小春の狐
泉鏡花 (Koharu no kitsune) | ||
三
「――旦那さん、その虫は構うた事には 叶 ( かな ) いませんわ。―― 煩 ( うるそ ) うてな……」
もの 言 ( いい ) もやや打解けて、おくれ毛を 撫 ( な ) でながら、
「ほっといてお通りなさいますと、ひとりでに離れます。」
「随分居るね、……これは何と言う虫なんだね。」
「東京には 居 ( お ) りませんの。」
「いや、雨上りの日当りには、鉢前などに出はするがね。こんなに居やしないようだ。よくも気をつけはしないけれど、……(しょうじょう)よりもっと小さくって 煙 ( けむ ) のようだね。……またここにも 一団 ( ひとかたまり ) になっている。何と言う虫だろう。」
「太郎虫と言いますか、 米搗虫 ( こめつきむし ) と言うんですか、どっちかでございましょう。小さな 児 ( こ ) が、この虫を見ますとな、旦那さん……」
と、 言 ( ことば ) が途絶えた。
「小さな児が、この虫を見ると?……」
「あの……」
「どうするんです。」
「唄をうとうて 囃 ( はや ) しますの。」
「何と言って……その唄は?」
「 極 ( きまり ) が悪うございますわ。……(太郎は米搗き、次郎は夕な、夕な。)…… 薄暮合 ( うすくれあい ) には、よけい 沢山 ( たんと ) 飛びますの。」
……思出した。故郷の町は寂しく、時雨の晴間に、私たちもやっぱり唄った。
「仲よくしましょう、さからわないで。」
私はちょっかいを出すように、 面 ( おもて ) を払い、耳を払い、頭を払い、袖を払った。茶番の 最明寺 ( さいみょうじ ) どののような形を、 更 ( あらた ) めて 静 ( しずか ) に 歩行 ( ある ) いた。――真一文字の日あたりで、暖かさ過ぎるので、脱いだ 外套 ( がいとう ) は、その女が持ってくれた。―― 歩行 ( ある ) きながら、
「……私は虫と同じ名だから。」
しかし、これは、虫にくらべて謙遜した意味ではない。実は太郎を、浦島の子に 擬 ( なぞら ) えて、 潜 ( ひそか ) に思い上った 沙汰 ( さた ) なのであった。
湖を 遥 ( はるか ) に、 一廓 ( ひとくるわ ) 、彩色した竜の 鱗 ( うろこ ) のごとき、湯宿々々の、壁、柱、 甍 ( いらか ) を中に隔てて、いまは 鉄鎚 ( てっつい ) の音、謡の声も聞えないが、出崎の 洲 ( す ) の 端 ( はた ) に、ぽッつりと、 烏帽子 ( えぼし ) の転がった形になって、あの船も、船大工も見える。木納屋の 苫屋 ( とまや ) は、さながらその 素袍 ( すおう ) の袖である。
――今しがた、この女が、細道をすれ違った時、 蕈 ( きのこ ) に敷いた葉を残した 笊 ( ざる ) を片手に、 行 ( ゆ ) く姿に、ふとその 手鍋 ( てなべ ) 提げた下界の天女の 俤 ( おもかげ ) を認めたのである。そぞろに声掛けて、「あの、 蕈 ( きのこ ) を、……三銭に売ったのか。」とはじめ聞いた。えんぶだごんの 価値 ( あたい ) でも説く事か、天女に対して、三銭也を口にする。……さもしいようだが、 対手 ( あいて ) が私だから仕方がない。「ええ、」と言うのに 押被 ( おっかぶ ) せて、「馬鹿々々しく安いではないか。」と義憤を起すと、せめて言いねの半分には買ってもらいたかったのだけれど、「旦那さんが見てであったしな。……」と何か、私に対して、値の押問答をするのが 極 ( きまり ) が悪くもあったらしい 口振 ( くちぶり ) で。……「失礼だが、世帯の 足 ( たし ) になりますか。」ときくと、そのつもりではあったけれど、まるで足りない。煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お 稲荷様 ( いなりさま ) のお 賽銭 ( さいせん ) に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、 縞目 ( しまめ ) の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、 撥袋 ( ばちぶくろ ) とも見えず 挟 ( はさま ) って、腰帯ばかりが 紅 ( べに ) であった。「姉さんの言い値ほどは、お手間を上げます。あの松原は松露があると、宿で聞いて、……客はたて込む、女中は忙しいし、……一人で出て来たが 覚束 ( おぼつか ) ない。ついでに、いまの(霜こし)のありそうな処へ案内して、一つでも二つでも取らして下さい、……私は 茸狩 ( たけがり ) が大好き。――」と言って、言ううちに我ながら思入って、感激した。
はかない恋の思出がある。
もう 疾 ( とく ) に、 余所 ( よそ ) の 歴 ( れっ ) きとした奥方だが、その私より年上の娘さんの頃、秋の山遊びをかねた茸狩に連立った。男、女たちも大勢だった。茸狩に 綺羅 ( きら ) は要らないが、山深く分入るのではない。重箱を持参で 茣蓙 ( ござ ) に 毛氈 ( もうせん ) を敷くのだから、いずれも身ぎれいに装った。中に、 襟垢 ( えりあか ) のついた見すぼらしい、母のない 児 ( こ ) の手を、娘さん――そのひとは、 厭 ( いと ) わしげもなく、親しく 曳 ( ひ ) いて坂を上ったのである。 衣 ( きぬ ) の香に包まれて、藤紫の雲の 裡 ( うち ) に、何も見えぬ。冷いが、時めくばかり、優しさが頬に触れる袖の上に、月影のような青地の帯の輝くのを見つつ、心も空に山路を 辿 ( たど ) った。やがて皆、谷々、峰々に散って 蕈 ( きのこ ) を求めた。かよわいその人の、一人、毛氈に端坐して、城の見ゆる町を 遥 ( はるか ) に、開いた丘に、少しのぼせて、羽織を脱いで、 蒔絵 ( まきえ ) の重に片袖を掛けて、ほっと 憩 ( やす ) らったのを見て、少年は谷に下りた。が、何を 秘 ( かく ) そう。その人のいま居る 背後 ( うしろ ) に、 一本 ( ひともと ) の松は、我がなき母の塚であった。
向った丘に、もみじの中に、昼の月、虚空に澄んで、 月天 ( がってん ) の 御堂 ( みどう ) があった。――幼い私は、人界の 茸 ( きのこ ) を忘れて、草がくれに、 偏 ( ひとえ ) に世にも美しい人の姿を仰いでいた。
弁当に 集 ( あつま ) った。 吸筒 ( すいづつ ) の酒も開かれた。「関ちゃん――関ちゃん――」私の名を、――誰も呼ぶもののないのに、その人が優しく呼んだ。刺すよと知りつつも、 引 ( ひッ ) つかんで声を 堪 ( こら ) えた、 茨 ( いばら ) の枝に胸のうずくばかりなのをなお忍んだ――これをほかにしては、もうきこえまい……母の呼ぶと思う、なつかしい声を、いま一度、もう一度、くりかえして聞きたかったからであった。「 打棄 ( うっちゃ ) っておけ、もう、食いに出て来る。」私は 傍 ( そば ) の男たちの、しか言うのさえ聞える近まにかくれたのである。草を 噛 ( か ) んだ。草には露、目には涙、 縋 ( すが ) る土にもしとしとと、もみじを映す糸のような 紅 ( くれない ) の清水が流れた。「関ちゃん――関ちゃんや――」澄み 透 ( とお ) った空もやや 翳 ( かげ ) る。……もの案じに声も曇るよ、と思うと、その人は、たけだちよく、高尚に、すらりと立った。――この時、 日月 ( じつげつ ) を外にして、その丘に、気高く立ったのは、その人ただ一人であった。草に縋って泣いた虫が、いまは 堪 ( たま ) らず 蟋蟀 ( こおろぎ ) のように飛出すと、するすると絹の音、 颯 ( さっ ) と 留南奇 ( とめき ) の香で、もの 静 ( しずか ) なる人なれば、せき心にも乱れずに、 衝 ( つ ) と白足袋で 氈 ( かも ) を 辷 ( すべ ) って肩を抱いて、「まあ、 可 ( よ ) かった、怪我をなさりはしないかと姉さんは心配しました。」少年はあつい涙を知った。
やがて、世の 状 ( さま ) とて、絶えてその人の 俤 ( おもかげ ) を見る事の出来ずなってから、心も魂もただ 憧憬 ( あこがれ ) に、家さえ、町さえ、霧の中を、夢のように ※※ ( さまよ ) った。
―― 故郷 ( ふるさと ) の大通りの辻に、 老舗 ( しにせ ) の書店の軒に、土地の新聞を、日ごとに額面に 挿 ( はさ ) んで掲げた。 表 ( おもて ) 三の面上段に、絵入りの続きもののあるのを、ぼんやりと 彳 ( たたず ) んで見ると、さきの運びは分らないが、ちょうど思合った若い男女が、山に 茸狩 ( たけがり ) をする場面である。私は一目見て顔がほてり、胸が躍った。――題も忘れた、いまは 朧気 ( おぼろげ ) であるから何も言うまい。……その恋人同士の、人目のあるため、左右の谷へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、 巌 ( いわ ) に遮られ、樹に包まれ、 兇漢 ( くせもの ) に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……がある……! が重る。――私は 夜 ( よ ) も寝られないまで、翌日の日を待ちあぐみ、日ごとにその新聞の前に立って読み 耽 ( ふけ ) った。が、三日、五日、六日、七日になっても、まだその二人は谷と谷を隔てている。!……も、――も、丶も、邪魔なようで 焦 ( じれ ) ったい。が、しかしその一つ一つが、 峨々 ( がが ) たる 巌 ( いわお ) 、 森 ( しん ) とした 樹立 ( こだち ) に見えた。 丶 ( くとう ) さえ深く刻んだ谷に見えた。……赤新聞と言うのは 唯今 ( ただいま ) でもどこかにある……土地の、その新聞は紙が青かった。それが澄渡った秋深き空のようで、文字は 一 ( ひとつ ) ずつもみじであった。作中の娘は、わが恋人で、そして、とぼんと立って読むものは小さな 茸 ( きのこ ) のように思われた。――石になった恋がある。少年は茸になった。「関弥。」ああ、勿体ない。……余りの様子を、案じ案じ捜しに出た父に、どんと背中を 敲 ( たた ) かれて、ハッと思った私は、新聞の中から、 天狗 ( てんぐ ) の 翼 ( はね ) をこぼれたようにぽかんと落ちて、世に返って、 往来 ( ゆきき ) の人を見、車を見、且つ屋根越に遠く我が家の町を見た。――なつかしき茸狩よ。
二十年あまり、かくてその後、茸狩らしい真似をさえする機会がなかったのであった。
「……おともしますわ。でも、大勢で取りますから、 茸 ( きのこ ) があればいいんですけど……」
湯の町の女は、先に立って導いた。……
湖のなぐれに道を 廻 ( めぐ ) ると、松山へ続く 畷 ( なわて ) らしいのは、ほかほかと土が白い。草のもみじを、嫁菜のおくれ咲が彩って、 枯蘆 ( かれあし ) に陽が透通る。……その中を、飛交うのは、 琅※ ( ろうかん )
のような 螽 ( いなご ) であった。一つ、別に、この畷を挟んで、大なる潟が 湧 ( わ ) いたように、刈田を沈め、 鳰 ( かいつぶり ) を浮かせたのは一昨日の 夜 ( よ ) の暴風雨の 余残 ( なごり ) と聞いた。蘆の穂に、橋がかかると渡ったのは、横に流るる川筋を、一つらに 渺々 ( びょうびょう ) と 汐 ( しお ) が満ちたのである。水は光る。
橋の 袂 ( たもと ) にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は 陽炎 ( かげろう ) のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き 下 ( くだ ) っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。
一筋の道は、湖の 只中 ( ただなか ) を霞の渡るように思われた。
汽車に乗って、がたがた来て、一泊 幾干 ( いくら ) の浦島に取って見よ、この姫君さえ 僭越 ( せんえつ ) である。
「ほんとうに太郎と言います、太郎ですよ。――姉さんの名は?……」
「…………」
「姉さんの名は?……」
女は幾度も口籠りながら、 手拭 ( てぬぐい ) の端を 俯目 ( ふしめ ) に 加 ( くわ ) えて、
「 浪路 ( なみじ ) 。……」
と言った。
――と言うのである。…… 読者諸君 ( みなさん ) 、女の名は浪路だそうです。
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