小春の狐
泉鏡花 (Koharu no kitsune) | ||
四
あれに、 翁 ( おきな ) が一人見える。
白砂の小山の 畦道 ( あぜみち ) に、菜畑の菜よりも暖かそうな、おのが影法師を、われと慰むように、太い 杖 ( つえ ) に片手づきしては、腰を休め休め近づいたのを、見ると、 大黒頭巾 ( だいこくずきん ) に似た、 饅頭形 ( まんじゅうがた ) の黄なる帽子を頂き、袖なしの羽織を、ほかりと着込んで、腰に 毛巾着 ( けぎんちゃく ) を 覗 ( のぞ ) かせた……片手に網のついた 畚 ( びく ) を下げ、じんじん 端折 ( ばしょり ) の古足袋に、 藁草履 ( わらぞうり ) を 穿 ( は ) いている。
「少々、ものを伺います。」
ゆるい、はけ水の 小流 ( こながれ ) の、一段ちょろちょろと落口を差覗いて、その翁の、また一息 憩 ( やす ) ろうた杖に寄って、私は言った。
翁は、 頭 ( ず ) なりに黄帽子を 仰向 ( あおむ ) け、 髯 ( ひげ ) のない円顔の、鼻の 皺 ( しわ ) 深く、すぐにむぐむぐと、 日向 ( ひなた ) に白い唇を動かして、
「このの、 私 ( わし ) がいま来た、この縦筋を 真直 ( まっす ) ぐに、ずいずいと行かっしゃると、松原について畑を横に曲る処があるでの。……それをどこまでも行かせると、沼があっての。その、すぼんだ処に、土橋が一つ 架 ( かか ) っているわい。――それそれ、この見当じゃ。」
と、引立てるように、片手で杖を上げて、 釣竿 ( つりざお ) を 撓 ( た ) めるがごとく松の 梢 ( こずえ ) をさした。
「じゃがの。」
と 頭 ( かぶり ) を緩く横に 掉 ( ふ ) って、
「それをば渡ってはなりませぬぞ。(と強く言って)……渡らずと、橋の 詰 ( つめ ) をの、ちと 後 ( あと ) へ戻るようなれど、左へ取って、小高い処を 上 ( あが ) らっしゃれ。そこが尋ねる 実盛塚 ( さねもりづか ) じゃわいやい。」
と杖を直す。
安宅 ( あたか ) の関の古蹟とともに、実盛塚は名所と聞く。……が、私は今それをたずねるのではなかった。道すがら、既に 路傍 ( みちばた ) の松山を 二処 ( ふたとこ ) ばかり探したが、浪路がいじらしいほど気を 揉 ( も ) むばかりで、茸も松露も、似た形さえなかったので、獲ものを人に問うもおかしいが、 且 ( かつ ) は所在なさに、 連 ( つれ ) をさし置いて、いきなり声を掛けたのであったが。
「いいえ、実盛塚へは――行こうかどうしようかと思っているので、……実はおたずね申しましたのは。」
「ほん、ほん、それでは、これじゃろうの。」
と片手の畚を動かすと、ひたひたと音がして、ひらりと腹を 飜 ( かえ ) した 魚 ( うお ) の 金色 ( こんじき ) の 鱗 ( うろこ ) が光った。
「見事な 鯉 ( こい ) ですね。」
「いやいや、これは 鮒 ( ふな ) じゃわい。さて鮒じゃがの…… 姉 ( あね ) さんと連立たっせえた、こなたの様子で見ればや。」
と鼻の下を 伸 ( のば ) して、にやりとした。
思わず、その 言 ( ことば ) に連れて振返ると、つれの浪路は、尾花で姿を隠すように、私の外套で顔を横に 蔽 ( おお ) いながら、髪をうつむけになっていた。湖の 小波 ( さざなみ ) が誘うように、雪なす足の指の、ぶるぶると震えるのが見えて、肩も袖も、その尾花に 靡 ( なび ) く。……手につまさぐるのは、真紅の 茨 ( いばら ) の実で、その 連 ( つらな ) る 紅玉 ( ルビィ ) が、手首に 珊瑚 ( さんご ) の 珠数 ( じゅず ) に見えた。
「ほん、ほん。こなたは、これ。(や、 爺 ( じじ ) い……その鮒をば俺に譲れ。)と、 姉 ( ねえ ) さんと二人して、潟に放いて、 放生会 ( ほうじょうえ ) をさっしゃりたそうな人相じゃがいの、ほん、ほん。おはは。」
と笑いながら、ちょろちょろ滝に、畚をぼちゃんとつけると、背を黒く鮒が躍って、水音とともに 鰭 ( ひれ ) が鳴った。
「 憂慮 ( きづかい ) をさっしゃるな。 割 ( さ ) いて 爺 ( じい ) の口に 啖 ( くら ) おうではない。――これは 稲荷殿 ( いなりでん ) へお供物に献ずるじゃ。お目に掛けましての上は、水に放すわいやい。」
と寄せた杖が肩を 抽 ( ぬ ) いて、背を円く 流 ( ながれ ) を覗いた。
「この 魚 ( うお ) は強いぞ。……心配をさっしゃるな。」
「お爺さん、失礼ですが、水と山と違いました。」
私も笑った。
「茸だの、松露だのをちっとばかり取りたいのですが、霜こしなんぞは、どの辺にあるでしょう。御存じはありませんか。」
「ほん、ほん。」
と黄饅頭を、点頭のままに動かして、
「茸――松露――それなら探さねば爺にかて分らぬがいやい。おはは、姉さんは土地の人じゃ。若いぱっちりとした目は、爺などより 明 ( あきら ) かじゃ。よう探いてもらわっしゃい。」
「これはお 隙 ( ひま ) づいえ、失礼しました。」
「いや、何の 嵩高 ( かさだか ) な……」
「御免。」
「 静 ( しずか ) にござれい。――よう遊べ。」
「どうかしたか、――姉さん、どうした。」
「ああ、 可恐 ( こわ ) い。……勿体ないようで、ありがたいようで、ああ、 可恐 ( こお ) うございましたわ。」
「…………」
「いまのは、山のお稲荷様か、潟の竜神様でおいでなさいましょう。風のない、うららかな、こんな時にはな、よくこの辺をおあるきなさいますそうですから。」
いま畚を引上げた、水の音はまだ響くのに、翁は、太郎虫、米搗虫の 靄 ( もや ) のあなたに、影になって、のびあがると、 日南 ( ひなた ) の 背 ( せな ) も、もう見えぬ。
「しかし、様子は、霜こしの 黄茸 ( きだけ ) が化けて出たようだったぜ。」
「あれ、もったいない。……旦那さん、あなた……」
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