女客
泉鏡花 (Onna kyaku) | ||
三
「確か六七人もあったでしょう。」
お民は聞いて、火鉢のふちに、 算盤 ( そろばん ) を 弾 ( はじ ) くように、指を反らして、
「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」
と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。
「じゃ、九人になる処だった。 貴女 ( あなた ) の内へ遊びに 行 ( ゆ ) くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの 濠端 ( ほりばた ) を通ったんですがね、石垣が 蒼 ( あお ) く光って、 真黒 ( まっくろ ) な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに 這 ( は ) いかかって来るように見えるじゃありませんか。
引込まれては大変だと、早足に 歩行 ( ある ) き出すと、何だかうしろから追い 駈 ( か ) けるようだから、一心に 遁 ( に ) げ出してさ、坂の上で振返ると、 凄 ( すご ) いような月で。
ああ、春の末でした。
あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。
自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」
「心細いじゃありませんか、ねえ。」
と 寂 ( さみ ) しそうに打傾く、 面 ( おもて ) に映って、 頸 ( うなじ ) をかけ、 黒繻子 ( くろじゅす ) の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、 戸外 ( おもて ) は月の 冴 ( さ ) えたる 気勢 ( けはい ) 。カラカラと 小刻 ( こきざみ ) に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。
「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。
じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、 厭 ( いや ) な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを 歩行 ( ある ) いて、 行過 ( ゆきす ) ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で 確 ( たしか ) めて見たくてならんのでしたよ。
危険千万 ( けんのんせんばん ) 。
だって、今だから話すんだけれど、その 蚊帳 ( かや ) なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは 活計 ( たつき ) の 代 ( しろ ) という訳で。
内で 熟 ( じっ ) としていたんじゃ、たとい 曳 ( ひ ) くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、 戸外 ( おもて ) へ出て、足駄 穿 ( ば ) きで駈け 歩行 ( ある ) くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、 上 ( あが ) り 框 ( がまち ) へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、 母 ( おっか ) さん、お米は? ッて聞くんです。」
「お米は? ッてね、謹さん。」
と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて 莞爾 ( にこ ) やかに、
「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、 幾許 ( いくら ) するか知らなかった。
皆 ( みんな ) 、親のお 庇 ( かげ ) だね。
その 阿母 ( おふくろ ) が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。
翌日 ( あす ) のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」
と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。
「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと 坐 ( すわ ) りたかった。」
「まあ、 貴下 ( あなた ) 、大抵じゃなかったのねえ。」
フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の 腕 ( かいな ) はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。
「謹さん、 沸 ( わか ) しましょうかね。」と 軽 ( かろ ) くいう。
「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」
「お湯があるかしら。」
と引っ立てて、 蓋 ( ふた ) を取って、 燈 ( あかり ) の方に傾けながら、
「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」
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