University of Virginia Library

皷判官

凡京中には源氏の勢滿々て、在々所々に入取多し。賀茂、八幡の御領とも言はず、青田を刈て馬草にす。人の倉を打開て物を取り、持て通る物を奪取り、衣裳を剥取る。「平家の都におはせし時は、六波羅殿とて、唯おほかた怖しかりし計也。衣裳をはぐ迄はなかりし者を、平家に源氏替へ劣りしたり。」とぞ人申ける。木曾左馬頭の許へ法皇より御使在り。「狼藉靜めよ。」と仰せ下さる。御使は壹岐守知親が子に、壹岐判官知康と云ふ者也。天下に勝れたる鼓の上手で有ければ、時の人鼓判官とぞ申ける。木曾對面して、先づ御返事をば申さで、「抑和殿を鼓判官と云ふは、萬の人に打たれたうか、はられたうか。」とぞ問うたりける。知康返事に及ばず、院の御所に歸り參 て、「義仲嗚呼の者で候

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唯今朝敵に成候なんず。急ぎ追討せさせ給へ。」と申ければ、法皇軈て思召立せ給ひけり。さらば然るべき武士にも仰附られずして、山の座主寺の長吏に仰られて、山三井寺の惡僧共を召されけり。公卿殿上人の召されける勢と申は、向へ礫、印地、云甲斐なき辻冠者原、乞食法師どもなりけり。

木曾左馬頭院の御氣色惡うなると聞えしかば、始は木曾に隨うたりける五畿内の者共、皆背いて、院方へ參る。信濃源氏村上の三郎判官代是も木曾を背いて法皇へ參りけり。今井四郎申けるは、「是こそ以の外の御大事で候へ。さればとて十善帝王に向ひ參せて、如何でか御合戰候べき。甲を脱ぎ弓の弦を弛て、降人に參せ給へ。」と申せば、木曾大に怒て、「我信濃を出し時、小見、合田の戰より始めて、北國には、砥浪山、黒坂、鹽坂、篠原、西國には、福龍寺繩手、篠の迫、板倉が城を攻しかども、未だ敵に後を見せず。縱十善帝王にてましますとも、甲を脱ぎ弓の弦を弛いて降人にはえこそ參るまじけれ。譬へば都の守護して有ん者が、馬一疋づゝ飼て乘らざるべきか。幾らも有る田共刈せ馬草にせんを、強に法皇の咎め給ふべき樣や有る。兵粮米もなければ、冠者原共が、片邊に附て、時々入取せんは、何か強僻事ならん。大臣家や宮々の御所へも參らばこそ僻事ならめ。是は鼓判官が凶害と覺ゆるぞ。其鼓め打破て捨よ。今度は義仲が最後の軍にて有んずるぞ。頼朝がかへり聞んずる所も有り。軍ようせよ、者共。」とて打立けり。北國の勢ども皆落下て、僅に六七千騎ぞ有ける。我軍の吉例なればとて、七手に造る。先樋口次郎兼光二千餘騎で、新熊野の方へ搦手に差遣す。殘り六手は、各が居たらんずる條里小路より河原へ出で、七條河原にて一つになれと、相圖を定て出立けり。

軍は十一月十九日の朝也。院御所法住寺殿にも、軍兵二萬餘人參籠たる由聞えけり。御方の笠効には松の葉をぞ著たりける。木曾法住寺殿の西門に押寄せて見れば、鼓判官知康、軍の行事承て、赤地の錦の直垂に、鎧は態ど著ざりけり、甲計ぞ著たりける。甲には四天を書て押たりけり。御所の西の築垣の上に登て立たりけるが、片手には鉾を持ち、片手には金剛鈴を以て打振々々、時々は舞折も有けり。若き公卿殿上人「風情なし。知康には天狗ついたり。」とぞ笑はれける。知康大音聲を揚て、「昔は宣旨を向て讀ければ、枯たる草木も花咲き實生り惡鬼惡神も從ひけり。末代ならんからに、如何が十善の帝王に向ひ參せて、弓をば引くべき。汝等が放ん矢は、却て身にあたるべし。拔む太刀は、身を切べし。」などのゝしりければ、木曾「さな謂せそ。」とて、鬨をどと作る。

さる程に搦手に差し遣はしたる樋口次郎兼光新熊野の方より、鬨の聲をぞ合せたる。鏑の中に火を入て、法住寺殿の御所に射立てたりければ、折節風は烈しゝ、猛火天に燃上て、は虚空に隙もなし。軍の行事知康は、人より先に落にけり。行事が落つる上は、二萬餘人の官軍共、我先にとぞ落ゆきける。餘りに遽噪いで、弓取る者は矢を知らず、矢取る者は弓を知らず。或は長刀倒について、我足つきつらぬく者も有り、或は弓の弭物にかけて、えはづさで捨て迯る者も有り。七條が末は攝津國の源氏の固たりけるが、七條を西へ落て行く。兼て軍以前より「落人の在んずるをば用意して打殺せ。」と御所より披露せられたりければ、在洛の者共、屋根ゐに楯をつき、おそへの石を取聚て、待懸たる處に、攝津國源氏の落けるを、「あはや落人よ。」とて、石を拾かけ、散々に打ければ、「是は院方ぞ、過仕るな。」と云へども、「さな云せそ。院宣であるに、唯打殺せ/\。」とて打つ間、或は馬を捨て、はふ/\逃ぐる者もあり。或は打殺るゝ者もありけり。八條が末は山僧固めたりけるが、恥有る者は討死し、強顏者は落ぞ行く。

主水正親成、薄青の狩衣の下に、萠黄威の腹卷を著て白葦毛なる馬に乘り、河原を上りに落てゆく。今井四郎兼平追懸て、しや頸の骨を射落す。清大外記頼業が子なりけり。「明經道の博士、甲冑を鎧ふ事然るべからず。」とぞ人申ける。木曾を背て、院方へ參たる信濃源氏、村上三郎判官代も討れけり。これを始めて院方には近江中將爲清、越前守信行も射殺されて頸取られぬ。伯耆守光長、子息判官光經父子共に討たれぬ。按察大納言資方卿の孫、播磨少將雅方も、鎧に立烏帽子で軍の陣へ出られたりけるが、樋口次郎に生捕にせられ給ぬ。天台座主明雲大僧正、寺の長吏圓慶法親王も、御所に參り籠らせ給たりけるが、黒煙既におしかけければ、御馬にめして、急ぎ河原へ出させ給ふ。武士共散々に射奉る。明雲大僧正、圓慶法親王も、御馬より射落されて、御頸取られさせ給ひけり。豐後國司刑部卿三位頼資卿も、御所に參り籠られたりけるが、火は既におしかけたり、急ぎ河原へ迯出給。武士の下部どもに衣裳皆剥取れて、眞裸で立れたり。十一月十九日の朝なれば、河原の風さこそすさまじかりけめ。三位こしうとに越前法橋性意といふ僧在り。其中間法師軍見んとて河原へ出たりけるが、三位の裸で立れたるに見合うて、「あな淺まし。」とて、走り寄る。此法師は白小袖二つに衣著たりけるが、さらば小袖をも脱で著せ奉れかし。さはなくて、衣を脱で投かけたり。短き衣空穗にほうかぶて、帶もせず。後さこそ見苦かりけめ。白衣なる法師供に具しておはしけるが、さらば急ぎも歩み給はで、あそこ爰に立留まり、「あれは誰が家ぞ。是は何者が宿所ぞ。爰は何くぞ。」と道すがら問はれければ、見る人皆手を叩て笑ひあへり。

法皇は御輿に召て他所へ御幸なる。武士ども散々に射奉る。豐後少將宗長木蘭地の直垂に折烏帽子で供奉せられたりけるが、「是は法皇の御幸ぞ。過ち仕るな。」と宣へば、兵ども皆馬より下て畏まる。「何者ぞ。」と御尋ありければ、信濃國の住人八島四郎行綱と名乘申。軈て御輿に手かけ參せ、五條内裡に押籠め奉り緊しう守護したてまつる。

主上は、池に舟を浮て召されけり。武士ども頻に矢を參せければ、七條侍從信清、紀伊守教光、御船に候はれけるが、「是は内の渡せ給ぞ。過仕るな。」と宣へば兵ども皆馬より下て畏る。閑院殿へ行幸なし奉る。行幸の儀式のあさましさ、申も中々愚なり。