小春の狐
泉鏡花 (Koharu no kitsune) | ||
五
「わ、何じゃい、これは。」
「霜こし、黄い 茸 ( たけ ) 。……あはは、こんなばば 蕈 ( きのこ ) を、何の事じゃい。」
「何が松露や。ほれ、こりゃ、破ると、中が 真黒 ( まっくろ ) けで、うじゃうじゃと 蛆 ( うじ ) のような筋のある(狐の 睾丸 ( がりま ) )じゃがいの。」
「旦那、眉毛に 唾 ( つば ) なとつけっしゃれい。」
「えろう、女狐に 魅 ( つま ) まれたなあ。」
「これ、この 合羽占地茸 ( かっぱしめじ ) はな、野郎の鼻毛が伸びたのじゃぞいな。」
戻道。橋で、ぐるりと私たちを取巻いたのは、あまのじゃくを 訛 ( なま ) ったか、「じゃあま。」と言い、「おんじゃ。」と 称 ( とな ) え、「 阿婆 ( あばあ ) 。」と呼ばるる、浜方 屈竟 ( くっきょう ) の 阿婆摺媽々 ( あばずれかかあ ) 。町を一なめにする魚売の 阿媽徒 ( おっかあてあい ) で。 朝商売 ( あさあきない ) の帰りがけ、荷も天秤棒も、腰とともに 大胯 ( おおまた ) に振って来た三人づれが、蘆の横川にかかったその橋で、私の提げた 笊 ( ざる ) に 集 ( たか ) って、口々に 喚 ( わめ ) いて 囃 ( はや ) した。そのあるものは霜こしを指でつついた。あるものは松露をへし 破 ( わ ) って、チェッと言って水に棄てた。
「ほれ、ほんとうの霜こしを見さっしゃい。これじゃがいの。」
と尻とともに天秤棒を 引傾 ( ひっかた ) げて、私の目の前に揺り出した。成程違う。
「松露とは、ちょっと、こんなものじゃ。」
と上荷の笊を、一人が 敲 ( たた ) いて、
「ぼんとして、ぷんと、それ、 香 ( こうば ) しかろ。」
成程違う。
「私が方には、ほりたての芋が残った。旦那が見たら 蛸 ( たこ ) じゃろね。」
「背中を一つ、ぶん 撲 ( なぐ ) って進じようか。」
「ばば 茸 ( たけ ) 持って、おお 穢 ( むさ ) や。」
「それを食べたら、 肥料桶 ( こえおけ ) が、早桶になって即死じゃぞの、ぺッぺッぺッ。」
私は 茫然 ( ぼうぜん ) とした。
浪路は、と見ると、 悄然 ( しょうぜん ) と身をすぼめて 首垂 ( うなだ ) るる。
ああ、きみたち、 阿媽 ( おっかあ ) 、しばらく!……
いかにも、 唯今 ( ただいま ) 申さるる通り、 較 ( くら ) べては、玉と石で、まるで違う。が、似て非なるにせよ、毒にせよ。これをさえ手に狩るまでの、ここに連れだつ、この優しい女の心づかいを知ってるか。
――あれから菜畑を縫いながら、更に松山の松の中へ入ったが、山に山を重ね、砂に砂、窪地の谷を渡っても、余りきれいで……たまたま落ちこぼれた松葉のほかには、散敷いた 木 ( こ ) の葉もなかった。
この浪路が、気をつかい、心を尽した事は言うまでもなかろう。
阿媽、これを知ってるか。
たちまち、口紅のこぼれたように、小さな 紅茸 ( べにたけ ) を、私が見つけて、それさえ嬉しくって取ろうとするのを、遮って留めながら、浪路が松の根に気も 萎 ( な ) えた、 袖褄 ( そでつま ) をついて坐った時、あせった頬は汗ばんで、その 頸脚 ( えりあし ) のみ、たださしのべて、討たるるように白かった。
阿媽、それを知ってるか。
薄色の桃色の、その一つの紅茸を、 灯 ( ともしび ) のごとく膝の前に据えながら、袖を合せて合掌して、「小松山さん、山の神さん、どうぞ 茸 ( きのこ ) を頂戴な。下さいな。」と、やさしく、あどけない声して言った。
「小松山さん、山の神さん、
どうぞ、茸を頂戴な。
下さいな。――」
真の心は、そのままに唄である。
私もつり込まれて、 低声 ( こごえ ) で唄った。
「ああ、ありました。」
「おお、あった。あった。」
ふと見つけたのは、ただ一本、スッと生えた、 侏儒 ( いっすんぼし ) が 渋蛇目傘 ( しぶじゃのめ ) を半びらきにしたような、 洒落 ( しゃれ ) ものの茸であった。
「旦那さん、早く、あなた、ここへ、ここへ。」
「や、先刻見た、かっぱだね。かっぱ占地茸……」
「一つですから、一本占地茸とも言いますの。」
まず、枯松葉を笊に敷いて、根をソッと抜いて据えたのである。
続いて、霜こしの黄茸を見つけた――その時の歓喜を思え。――真打だ。本望だ。
「山の神さんが下さいました。」
浪路はふたたび手を合した。
「嬉しく頂戴をいたします。」
私も山に一礼した。
さて一つ見つかると、あとは 女郎花 ( おみなえし ) の枝ながらに、根をつらねて黄色に敷く、泡のようなの、針のさきほどのも 交 ( まじ ) った。松の小枝を拾って掘った。 尖 ( さき ) はとがらないでも、砂地だからよく抜ける。
「松露よ、松露よ、――旦那さん。」
「素晴しいぞ。」
むくりと砂を吹く、 飯蛸 ( いいだこ ) の 乾 ( から ) びた 天窓 ( あたま ) ほどなのを掻くと、砂を 被 ( かぶ ) って、ふらふらと足のようなものがついて取れる。頭をたたいて、
「飯蛸より、これは、 海月 ( くらげ ) に似ている、山の海月だね。」
「ほんになあ。」
じゃあま、あばあ、 阿媽 ( おっかあ ) が、いま、(狐の 睾丸 ( がりま ) )ぞと 詈 ( ののし ) ったのはそれである。
が、待て―― 蕈狩 ( たけがり ) 、松露取は 闌 ( たけなわ ) の興に 入 ( い ) った。
浪路は、あちこち枝を 潜 ( くぐ ) った。松を飛んだ、 白鷺 ( しらさぎ ) の首か、 脛 ( はぎ ) も見え、山鳥の翼の袖も舞った。小鳥のように声を立てた。
砂山の波が 重 ( かさな ) り重って、余りに二人のほかに人がない。――私はなぜかゾッとした。あの、翼、あの、帯が、ふとかかる時、色鳥とあやまられて、鉄砲で撃たれはしまいか。――今朝も潜水夫のごときしたたかな 扮装 ( いでたち ) して、宿を出た 銃猟家 ( てっぽううち ) を四五人も見たものを。
遠くに、黒い島の浮いたように、脱ぎすてた 外套 ( がいとう ) を、葉越に、枝越に 透 ( すか ) して見つけて、「浪路さん――姉さん――」と、昔の恋に、声がくもった。――姿を見失ったその人を、呼んで、やがて、 莞爾 ( にっこり ) した顔を見た時は、恋人にめぐり逢った、世にも嬉しさを知ったのである。
阿婆 ( おばば ) 、これを知ってるか。
無理に外套に掛けさせて、私も憩った。
着崩れた 二子織 ( ふたこ ) の胸は、血を包んで、羽二重よりも 滑 ( なめらか ) である。
湖の色は、あお空と、松山の 翠 ( みどり ) の中に 朗 ( ほがらか ) に 沁 ( し ) み通った。
もとのように、 就中 ( なかんずく ) 遥 ( はるか ) に離れた 汀 ( みぎわ ) について行く船は、二 艘 ( そう ) 、前後に帆を掛けて 辷 ( すべ ) ったが、その帆は、紫に見え、 紅 ( あか ) く見えて、そして浪路の襟に映り、肌を染めた。渡鳥がチチと 囀 ( さえず ) った。
「あれ、小松山の神さんが。」
や、や、いかに 阿媽 ( おっかあ ) たち、――この趣を知ってるか。――
「旦那、眉毛を濡らさんかねえ。」
「この狐。」
と一人が、浪路の帯を突きざまに行き抜けると、
「浜でも何人抜かれたやら。」一人がつづいて 頤 ( あご ) で 掬 ( すく ) った。
「また出て、 魅 ( ばか ) しくさるずらえ。」
「 真昼間 ( まっぴるま ) だけでも遠慮せいてや。」
「 女 ( め ) の狐の癖にして、 睾丸 ( がりま ) をつかませたは 可笑 ( おかし ) なや、あはははは。」
「そこが化けたのや。」
「おお、 可恐 ( こわ ) やの。」
「やあ、旦那、松露なと、黄茸なと、ほんものを売ってやろかね。」
「たかい 銭 ( おあし ) で買わっせえ。」
行過ぎたのが、菜畑越に、 縺 ( もつ ) れるように、 一斉 ( いっとき ) に顔を重ねて振返った。三面 六臂 ( ろっぴ ) の 夜叉 ( やしゃ ) に似て、中にはおはぐろの口を張ったのがある。手足を振って、 真黒 ( まっくろ ) に 喚 ( わめ ) いて行く。
消入りそうなを、背を抱いて引留めないばかりに、ひしと寄った。我が肩するる 婦 ( おんな ) の髪に、 櫛 ( くし ) もささない前髪に、上手がさして飾ったように、松葉が一葉、青々としかも 婀娜 ( あだ ) に 斜 ( はす ) にささって、(前こぞう)とか言う 簪 ( かんざし ) の風情そのままなのを、不思議に見た。 茸 ( たけ ) を狩るうち、松山の松がこぼれて、奇蹟のごとく、おのずから挿さったのである。
「ああ、嬉しい事がある。姉さん、茸が違っても何でも構わない。今日中のいいものが手に入ったよ――顔をお見せ。」
袖でかくすを、
「いや、前髪をよくお見せ。――ちょっと手を触って、当てて御覧、大したものだ。」
「ええ。」
ソッと抜くと、 掌 ( たなそこ ) に軽くのる。私の名に、もし松があらば、げにそのままの 刺青 ( いれずみ ) である。
「素晴らしい 簪 ( かんざし ) じゃあないか。前髪にささって、その、 容子 ( ようす ) のいい事と言ったら。」
涙が、その松葉に玉を添えて、
「旦那さん――堪忍して……あの道々、あなたがお 幼 ( ちいさ ) い時のお話もうかがいます。――真のあなたのお頼みですのに、どうぞしてと思っても、一つだって見つかりません……嘘と知っていて、そんな茸をあげました。余り欲しゅうございましたので、私にも、私にかってほんとうの茸に見えたんですもの。……お恥かしい 身体 ( からだ ) ですが、お 言 ( ことば ) のまま、あの、お宿までもお供して……もしその茸をめしあがるんなら、きっとお毒味を先へして、血を吐くつもりでおりました。 生命 ( いのち ) がけでだましました。……堪忍して下さいまし。」
「何を言うんだ、飛んでもない。――さ、ちょっと、自分の手でその松葉をさして御覧。……それは容子が何とも言えない、よく似合う。よ。頼むから。」
と、かさに 掛 ( かか ) って、 勢 ( いきおい ) よくは言いながら、胸が迫って声が途切れた。
「後生だから。」
「はい、……あの、こうでございますか。」
「上手だ。自分でも髪を結えるね。ああ、よく似合う。さあ、見て御覧。何だ、袖に映したって、映るものかね。ここは 引汐 ( ひきしお ) か、水が動く。――こっちが 可 ( い ) い。あの松影の澄んだ処が。」
「ああ、御免なさい。堪忍して……映すと狐になりますから。」
「私が請合う、大丈夫だ。」
「まあ。」
「ね、そのままの細い 翡翠 ( ひすい ) じゃあないか。 琅※ ( ろうかん )
の 珠 ( たま ) だよ。――小松山の神さんか、竜神が、姉さんへのたまものなんだよ。」ここにも飛交う 螽 ( いなご ) の 翠 ( みどり ) に。――
「いや、松葉が光る、 白金 ( プラチナ ) に相違ない。」
「ええ。旦那さんのお 情 ( なさけ ) は、翡翠です、白金です……でも、私はだんだんに、……あれ、口が裂けて。」
「ええ。」
「目が釣上って……」
「馬鹿な事を。―― 蕈 ( きのこ ) で嘘を 吐 ( つ ) いたのが狐なら、松葉でだました私は狸だ。――狸だ。……」
と言って、 真白 ( まっしろ ) な手を取った。
湖つづき 蘆中 ( あしなか ) の 静 ( しずか ) な川を、ぬしのない小船が流れた。
小春の狐
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