University of Virginia Library

(四)

 春の天気の順当であったのに反して、その年は六月の初めから寒気と 淫雨 ( いんう ) とが北海道を襲って来た。 旱魃 ( かんばつ ) 饑饉 ( ききん ) なしといい慣わしたのは水田の多い内地の事で、畑ばかりのK村なぞは雨の多い方はまだ仕やすいとしたものだが、その年の長雨には溜息を ( もら ) さない農民はなかった。

 森も畑も見渡すかぎり真青になって、 掘立小屋 ( ほったてごや ) ばかりが色を変えずに自然をよごしていた。 時雨 ( しぐれ ) のような寒い雨が閉ざし切った 鈍色 ( にびいろ ) の雲から 止途 ( とめど ) なく降りそそいだ。 低味 ( ひくみ ) 畦道 ( あぜみち ) に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から 真菰 ( まこも ) が長く延びて出た。 蝌斗 ( おたまじゃくし ) が畑の中を泳ぎ廻ったりした。 郭公 ( ほととぎす ) が森の中で淋しく ( ) いた。 小豆 ( あずき ) を板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが 小休 ( おや ) むと湿気を含んだ風が木でも草でも ( しぼ ) ましそうに寒く吹いた。

 ある日農場主が 函館 ( はこだて ) から来て集会所で寄合うという知らせが組長から廻って来た。仁右衛門はそんな事には 頓着 ( とんじゃく ) なく朝から 馬力 ( ばりき ) をひいて市街地に出た。運送店の前にはもう二台の馬力があって、脚をつまだてるようにしょんぼりと立つ 輓馬 ( ひきうま ) ( たてがみ ) は、幾本かの ( むち ) を下げたように雨によれて、その先きから水滴が絶えず落ちていた。馬の背からは水蒸気が立昇った。戸を開けて中に 這入 ( はい ) ると馬車追いを内職にする若い農夫が三人土間に 焚火 ( たきび ) をしてあたっていた。馬車追いをする位の農夫は農夫の中でも冒険的な気の荒い手合だった。彼らは顔にあたる焚火のほてりを手や足を挙げて防ぎながら、長雨につけこんで村に這入って来た 博徒 ( ばくと ) の群の噂をしていた。 ( ) ( ) げようとして這入り込みながら散々手を焼いて駅亭から追い立てられているような事もいった。

 「お前も一番乗って ( もう ) かれや」

とその中の一人は仁右衛門をけしかけた。店の中はどんよりと暗く湿っていた。仁右衛門は暗い顔をして ( つば ) をはき捨てながら、焚火の座に割り込んで黙っていた。ぴしゃぴしゃと 気疎 ( けうと ) 草鞋 ( わらじ ) の音を立てて、往来を通る者がたまさかにあるばかりで、この季節の ( にぎわ ) ( ) った様子は 何処 ( どこ ) にも見られなかった。帳場の若いものは筆を持った手を 頬杖 ( ほおづえ ) にして居眠っていた。こうして彼らは荷の来るのをぼんやりして二時間あまりも待ち暮した。聞くに堪えないような若者どもの馬鹿話も自然と陰気な気分に押えつけられて、 ( やや ) ともすると、沈黙と 欠伸 ( あくび ) が拡がった。

 「一はたりはたらずに」

 突然仁右衛門がそういって一座を見廻した。彼れはその珍らしい無邪気な微笑をほほえんでいた。一同は彼れのにこやかな顔を見ると、吸い寄せられるようになって、いう事をきかないではいられなかった。 ( むしろ ) が持ち出された。四人は 車座 ( くるまざ ) になった。一人は気軽く若い者の机の上から湯呑茶碗を持って来た。もう一人の男の腹がけの中からは 骰子 ( さい ) が二つ取出された。

 店の若い者が眼をさまして見ると、彼らは 昂奮 ( こうふん ) した声を押つぶしながら、 無気 ( むき ) になって勝負に ( ふけ ) っていた。若い者は 一寸 ( ちょっと ) 誘惑を感じたが気を取直して、

 「困るでねえか、そうした事 店頭 ( みせさき ) でおっ ( ぴろ ) げて」

というと、

 「困ったら積荷こと探して ( ) う」

と仁右衛門は取り合わなかった。

 昼になっても荷の回送はなかった。仁右衛門は自分からいい出しながら、面白くない勝負ばかりしていた。 何方 ( どっち ) に変るか自分でも分らないような気分が 驀地 ( まっしぐら ) に悪い方に傾いて来た。気を腐らせれば腐らすほど彼れのやまは外れてしまった。彼れはくさくさしてふいと座を立った。相手が何とかいうのを振向きもせずに店を出た。雨は 小休 ( おやみ ) なく降り続けていた。 昼餉 ( ひるげ ) の煙が重く地面の上を ( ) っていた。

 彼れはむしゃくしゃしながら馬力を引ぱって小屋の方に帰って行った。だらしなく降りつづける雨に草木も土もふやけ切って、空までがぽとりと地面の上に落ちて来そうにだらけていた。面白くない勝負をして 焦立 ( いらだ ) った仁右衛門の腹の中とは全く裏合せな ( ) ( ) らない景色だった。彼れは何か思い切った事をしてでも胸をすかせたく思った。丁度自分の畑の所まで来ると佐藤の 年嵩 ( としかさ ) の子供が三人学校の 帰途 ( かえり ) と見えて、荷物を ( はす ) に背中に背負って、頭からぐっしょり濡れながら、 近路 ( ちかみち ) するために畑の中を歩いていた。それを見ると仁右衛門は「待て」といって呼びとめた。振向いた子供たちは「まだか」の立っているのを見ると三人とも恐ろしさに顔の色を変えてしまった。殴りつけられる時するように腕をまげて目八分の所にやって、逃げ出す事もし得ないでいた。

 「 童子連 ( わらしづれ ) 何条 ( なじょう ) いうて 他人 ( ひと ) の畑さ踏み込んだ。百姓の 餓鬼 ( がき ) だに畑のう大事がる道知んねえだな。 ( ) う」

  仁王立 ( におうだ ) ちになって ( にら ) みすえながら彼れは 怒鳴 ( どな ) った。子供たちはもうおびえるように泣き出しながら ( ) ( ) ず仁右衛門の所に歩いて来た。待ちかまえた仁右衛門の鉄拳はいきなり十二ほどになる長女の ( ) せた ( ほお ) をゆがむほどたたきつけた。三人の子供は一度に痛みを感じたように声を挙げてわめき出した。仁右衛門は長幼の 容捨 ( ようしゃ ) なく手あたり次第に殴りつけた。

 小屋に帰ると妻は蓆の上にペッたんこに坐って馬にやる ( わら ) をざくりざくり切っていた。赤坊はいんちこの中で 章魚 ( たこ ) のような頭を 襤褸 ( ぼろ ) から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが ( みなぎ ) って、運送店の店先に ( くら ) べては何から何まで便所のように ( きたな ) かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐまた外に出た。雨は ( はだ ) まで ( ) ( とお ) ってぞくぞく寒かった。彼れの 癇癪 ( かんしゃく ) ( ) らにつのった。彼れはすたすたと佐藤の小屋に出かけた。が、ふと集会所に行ってる事に気がつくとその足ですぐ神社をさして急いだ。

 集会所には朝の ( うち ) から五十人近い小作者が集って場主の来るのを待っていたが、昼過ぎまで待ちぼけを ( ) わされてしまった。場主はやがて帳場を ( とも ) につれて厚い 外套 ( がいとう ) を着てやって来た。 上座 ( かみざ ) に坐ると 勿体 ( もったい ) らしく神社の方を向いて 拍手 ( かしわで ) を打って黙拝をしてから、居合わせてる者らには半分も解らないような事をしたり顔にいい聞かした。小作者らはけげんな顔をしながらも、場主の言葉が途切れると ( もっと ) もらしくうなずいた。やがて小作者らの要求が笠井によって提出せらるべき順番が来た。彼れは先ず親方は親で小作は子だと説き出して、小作者側の要求をかなり強くいい張った跡で、それはしかし無理な御願いだとか、物の解らない自分たちが考える事だからだとか、そんな事は先ず後廻しでもいい事だとか、自分のいい出した事を自分で打壊すような 添言葉 ( そえことば ) を付加えるのを忘れなかった。仁右衛門はちょうどそこに行き合せた。彼れは入口の 羽目板 ( はめいた ) に身をよせてじっと聞いていた。

 「こうまあ色々とお願いしたじゃからは、お互も心をしめて帳場さんにも迷惑をかけぬだけにはせずばなあ(ここで彼れは一同を見渡した様子だった)。『万国心をあわせてな』と天理教のお歌様にもある通り、 ( ) まった事は定まったようにせんとならんじゃが、多い中じゃに無理もないようなものの、亜麻などを親方、ぎょうさんつけたものもあって、まこと済まん次第じゃが、無理が通れば道理もひっこみよるで、なりませんじゃもし」

 仁右衛門は場規もかまわず畑の半分を亜麻にしていた。で、その言葉は彼れに対するあてこすりのように聞こえた。

 「今日なども顔を出しよらん 横道者 ( よこしまもの ) もありますじゃで……」

 仁右衛門は怒りのために耳がかァんとなった。笠井はまだ何か滑らかにしゃべっていた。

 場主がまだ何か訓示めいた事をいうらしかったが、やがてざわざわと人の立つ気配がした。仁右衛門は 息気 ( いき ) を殺して出て来る人々を ( うか ) がった。場主が帳場と一緒に、後から笠井に ( かさ ) をさしかけさせて出て行った。労働で若年の肉を ( きた ) えたらしい 頑丈 ( がんじょう ) な場主の姿は、 何所 ( どこ ) か人を ( はば ) からした。仁右衛門は笠井を ( にら ) みながら見送った。やや ( しば ) らくすると場内から急にくつろいだ談笑の声が起った。そして二、三人ずつ何か ( かた ) ( ) いながら小作者らは小屋をさして帰って行った。やや遅れて ( ) れもなく出て来たのは佐藤だった。小さな後姿は若々しくって 青年 ( あんこ ) のようだった。仁右衛門は木の葉のように震えながらずかずかと近づくと、突然後ろからその右の耳のあたりを殴りつけた。不意を ( くら ) って倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の 遠吠 ( とおぼえ ) を聞いた ( うさぎ ) のように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその人々を ( たて ) に取った。

 「 ( わり ) 乞食 ( ほいと ) 盗賊 ( ぬすっと ) か畜生か。よくも ( われ ) が餓鬼どもさ 教唆 ( しか ) けて 他人 ( ひと ) の畑こと踏み荒したな。 ( ) ちのめしてくれずに。 ( )

 仁右衛門は火の玉のようになって飛びかかった。当の二人と二、三人の 留男 ( とめおとこ ) とは ( まり ) になって赤土の泥の中をころげ廻った。折重なった人々がようやく二人を引分けた時は、佐藤は 何所 ( どこ ) かしたたか傷を負って死んだように青くなっていた。仲裁したものはかかり合いからやむなく、仁右衛門に付添って話をつけるために佐藤の小屋まで廻り道をした。小屋の中では佐藤の長女が ( すみ ) の方に丸まって痛い痛いといいながらまだ泣きつづけていた。 ( ) を間に置いて佐藤の妻と広岡の妻とはさし向いに ( ののし ) ( ) っていた。佐藤の妻は 安座 ( あぐら ) をかいて長い 火箸 ( ひばし ) を右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を ( ) み合せて猿のように ( くちびる ) の間からむき出しながら仁右衛門の前に立ちはだかって、飛び出しそうな怒りの眼で ( にら ) みつけた。物がいえなかった。いきなり火箸を振上げた。仁右衛門は他愛もなくそれを奪い取った。噛みつこうとするのを押しのけた。そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は 素跣 ( すはだし ) のまま仁右衛門の背に 罵詈 ( ばり ) を浴せながら 怒精 ( フューリー ) のようについて来た。そして小屋の前に立ちはだかって、 ( さえず ) るように半ば夢中で仁右衛門夫婦を罵りつづけた。

 仁右衛門は押黙ったまま 囲炉裡 ( いろり ) 横座 ( よこざ ) に坐って佐藤の妻の狂態を見つめていた。それは仁右衛門には意外の結果だった。彼れの気分は妙にかたづかないものだった。彼れは佐藤の妻の自分から突然離れたのを怒ったりおかしく思ったり ( おし ) んだりしていた。仁右衛門が取合わないので彼女はさすがに小屋の中には這入らなかった。そして 皺枯 ( しわが ) れた声でおめき叫びながら雨の中を帰って行ってしまった。仁右衛門の口の辺にはいかにも人間らしい皮肉な ( ゆが ) みが現われた。彼れは結局自分の 智慧 ( ちえ ) の足りなさを感じた。そしてままよと思っていた。

  ( すべ ) ての興味が全く去ったのを彼れは覚えた。彼れは少し疲れていた。始めて 本統 ( ほんとう ) の事情を知った妻から 嫉妬 ( しっと ) がましい 執拗 ( しつこ ) い言葉でも聞いたら少しの 道楽気 ( どうらくげ ) もなく、どれほどな残虐な事でもやり兼ねないのを知ると、彼れは少し自分の心を恐れねばならなかった。彼れは妻に物をいう機会を与えないために次から次へと命令を連発した。そして ( おそ ) い昼飯をしたたか喰った。がらっと ( はし ) ( ) くと泥だらけなびしょぬれな着物のままでまたぶらりと小屋を出た。この村に這入りこんだ博徒らの張っていた 賭場 ( とば ) をさして彼の足はしょう事なしに向いて行った。