University of Virginia Library

       一

 朝――この湖の名ぶつと聞く、 しじみ の汁で。…… かん をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。……

 いい天気で、暖かかったけれども、 北国 ほっこく の事だから、厚い 外套 がいとう にくるまって、そして温泉宿を出た。

 戸外の広場の 一廓 ひとくるわ 、総湯の前には、火の見の 階子 はしご が、高く初冬の空を いて、そこに、うら枯れつつも、大樹の柳の、しっとりと しずか 枝垂 しだ れたのは、「火事なんかありません。」と言いそうである。

 横路地から、すぐに見渡さるる、 みぎわ あし の中に みよし が見え、 とも が隠れて、葉越葉末に、船頭の形が穂を そよ がして、その船の胴に動いている。が、あの 鉄鎚 てっつい の音を聞け。 印半纏 しるしばんてん の威勢のいいのでなく、田船を ぐお百姓らしい、もっさりとした 布子 ぬのこ のなりだけれども、船大工かも知れない、カーンカーンと打つ つち が、一面の湖の北の そら なる、雪の山の頂に響いて、その間々に、

「これは三保の松原に、 伯良 はくりょう と申す漁夫にて候。万里の好山に雲 たちま ちに起り、一楼の明月に雨始めて晴れたり……」

 と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと 余所 よそ にはない 気色 けしき だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる 乾坤 てんち である。

 脊の伸びたのが 枯交 かれまじ り、 まばら になって、蘆が続く…… かたわら 木納屋 きなや 苫屋 とまや の袖には、しおらしく嫁菜の花が咲残る。……あの戸口には、羽衣を奪われた素裸の天女が、 手鍋 てなべ を提げて、その男のために苦労しそうにさえ思われた。

「これなる松にうつくしき ころも かか れり、寄りて見れば色香 たえ にして……」

 と謡っている。木納屋の わき は菜畑で、 真中 まんなか に朱を輝かした柿の樹がのどかに立つ。枝に渡して、ほした大根のかけ ひも に青貝ほどの小朝顔が すが って咲いて、つるの下に朝霜の 焚火 たきび の残ったような鶏頭が かすか に燃えている。その陽だまりは、山霊に心あって、一封のもみじの 音信 たより を投げた、 玉章 たまずさ のように見えた。

 里はもみじにまだ早い。

 露地が、 遠目鏡 とおめがね のぞ さま 扇形 おうぎなり ひら けて なが められる。湖と、船大工と、幻の天女と、描ける玉章を 掻乱 かきみだ すようで、近く あゆみ を入るるには おし いほどだったから……

 私は――

(これは 城崎関弥 きざきせきや と言う、筆者の友だちが話したのである。)

 ――道をかえて、たとえば、宿の座敷から湖の向うにほんのりと、薄い霧に包まれた、白砂の小松山の方に向ったのである。

 小店の障子に 貼紙 はりがみ して、

 (今日より 昆布 こぶ まきあり候。)

 ……のんびりとしたものだ。口上が嬉しかったが、これから 漫歩 そぞろあるき というのに、こぶ巻は困る。張出しの駄菓子に並んで、 ざる に柿が並べてある。これなら たもと にも入ろう。「あり候」に 挨拶 あいさつ の心得で、

「おかみさん、この柿は……」

 天井裏の 蕃椒 とうがらし 真赤 まっか だが、薄暗い納戸から、いぼ尻まきの顔を出して、

「その柿かね。へい、食べられましない。」

「はあ?」

「まだ渋が抜けねえだでね。」

「はあ、ではいつ頃食べられます。」

 きく やつ も、聞く奴だが、

「早うて、……来月の今頃だあねえ。」

「成程。」

 まったく 山家 やまが はのん気だ。つい目と鼻のさきには、 化粧煉瓦 けしょうれんが で、 露台 バルコニイ と言うのが建っている。別館、あるいは新築と称して、湯宿一軒に西洋づくりの一部は、なくてはならないようにしている盛場でありながら。

「お邪魔をしました。」

「よう、おいで。」

 また、おかしな事がある。……くどいと 不可 いけな い。道具だてはしないが、 硝子戸 がらすど を引きめぐらした、いいかげんハイカラな雑貨店が、細道にかかる 取着 とッつき の角にあった。私は靴だ。宿の貸下駄で出て来たが、あお桐の二本歯で緒が ゆる んで、がたくり、がたくりと 歩行 ある きにくい。 此店 ここ で草履を見着けたから入ったが、 小児 こども のうち覚えた、こんな店で売っている竹の皮、 わら の草履などは一足もない。極く雑なのでも裏つきで、鼻緒が流行のいちまつと 洒落 しゃ れている。いやどうも……柿の渋は一月半おくれても、草履は 駈足 かけあし で時流に追着く。

「これを もら いますよ。」

 店には、ちょうど適齢前の次男坊といった若いのが、もこもこの羽織を着て、のっそりと立っていた。

「貰って 穿 きますよ。」

 と断って……早速ながら穿替えた、――誰も、 背負 しょ って く奴もないものだが、手一つ出すでもなし、口を利くでもなし、ただにやにやと笑って見ているから、勢い念を入れなければならなかったので。……

「お 幾干 いくら 。」

「分りませんなあ。」

「誰かに聞いてくれませんか。」

 若いのは、依然としてにやにやで、

「誰も今 らんのでね……」

「じゃあ 帰途 かえり に上げましょう。じきそこの宿に泊ったものです。」

「へい、大きに――」

 まったくどうものんびりとしたものだ。私は何かの道中記の挿絵に、土手の すすき 野茨 のばら の実がこぼれた中に、 折敷 おしき に栗を塩尻に積んで三つばかり。細竹に筒をさして、 もんと、四つ、銭の形を描き入れて、 そば 草鞋 わらじ まで並べた、山路の景色を思出した。