッてね、謹さん。」

 と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて 莞爾 にこ やかに、

「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、 幾許 いくら するか知らなかった。

  みんな 、親のお かげ だね。

 その 阿母 おふくろ が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。

  翌日 あす のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」

 と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。

「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと すわ りたかった。」

「まあ、 貴下 あなた 、大抵じゃなかったのねえ。」

 フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の かいな はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。

「謹さん、 わか しましょうかね。」と かろ くいう。

「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」

「お湯があるかしら。」

 と引っ立てて、 ふた を取って、 あかり の方に傾けながら、

「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」