University of Virginia Library

(六)

 狂暴な仁右衛門は赤坊を ( ) くしてから手がつけられないほど狂暴になった。その狂暴を募らせるように ( はげ ) しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が 片端 ( かたっぱし ) から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。

 一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向きもしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、 捨鉢 ( すてばち ) な気分になって、馬の売買にでも多少の ( もうけ ) を見ようとしたから、前景気は思いの ( ほか ) 強かった。当日には近村からさえ見物が来たほど ( にぎ ) わった。丁度農場事務所裏の 空地 ( あきち ) に仮小屋が建てられて、 ( つめ ) まで磨き上げられた耕馬が三十頭近く集まった。その中で仁右衛門の出した馬は殊に人の眼を ( ) いた。

 その翌日には競馬があった。場主までわざわざ 函館 ( はこだて ) からやって来た。屋台店や見世物小屋がかかって、祭礼に通有な香のむしむしする間を着飾った娘たちが、 刺戟 ( しげき ) の強い色を 振播 ( ふりま ) いて歩いた。

 競馬場の ( らち ) の周囲は人垣で埋った。三、四軒の農場の主人たちは決勝点の所に一段高く 桟敷 ( さじき ) をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に奉公していたのだ。父に似て 細面 ( ほそおもて ) の彼女は函館の生活に磨きをかけられて、この辺では際立って 垢抜 ( あかぬ ) けがしていた。競馬に加わる若い者はその妙齢な娘の前で手柄を見せようと争った。 他人 ( ひと ) ( めかけ ) に目星をつけて何になると皮肉をいうものもあった。

 何しろ競馬は非常な景気だった。勝負がつく度に揚る 喝采 ( かっさい ) の声は乾いた空気を伝わって、人々を家の内にじっとさしては置かなかった。

 仁右衛門はその頃 博奕 ( ばくち ) ( ふけ ) っていた。始めの ( うち ) はわざと負けて見せる博徒の手段に 甘々 ( うまうま ) と乗せられて、勢い込んだのが失敗の ( もと ) で、深入りするほど損をしたが、損をするほど深入りしないではいられなかった。亜麻の収利は ( とう ) の昔にけし飛んでいた。それでも馬は 金輪際 ( こんりんざい ) 売る気がなかった。 ( あま ) す所は 燕麦 ( からすむぎ ) があるだけだったが、これは 播種時 ( たねまきどき ) から事務所と契約して、事務所から一手に陸軍 糧秣廠 ( りょうまつしょう ) に納める事になっていた。その方が競争して商人に売るのよりも割がよかったのだ。商人どもはこのボイコットを 如何 ( どう ) して見過していよう。彼らは農家の戸別訪問をして糧秣廠よりも遙かに高価に引受けると勧誘した。糧秣廠から買入代金が下ってもそれは一応事務所にまとまって下るのだ。その中から小作料だけを差引いて小作人に渡すのだから、農場としては小作料を回収する上にこれほど便利な事はない。小作料を払うまいと決心している仁右衛門は馬鹿な話だと思った。彼れは腹をきめた。そして競馬のために人の注意がおろそかになった機会を見すまして、商人と結托して、事務所へ廻わすべき燕麦をどんどん商人に渡してしまった。

 仁右衛門はこの取引をすましてから競馬場にやって来た。彼れは自分の馬で競走に加わるはずになっていたからだ。彼れは裸乗りの名人だった。

 自分の番が来ると彼れは ( くら ) も置かずに自分の馬に乗って出て行った。人々はその馬を見ると敬意を払うように互にうなずき合って今年の ( せり ) では一番物だと ( ) め合った。仁右衛門はそういう 私語 ( ささやき ) を聞くといい気持ちになって、いやでも勝って見せるぞと思った。六頭の馬がスタートに近づいた。さっと旗が降りた時仁右衛門はわざと出おくれた。彼れは ( ほか ) の馬の跡から 内埒 ( うちわ ) へ内埒へとよって、少し 手綱 ( たづな ) を引きしめるようにして ( ) けさした。ほてった彼の顔から耳にかけて ( ほこり ) を含んだ風が 息気 ( いき ) のつまるほどふきかかるのを彼れは快く思った。やがて 馬場 ( ばば ) を八分目ほど廻った頃を ( はか ) って手綱をゆるめると馬は思い存分 ( くび ) を延ばしてずんずんおくれた馬から抜き出した。彼れが ( むち ) あおりで馬を責めながら最初から目星をつけていた先頭の馬に追いせまった時には決勝点が近かった。彼れはいらだってびしびしと鞭をくれた。始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような 喚呼 ( かんこ ) が夢中になった彼れの耳にも明かに ( ひび ) いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然 桟敷 ( さじき ) の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと ( らち ) の中へ 這入 ( はい ) った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に 固唾 ( かたず ) を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の 華手 ( はで ) な着物に驚いたのか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に飛び上って、やがて ( たた ) きつけられるように地面に転がっていた。彼れは 気丈 ( きじょう ) にも転がりながらすっくと起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛んで行った。馬はまだ起きていなかった。 後趾 ( あとあし ) で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れてしまった。訓練のない見物人は ( うしお ) のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。

 仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は 惘然 ( ぼんやり ) したまま、 不思議相 ( ふしぎそう ) な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる ( ほか ) はなかった。

 獣医の心得もある 蹄鉄屋 ( ていてつや ) の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり ( みち ) の小石を二つ三つ ( つか ) んで入口の 硝子 ( ガラス ) ( ) にたたきつけた。三枚ほどの硝子は 微塵 ( みじん ) にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは 悠々 ( ゆうゆう ) としてまたそこを歩み去った。

 彼れが気がついた時には、 何方 ( どっち ) をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり 河面 ( かわづら ) を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような 渦紋 ( かもん ) を描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとその ( たわむ ) れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。 ( すべ ) ての事が 他人事 ( ひとごと ) のように順序よく手に取るように記憶に ( よみがえ ) った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸はぷっつり切れてしまった。彼れはそこの所を幾度も無関心に繰返した。笠井の娘――笠井の娘――笠井の娘がどうしたんだ――彼れは自問自答した。段々眼がかすんで来た。笠井の娘……笠井……笠井だな馬を 片輪 ( かたわ ) にしたのは。そう考えても笠井は彼れに全く関係のない人間のようだった。その名は彼れの感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに落ちてしまった。

 彼れは夜中になってからひょっくり小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の香がした。それを ( ) ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつまらない現実に帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さした。もし妻に 怪我 ( けが ) でもあったのではなかったか――彼れは ( ) の消えて 真闇 ( まっくら ) な小屋の中を手さぐりで妻を尋ねた。眼をさまして起きかえった妻の気配がした。

 「今頃まで 何所 ( どこ ) さいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。 ( いたわ ) しい事べおっびろげてはあ」

 妻は眠っていなかったようなはっきりした声でこういった。彼れは闇に慣れて来た眼で小屋の 片隅 ( かたすみ ) をすかして見た。馬は前脚に重味がかからないように、腹に ( むしろ ) をあてがって胸の所を ( はり ) からつるしてあった。両方の 膝頭 ( ひざがしら ) は白い切れで巻いてあった。その白い色が ( すべ ) て黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない 囲炉裡 ( いろり ) の前に、 草鞋 ( わらじ ) ばきで頭を垂れたまま 安座 ( あぐら ) をかいた。馬もこそっとも音をさせずに黙っていた。蚊のなく声だけが空気のささやきのようにかすかに聞こえていた。仁右衛門は膝頭で腕を組み合せて、寝ようとはしなかった。馬と彼れは互に憐れむように見えた。

 しかし翌日になると彼れはまたこの打撃から跳ね返っていた。彼れは前の通りな狂暴な彼れになっていた。彼れはプラオを売って金に代えた。雑穀屋からは、 燕麦 ( からすむぎ ) が売れた時事務所から直接に代価を支払うようにするからといって、麦や大豆の前借りをした。そして馬力を頼んでそれを自分の小屋に運ばして置いて、 賭場 ( とば ) に出かけた。

 競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は松川の所に帰って来なかった。こんな晩に若い男女が畑の奥や森の中に姿を隠すのは珍らしい事でもないので初めの ( うち ) は打捨てておいたが、余りおそくなるので、笠井の小屋を尋ねさすとそこにもいなかった。笠井は驚いて飛んで来た。しかし広い山野をどう探しようもなかった。夜のあけあけに大捜索が行われた。娘は 河添 ( かわぞい ) 窪地 ( くぼち ) の林の中に失神して倒れていた。正気づいてから聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って 残虐 ( ざんぎゃく ) を極めた ( はず ) かしめかたをしたのだと ( わか ) った。笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の 硝子 ( ガラス ) を広岡がこわすのを見たという者が出て来た。

 犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな 田舎 ( いなか ) にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは 皆目 ( かいもく ) つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広岡の馬を ( つまず ) かしたのは間接ながら笠井の娘の 仕業 ( しわざ ) だった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが広岡は小屋にいなかった。その晩広岡を村で見かけたものは一人もなかった。賭場にさえいなかった。仁右衛門に不利益な色々な事情は色々に数え上げられたが、具体的な証拠は少しも上らないで夏がくれた。

 秋の収穫時になるとまた雨が来た。乾燥が出来ないために、折角 ( みの ) ったものまで腐る始末だった。小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが無益だった。彼らは ( あん ) ( じょう ) 燕麦 売揚 ( うりあげ ) 代金の中から厳密に小作料を控除された。来春の 種子 ( たね ) は愚か、冬の間を支える食料も満足に得られない農夫が沢山出来た。

 その間にあって仁右衛門だけは燕麦の事で事務所に破約したばかりでなく、一文の小作料も納めなかった。綺麗に納めなかった。始めの間帳場はなだめつすかしつして幾らかでも納めさせようとしたが、 如何 ( どう ) しても応じないので、財産を差押えると 威脅 ( おどか ) した。仁右衛門は平気だった。押えようといって何を押えようぞ、小屋の代金もまだ事務所に納めてはなかった。彼れはそれを知りぬいていた。事務所からは最後の手段として多少の損はしても退場さすと迫って来た。しかし彼れは ( がん ) として動かなかった。ペテンにかけられた雑穀屋をはじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。