女客
泉鏡花 (Onna kyaku) | ||
二
坐 ( すわ ) ると炭取を引寄せて、 火箸 ( ひばし ) を取って 俯向 ( うつむ ) いたが、
「お礼に継いで上げましょうね。」
「どうぞ、願います。」
「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな 呑気 ( のんき ) ッちゃありやしない。 串戯 ( じょうだん ) はよして、謹さん、 東京 ( こっち ) は炭が高いんですってね。」
主人 ( あるじ ) は 大胡座 ( おおあぐら ) で、落着澄まし、
「 吝 ( けち ) なことをお言いなさんな、お民さん、 阿母 ( おふくろ ) は 行火 ( あんか ) だというのに、押入には 葛籠 ( つづら ) へ入って、まだ 蚊帳 ( かや ) があるという騒ぎだ。」
「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」
「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。
何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が 酷 ( ひど ) い。まだその騒ぎの無い内、 当地 ( こちら ) で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、 夥間 ( なかま ) と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、 少 ( わか ) いもの同志だから、 萌黄縅 ( もえぎおどし ) の 鎧 ( よろい ) はなくても、 夜一夜 ( よっぴて ) 、 戸外 ( おもて ) を 歩行 ( ある ) いていたって、それで事は済みました。
内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、 的 ( あて ) はないのに、夜中一時二時までも、友達の 許 ( とこ ) へ、 苦 ( くるし ) い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、 阿母 ( おっか ) さん、蚊が居ますかって聞くんです。
自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」
主人 ( あるじ ) は火鉢にかざしながら、
「居ますかもないもんだ。
ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ 阿母 ( おふくろ ) には居るだろうと、 口惜 ( くやし ) いくらいでね。今に工面してやるから 可 ( い ) い、蚊の畜生覚えていろと、 無念骨髄 ( むねんこつずい ) でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような 烈 ( はげし ) い中に、疲れて、すやすや、…… 傍 ( わき ) に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお 堪 ( たま ) らなくって泣きました。」
聞く方が歎息して、
「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」
顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな 言 ( ことば ) であった。
「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは 兵糧 ( ひょうろう ) でしたな。」
「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」
「余りそうでもありません。しかしまあ、お 庇様 ( かげさま ) 、どうにか蚊帳もありますから。」
「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、 貴下 ( あなた ) 。」と優しい顔。
「何、私より阿母ですよ。」
「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、 身体 ( からだ ) 一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。」
と顔を上げて目を合わせる、両人の手は左右から、思わず火鉢を 圧 ( おさ ) えたのである。
「私はまた私で、何です、なまじ 薄髯 ( うすひげ ) の生えた意気地のない 兄哥 ( あにい ) がついているから起って、相応にどうにか 遣繰 ( やりく ) って 行 ( ゆ ) かれるだろう、と思うから、 食物 ( くいもの ) の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ 伜 ( せがれ ) がないものと 極 ( きま ) ったら、たよる処も何にもない。六十を越した人を、まさか見殺しにはしないだろう。
やっちまおうかと、日に 幾度 ( いくたび ) 考えたかね。
民さんも知っていましょう、あの年は、城の 濠 ( ほり ) で、大層 投身者 ( みなげ ) がありました。」
同一年 ( おないどし ) の、あいやけは、姉さんのような 頷 ( うなず ) き方。
「ああ。」
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