University of Virginia Library

(七)

 「まだか」、この名は村中に恐怖を ( ) いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ ( とう ) ( むかし ) に仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人もなくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させてくれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する事を ( てい ) よく避けた。笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。 ( すべ ) て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。

 仁右衛門は 押太 ( おしぶ ) とく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうとはしなかった。彼れの後悔しているものは 博奕 ( ばくち ) だけだった。来年からそれにさえ手を出さなければ、そして今年同様に働いて今年同様の手段を取りさえすれば、三、四年の間に一かど ( まと ) まった金を作るのは何でもないと思った。いまに見かえしてくれるから――そう思って彼れは冬を迎えた。

 しかし考えて見ると色々な困難が彼れの前には ( よこた ) わっていた。食料は一冬事かかぬだけはあっても、金は哀れなほどより貯えがなかった。馬は競馬以来廃物になっていた。冬の間 ( かせ ) ぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から追立てを喰うのは知れ切っていた。といって小屋に居残れば居食いをしている ( ほか ) はないのだ。来年の 種子 ( たね ) さえ工面のしようのないのは今から知れ切っていた。

  焚火 ( たきび ) にあたって、きかなくなった馬の前脚をじっと見つめながらも考えこんだまま暮すような日が幾日も続いた。

 佐藤をはじめ彼れの 軽蔑 ( けいべつ ) し切っている場内の小作者どもは、おめおめと小作料を 搾取 ( しぼりと ) られ、商人に重い前借をしているにもかかわらず、とにかくさした 屈托 ( くったく ) もしないで冬を迎えていた。相当の雪囲いの出来ないような小屋は一つもなかった。貧しいなりに集って酒も飲み合えば、助け合いもした。仁右衛門には人間がよってたかって彼れ一人を敵にまわしているように見えた。

 冬は遠慮なく進んで行った。見渡す大空が先ず雪に埋められたように 何所 ( どこ ) から何所まで真白になった。そこから雪は 滾々 ( こんこん ) としてとめ度なく降って来た。人間の哀れな敗残の跡を物語る畑も、勝ちほこった自然の領土である森林も等しなみに雪の下に埋れて行った。一夜の ( うち ) に一尺も二尺も積り重なる日があった。小屋と木立だけが空と地との間にあって汚ない 斑点 ( しみ ) だった。

 仁右衛門はある日膝まで 這入 ( はい ) る雪の中をこいで事務所に出かけて行った。いくらでもいいから馬を買ってくれろと頼んで見た。帳場はあざ笑って脚の立たない馬は、金を喰う機械見たいなものだといった。そして 竹箆返 ( しっぺがえ ) しに 跡釜 ( あとがま ) が出来たから小屋を立退けと ( せま ) った。愚図愚図していると今までのような煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ 倶知安 ( くっちゃん ) からでも頼んで処分するからそう思えともいった。仁右衛門は帳場に物をいわれると妙に 向腹 ( むかっぱら ) が立った。鼻をあかしてくれるから見ておれといい捨てて小屋に帰った。

 金を喰う機械――それに違いなかった。仁右衛門は 不愍 ( ふびん ) さから今まで馬を生かして置いたのを後悔した。彼れは雪の中に馬を引張り出した。老いぼれたようになった馬はなつかしげに主人の手に鼻先きを持って行った。仁右衛門は右手に隠して持っていた ( おの ) 眉間 ( みけん ) を喰らわそうと思っていたが、どうしてもそれが出来なかった。彼れはまた馬を ( ) いて小屋に帰った。

 その翌日彼れは身仕度をして 函館 ( はこだて ) に出懸けた。彼れは場主と 一喧嘩 ( ひとけんか ) して笠井の 仕遂 ( しおお ) せなかった小作料の軽減を実行させ、自分も農場にいつづき、小作者の感情をも柔らげて少しは自分を居心地よくしようと思ったのだ。彼れは汽車の中で自分のいい分を十分に考えようとした。しかし列車の中の沢山の人の顔はもう彼れの心を不安にした。彼れは敵意をふくんだ眼で一人一人 ( ) めつけた。

 函館の停車場に着くと彼はもうその建物の宏大もないのに ( きも ) をつぶしてしまった。 不恰好 ( ぶかっこう ) な二階建ての板家に過ぎないのだけれども、その一本の柱にも彼れは驚くべき費用を想像した。彼れはまた雪のかきのけてある広い往来を見て驚いた。しかし彼れの誇りはそんな事に敗けてはいまいとした。 ( やや ) ともするとおびえて胸の中ですくみそうになる心を励まし励まし彼れは巨人のように 威丈高 ( いたけだか ) にのそりのそりと道を歩いた。人々は振返って自然から今切り取ったばかりのようなこの男を見送った。

 やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から想像していたのとは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れはつまごを脱いでから、我れにもなく 手拭 ( てぬぐい ) を腰から抜いて足の裏を 綺麗 ( きれい ) に押拭った。澄んだ水の表面の ( ほか ) に、自然には決してない滑らかに光った板の間の上を、彼れは気味の悪い冷たさを感じながら、奥に案内されて行った。美しく着飾った女中が主人の部屋の ( ふすま ) をあけると、 息気 ( いき ) のつまるような強烈な不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の中は夏のように暑かった。

 板よりも固い畳の上には所々に獣の皮が敷きつめられていて、 障子 ( しょうじ ) に近い大きな白熊の毛皮の上の盛上るような 座蒲団 ( ざぶとん ) の上に、はったん 褞袍 ( どてら ) を着こんだ場主が、 大火鉢 ( おおひばち ) に手をかざして 安座 ( あぐら ) をかいていた。仁右衛門の姿を見るとぎろっ ( にら ) みつけた眼をそのまま床の方に振り向けた。仁右衛門は場主の 一眼 ( ひとめ ) でどやし付けられて這入る事も得せずに ( しりご ) みしていると、場主の眼がまた床の間からこっちに帰って来そうになった。仁右衛門は二度睨みつけられるのを恐れるあまりに、無器用な足どりで畳の上ににちゃっにちゃっと音をさせながら場主の鼻先きまでのそのそ歩いて行って、出来るだけ小さく窮屈そうに坐りこんだ。

 「何しに来た」

 底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口に ( くわ ) えて青い煙をほがらかに吹いていた。そこからは 気息 ( いき ) づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん 刺戟 ( しげき ) した。

 「小作料の一文も納めないで、どの ( つら ) 下げて 来臭 ( きくさ ) った。来年からは魂を入れかえろ。そして辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して来い。馬鹿」

 そして部屋をゆするような 高笑 ( たかわらい ) が聞こえた。仁右衛門が自分でも分らない事を寝言のようにいうのを、始めの間は聞き直したり、補ったりしていたが、やがて場主は堪忍袋を切らしたという風にこう 怒鳴 ( どな ) ったのだ。仁右衛門は高笑いの一とくぎりごとに、たたかれるように頭をすくめていたが、辞儀もせずに夢中で立上った。彼れの顔は部屋の暑さのためと、のぼせ上ったために湯気を出さんばかり赤くなっていた。

 仁右衛門はすっかり 打摧 ( うちくだ ) かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の 頑丈 ( がんじょう ) そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は 気息 ( いき ) 苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は ( やや ) ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら ( ) れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして 唯呆 ( ただあき ) れて黙って考えこんでしまった。

  粗朶 ( そだ ) がぶしぶしと ( ) ぶるその 向座 ( むこうざ ) には、妻が 襤褸 ( ぼろ ) につつまれて、髪をぼうぼうと乱したまま、愚かな眼と口とを 節孔 ( ふしあな ) のように開け放してぼんやり坐っていた。しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻の ( ひざ ) の上には赤坊もいなかった。

 その晩から天気は激変して 吹雪 ( ふぶき ) になった。 翌朝 ( あくるあさ ) 仁右衛門が眼をさますと、吹き込んだ雪が足から腰にかけて ( うっす ) ら積っていた。鋭い口笛のようなうなりを立てて吹きまく風は、小屋をめきりめきりとゆすぶり立てた。風が 小凪 ( おな ) ぐと 滅入 ( めい ) るような静かさが 囲炉裡 ( いろり ) まで ( せま ) って来た。

 仁右衛門は朝から酒を欲したけれども一滴もありようはなかった。寝起きから妙に思い入っているようだった彼れは、何かのきっかけに勢よく立ち上って、 ( おの ) を取上げた。そして馬の前に立った。馬はなつかしげに鼻先きをつき出した。仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしく ( ) でていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその 眉間 ( みけん ) に打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹に ( こた ) えて、馬は声も立てずに前膝をついて横倒しにどうと倒れた。 痙攣的 ( けいれんてき ) に後脚で ( ) るようなまねをして、潤みを持った眼は 可憐 ( かれん ) にも何かを見詰めていた。

 「やれ怖い事するでねえ、 ( いた ) ましいまあ」

 すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。

 「黙れってば。物いうと ( ) れもたたき殺されっぞ」

 仁右衛門は殺人者が生き残った者を脅かすような低い 皺枯 ( しわが ) れた声でたしなめた。

 嵐が急にやんだように二人の心にはかーんとした沈黙が襲って来た。仁右衛門はだらんと下げた右手に斧をぶらさげたまま、妻は 雑巾 ( ぞうきん ) のように汚い 布巾 ( ふきん ) を胸の所に押しあてたまま、 ( はばか ) るように顔を見合せて突立っていた。

 「ここへ ( ) う」

 やがて仁右衛門は ( うめ ) くように斧を 一寸 ( ちょっと ) 動かして妻を呼んだ。

 彼れは妻に手伝わせて馬の皮を ( ) ぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて 裸身 ( はだかみ ) にされて ( わら ) の上に堅くなって ( よこた ) わった。白い ( すじ ) と赤い肉とが無気味な ( しま ) となってそこに ( ) らされた。仁右衛門は皮を棒のように巻いて藁繩でしばり上げた。

 それから仁右衛門のいうままに妻は小屋の中を片付けはじめた。背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は 良人 ( おっと ) の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って ( すみ ) から隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままでつまごをはいた。妻が風呂敷を ( かぶ ) って荷を背負うと仁右衛門は後ろから助け起してやった。妻はとうとう身を震わして泣き出した。意外にも仁右衛門は叱りつけなかった。そして自分は大きな荷を軽々と背負い上げてその上に馬の皮を乗せた。二人は言い合せたようにもう一度小屋を見廻した。

 小屋の戸を開けると顔向けも出来ないほど雪が吹き込んだ。荷を背負って重くなった二人の体はまだ堅くならない白い泥の中に腰のあたりまで埋まった。

 仁右衛門は一旦 戸外 ( そと ) に出てから待てといって引返して来た。荷物を背負ったままで、彼れは藁繩の片っ方の端を囲炉裡にくべ、もう一つの端を壁際にもって行ってその上に ( こまか ) く刻んだ馬糧の藁をふりかけた。

 天も地も一つになった。 ( さっ ) と風が吹きおろしたと思うと、積雪は自分の方から舞い上るように舞上った。それが横なぐりに ( なび ) いて矢よりも早く空を飛んだ。佐藤の小屋やそのまわりの木立は見えたり隠れたりした。風に向った二人の半身は ( たちま ) ち白く染まって、細かい針で絶間なく刺すような 刺戟 ( しげき ) は二人の顔を真赤にして感覚を失わしめた。二人は 睫毛 ( まつげ ) に氷りつく雪を打振い打振い雪の中をこいだ。

 国道に出ると雪道がついていた。踏み堅められない深みに落ちないように仁右衛門は先きに立って瀬踏みをしながら歩いた。大きな荷を背負った二人の姿はまろびがちに少しずつ動いて行った。共同墓地の下を通る時、妻は手を合せてそっちを拝みながら歩いた――わざとらしいほど高い声を挙げて泣きながら。二人がこの村に 這入 ( はい ) った時は一頭の馬も持っていた。一人の赤坊もいた。二人はそれらのものすら自然から奪い去られてしまったのだ。

 その辺から人家は絶えた。吹きつける雪のためにへし折られる枯枝がややともすると投槍のように襲って来た。吹きまく風にもまれて木という木は魔女の髪のように乱れ狂った。

 二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ 倶知安 ( くっちゃん ) の方に動いて行った。

  椴松帯 ( とどまつたい ) が向うに見えた。 ( すべ ) ての ( ) が裸かになった中に、この樹だけは 幽鬱 ( ゆううつ ) な暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天を ( ) いて、 怒濤 ( どとう ) のような風の音を ( ) めていた。二人の男女は ( あり ) のように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。

(一九一七、六、一三、鶏鳴を聞きつつ 擱筆 ( かくひつ )